Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第10章 Rosarium Conclave
第98話 Sacrifice -ハイブルグ-
陰鬱としたハイブルグの森に、一陣の風が吹き抜けていく。
まるでどす黒い絵の具で塗りつぶしたかのように鬱蒼とした暗い森であった。灯りは薄っすらと差し込む月光のみ。
互いに重なり合って奇妙な形に曲がりくねった木々の間から、ばさばさと音を立てながら蝙蝠達が飛び立っていく。
枯葉を巻き込みながら吹く風は、静かに振り返った青年の光沢のある青い髪を乱し、辺りは再び静寂に包まれる。
透き通るような白皙の肌。手足の長いしなやかな肢体。誰もが彼を美しいと称賛するであろう、美貌の青年だった。
だが長いまつげに縁取られたアイスブルーの瞳は硝子玉のように冷たく、感情というものが全く存在しなかった。
まるで心など初めから存在しない、意思の無き人形のような。……伯爵クウォルツェルトは、そんな青年であった。
立ち寄ったシルヴァラース古代図書館ではジャックという偽名を使用してまで悪魔族の歴史について調べていたが、
ふと目に入った『死者を腐敗させない儀式』と『夜の住人が完全に光に対して抗体を得る儀式』が妙に頭に残った。
誰かが昔よくこの儀式について口にしていたような気がする。勿論はっきりとは覚えていなかったが。
関連する約二百冊の文献を読み漁ったが、結局記憶に繋がるような手掛かりらしい手掛かりは見つからなかった。
彼はギョロイアと出会った四年前よりも昔の記憶がない。自分が一体誰なのか、名前すらも覚えてはいなかった。
記憶も何もない空っぽの人形である己でも、せめて過去の記憶だけは取り戻したいという思いだった。
最後の手掛かりは、ギョロイアだけである。……彼女ならばきっと何かを知っているだろう。そんな確証があった。
二度と戻ってくることはないと思っていたハイブルグ城。
己を縛り続けていた牢獄のような場所だったのかもしれない。それでも……ギョロイアが側にいれば、幸せだった。
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ティエル達に別れを告げてから、約一年以上の月日が経った。
過酷な状況下で旅を続けていたクウォーツだが、彼の容貌は疲労や重圧で全く衰えることも変わることもなかった。
あの日のまま。……彼だけが時間の流れから置き去りにされてしまったかのように、何一つ変わることはないのだ。
薄暗いハイブルグの森を城下町に向けてゆっくりと歩き続けていたクウォーツだったが、その歩みが静かに止まる。
人がいた。こんな時間、こんな場所で。……近隣の住人ですら、夜更けは決して立ち入ることのないこの森の道で。
一度は止めた足だが、再び進み始める。近付くにつれて、どうやらその相手がまだ幼い少女であることが分かった。
くるくるとした金色の巻き毛を、左右の高い位置で結った少女。曲がりくねった大きな木の根元で座り込んでいる。
少女の背後を通り過ぎようとしたとき。クウォーツはふと目線を彼女に向けた。
特に気になったわけではない。別に声を掛けようとしたわけでもない。ただ、気まぐれで視線を向けただけだった。
どこか押し殺したような嗚咽が響いている。幼い少女は肩を震わせながら、涙をぼろぼろと溢れさせていたのだ。
首を傾げたクウォーツが背後で足を止めても、少女は振り返ることもなく泣き続けている。
視線を彼女の手元に移動させてみると、どうやら泥で真っ黒に汚れているようだ。彼女の前にはまだ新しい土の山。
「何をしている」
背後から声を掛けると幼い少女はびくりとして泣き止んだ。やがて恐る恐るといった様子でクウォーツを振り返る。
場所は深夜の森の中。黙ったまま見下ろしている、人形めいたクウォーツの姿。正直生きた心地がしないだろう。
明るい町の中ですら等身大の人形のように見える彼の容姿は、暗い森の中で出会えばどれほどの恐怖なのだろうか。
しかし少女は大きな瞳をいっぱいに見開いたまま、その場から逃げ出すことも恐怖で叫び出すこともなかったのだ。
「……天使さま?」
「?」
「おにいちゃまは、天使さまなの? もしかして……ドロシーを迎えにきてくれたの?」
想像もしていなかった少女の言葉。
化け物。人を狂わせる魔物。忌み子。それらは数え切れないほど呼ばれてきたが、天使と呼ばれたのは初めてだ。
「ママが言っていたわ。死んだ子の魂は、天使さまが天国から迎えに来てくれるって。一緒に連れて行くんだって」
「……」
「天使さまはとても綺麗なひとで、透き通った薄青の瞳をしているんだって。きっと、おにいちゃまのことよね!」
「人違いだ」
「そんなことはないわ。だってあたし……あなたのような綺麗なひと、今まで見たことがないもの」
「ドロシーとは貴様のことか」
「ううん、違うわ。ドロシーはこの子よ、カナリアのドロシーちゃん。あたしの大切なお友達だったの。でも……」
「死んだのか」
「朝から元気がなかったの。夜になったら冷たくなってて……お墓に埋めに行こうって言ったら、ママが今度って」
盛り上がった土の傍らには小さな穴が開いており、中には横たわった黄色いカナリアの死体があった。
母親に同行を断られてしまった少女は一人で墓を作りに来たのだ。だがこんな夜更けに森を出歩くのは危険すぎる。
この魔の潜む森では何と出会ってもおかしくはない。現に彼女は悪魔族であるクウォーツと出会ってしまっている。
……クウォーツがもしも見境なく人を襲うヴァンパイアであったなら、彼女は今頃幼い命を失っていただろう。
「親はどうした」
「パパもママも大人たちはこのところずっと怖い顔をしているわ。だからあたし、あまりお話したくはなかったの」
「何かあったのか」
「ううん、分からないわ。でも暫く森には近付いちゃいけませんって言われたの」
「……」
両親から森に近付くなと言われても、それでも言い付けを破って少女が埋葬場所に森を選んだ理由は分からないが。
彼女は再びクウォーツに背を向けると、冷たくなったカナリアの死体の上から優しく土を被せ始める。
柔らかく湿り気のある土で小鳥の姿は段々と見えなくなっていく。両手を汚しながら少女は懸命に土を掬っている。
「ドロシーが天国でどうか幸せに暮らせますように。色とりどりのお花に囲まれて、今度こそ幸せに暮らせるよね」
「死んだ後のことは誰にも分からない」
「どうして? 天使さまがこうして迎えに来てくれたのだから、きっと幸せに暮らせるはずだわ」
「こいつが今まで幸せではなかったと何故言える」
感情というものがまるで存在しない声。無表情のまま歩み寄ったクウォーツは、静かに少女の隣で片膝を突いた。
「幸せの度合いは他人が決めるものではない」
「お願い教えて、天使のおにいちゃま。ドロシーは今まで幸せだったのかしら。……どうか幸せだったらいいな」
涙で潤んだ瞳で、完成したばかりの新しい墓を見つめる少女。ただ土が盛り上がっただけの実に簡素な墓であった。
勿論クウォーツは何も答えない。いくら問い掛けられても、答えは死んだカナリアにしか分からないのだ。
口を閉ざして暫く少女を眺めていたクウォーツだが、やがて背後に回していた左手を彼女に向かって差し出した。
彼の手には、赤い色をした数輪の花が握られていたのだ。
クウォーツから差し出された赤い花を暫く目を丸くしながら見つめていた少女の顔に、段々と笑顔が広がっていく。
涙を袖で拭うと、おずおずと両手を出して花を受け取った。残念なことに彼女には花の名前は分からなかったが。
「これを使って、少しは墓を飾ってやれ」
「やっぱりおにいちゃまは天使さまなんだわ。……だって、何もないところから綺麗なお花を出したんですもの!」
「……」
「ママの言い付けをきちんと守って、ずっといい子でいたら……あたしの時もおにいちゃまは迎えに来てくれる?」
「さあ、それは分からない」
実のところ、赤い花は少女から見えないように秘かに摘んでいただけである。手品でも奇跡でもなんでもなかった。
否定する気もすっかりと失せたクウォーツは立ち上がり、ドレスコートの裾をぱんぱんと叩いて土を払った。
「これで気が済んだか。早く家に帰れ、親に黙って抜け出してきたならば尚更」
「ええ、分かったわ。あたし、いい子になるって決めたもの」
「……」
「さようなら、天使のおにいちゃま。……きっと、また会えるわよね」
笑顔で手を振りながら走り去っていく少女。彼女の後ろ姿を眺めながら、馬鹿げた話だ、とクウォーツは一人呟く。
不安を煽るような葉の音を鳴らしつつ再び森を風が吹き抜けていった。
少女が走り去った方向。この暗い森の道を真っ直ぐに進み続けると、やがてハイブルグ城下町へと辿り着くだろう。
二年ほど前。
森で数々と起きる旅人の惨殺事件に決起した町人達が反乱を起こした町。城の者達に深い恨みを持つ者が住まう町。
黒ずんだ煉瓦の目立つ随分と古めかしい町だった。城と町との間には、決して交わることのない確執が続いている。
悪魔族と人間。それは決して相容れることのない、何があっても未来永劫交わることのない異質な存在であった。
暫くの間森を進んでいくと、あの頃と何も変わらない古い町が姿を現した。年季の入った黒い家が並ぶ陰気な町だ。
時刻は既に深夜であるにも拘らず、町の中心の噴水広場には暗い表情をした町人達が集っていたのだ。
町人の集団を目にしてもクウォーツは全く歩みを止めずに進み続ける。焦りも戸惑いも存在せず、ただ進んでいく。
静かな町に響き渡る、革靴の乾いた足音。
集って顔を見合わせていた町人達が、一人二人とその音に振り返り……目を見開いて硬直したように動きが止まる。
「……これはこれは。呑気に里帰りかよ、麗しきハイブルグ伯爵閣下」
硬直した集団の中から強張った顔付きで一人の男が前に進み出た。青年……いや、まだ少年と言った方が正しい。
短く逆立った茶色の髪。年若いながらも鍛えられた身体。ぎらぎらとした眼光。勿論クウォーツには見覚えがない。
ゆっくりと足を止めて振り返ったクウォーツの姿を瞳に映すと、少年はどこか忌々しそうに言葉を吐き捨てた。
「まさか生きているとは思わなかった。あんたは何一つ変わっていないんだな。あの頃のままだ……この化け物め」
「……」
「オレのことを忘れているならそれでもいい。一つだけ質問に答えろ、伯爵。今回の騒ぎはやっぱりお前が原因か」
「?」
「畜生、とぼけんな!」
「わざわざ確認する必要はねぇよシン、どう考えてもこの男の仕業に決まってるだろ!」
「本当に忌み事ばかりを運んでくる売女が!!」
突然『今回の騒ぎの原因か』などと問い掛けられても、クウォーツはハイブルグ城下町に辿り着いたばかりである。
身に覚えのないことを問い詰められても彼にはどうすることもできない。相手にせず、再び歩きだそうとするが。
当時は呪いの手枷によって全ての力を封じられ、無力な悪魔族であったクウォーツの姿しか知らない町人の一人が、
怒りの表情で飛び掛かってきたのだ。一見するとクウォーツは儚い印象が強く簡単に組み敷けそうな人物のためだ。
力任せに両手を伸ばしてくる男の姿を一瞥したクウォーツは、眉すら動かさずに突如ふいと横に避ける。
これほどの距離で避けられるとは思っていなかった男は、積み上げられた酒樽にそのまま頭から突っ込んでしまう。
……がしゃああん、と静かな夜に派手な音が響き渡った。
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