Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第10章 勇気の条件

第110話 煉瓦の町フィオレ -1-




大きく開け放たれたままの窓から滑り込んでくる早朝の涼しい風が、カーテンをふわふわと優しく揺らしていた。
掛け布団を完全に蹴り飛ばして眠っていたティエルは、あまりの寒さに思わず震える。
手探りで掛け布団を己に引き寄せ、頭から被るようにして丸くなる。その様子はベッドの上のかまくらのようだ。

そんな小さなかまくらが出来上がったベッドの隣では、ティエルに背を向けるような形でリアンが眠っていた。
眠い。その上肌寒い。このまま二度寝をしてしまおうか。ぼんやりとした意識の中で、ティエルは暫し思案する。
清々しい朝は大好きだ。だが、この起きる気力を根こそぎ奪ってしまう肌寒さはどうにかならないものだろうか。

まだメドフォードで暮らしていた頃は、暖炉の前に移動してから侍女に着替えさせてもらっていたものだった。
ティエルは寒がりなのね、と祖母ミランダの苦笑を浮かべた顔を思い出し、ティエルは無意識に笑みを浮かべる。
また、窓から冷たい風が吹く。このままではあっという間に時間が経過してしまいそうであった。


意を決したティエルは両腕に力を込めると、勢いよくベッドから飛び起きた。
椅子の背もたれに掛けていた分厚いカーディガンにさっと手を伸ばし、急いで羽織る。これで寒さは軽減された。
素足のまま窓辺に歩み寄ると、思い切って窓を完全に開け放つ。ひんやりとした霧がほんの少しだけ気持ちいい。

「ううう、冷た〜い!」

窓から眺める町は早朝の霧に包まれており、しんと静まり返っている。赤煉瓦の家々が並ぶ美しい街並みだった。
少々小高い場所に位置する宿屋の前には小さな広場があり、日中は訪れる旅人達で賑わっていた。
時刻は朝の五時。そんな時間に広場で語らう物好きな人間はおらず、やはり人影は見受けられな……いや、いた。

上半身の服を脱ぎ捨て、無駄な肉など一切見当たらない見事な筋肉を晒したサキョウである。
修行の一つなのだろうか。両手の平を胸の前で合わせながら目を閉じ、時折蹴りや突きを繰り出しているようだ。
彼の強靭な精神力は日々こうして積み上げられていくのだろうか。ならば見習わなくては、とティエルは思う。


「やっぱりサキョウは凄いな。どんな時も修行は欠かさないんだね」

寝癖で絡まってしまった長い髪を指で梳かしながら、ティエルは心の底から感心したような声を発した。
完全に目が覚めたティエルは、早速サキョウの元へ行くために部屋の扉を開ける。誰もいない薄暗い廊下だった。
隣はジハードとサキョウの二人が使用している部屋である。サキョウが閉め忘れたのか、扉が僅かに開いている。

中を覗いてみると、二つ並んだベッドの片方で熟睡しているジハードの姿が目に入った。
普段は余裕の笑みを浮かべて大人びた印象の強い彼であったが、枕を抱きしめながら眠る姿は普通の青年である。
ゾルディス国での戦いを終えた後も、ジハードは傷付いたティエル達に治癒魔法を使い続けて休む暇もなかった。

膨大な魔力を自負する彼だが、さすがに疲労を覚えたようで、暫くは魔法を使わずに過ごしたいと言っていた。


ティエル達の向かいに位置するクウォーツの部屋からも全く物音はしない。
彼は誰よりも遅く就寝し、誰よりも早く起床する。ティエルは彼が居眠りをしている姿を目にしたことがない。
相変わらず見た目の通り生活感のない青年だ。しかし普段ならば既に起床している時刻だが、扉は未だ開かない。

クウォーツが『暫く眠らせてもらう』と言って姿を現さなくなってから、既に一週間が過ぎた。
傷付き衰弱しきった身体を癒すため、悪魔族は稀に『眠りに入る』ことがあるのだとジハードが説明してくれた。
中には数十年間も眠り続ける悪魔族も存在するのだという。

そして目覚めさせるには口付けが必要なんだとジハードが言うと、リアンは顔を赤くさせながら硬直していた。
勿論、口付け云々はジハードの『少しお茶目な』冗談だったようで、時が来れば自然に目覚めるのだそうだ。
彼が言うと冗談に聞こえないのが困ったところである。性質が悪い男ですわとリアンがぶつぶつとぼやいていた。


悪夢のようなゾルディスから逃れて七日が過ぎた。
心身共にぼろぼろだったティエル達は心と体を癒すため、この煉瓦の町フィオレに暫く留まることに決めたのだ。
早朝から町を目指して延々と歩き続け、漸く町に足を踏み入れた時刻は既に夜であった。

血に濡れた惨状の面々だったが、夜の人通りの少なさと暗さに紛れて騒がれずに宿まで辿りつくことができた。
結果、驚かせたのは宿の主人と従業員達だけである。血が苦手な女性従業員はくらくらと目眩を起こしていたが、
大丈夫かい、とジハードが女性従業員を支えながら笑みを向けると、彼女は真っ赤になって何度も頷いていた。

この一週間外出といえば、足りないものを購入するために近くの雑貨屋に足を運んだのみである。
できれば今日辺りに町に繰り出したい。新しい町はわくわくする。未知なる体験がティエルを待っているのだ。


廊下の途中に位置する洗面所にも人の姿はない。そのまま洗面所を通り過ぎ、ティエルは階下へと足を向ける。
木々に囲まれた宿の前の小さな広場では、先程と同じようにサキョウは精神統一の真っ最中であった。
すうと朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだティエルは、元気よく手を振りながらサキョウへと駆け寄っていく。

「おはよう、サキョウ!」
「うむ、ティエルか。おはよう、今朝は一段と冷え込むなぁ……お前は体調を崩さぬように気を付けるのだぞ」
「わたしは風邪なんか引かないよー」
「そのくらいの元気があれば十分だな!」

ティエルの声に振り返ったサキョウは、彼女に向かって満面の笑みを浮かべながら親指を前に突き出してみせる。
まるで鋼の鎧のような見事な筋肉である。この筋肉を維持するために、サキョウは常に修行を欠かさなかった。
だがゾルディスで負った深い傷は完全には治っておらず、ジハードによって至る所にガーゼで処置がされている。


「傷、完全に治りきっていないのに……そんなに激しく動いても大丈夫なの?」
「休息はもう十分すぎるほど取ったしな。そろそろ出発に向けて身体を慣らしておかねばならん」
「そっかぁ……やっぱりモンク僧って努力の毎日なんだね。わたしもモンク僧に憧れてたけど、大変そうだな」
「わはは、お前ならば大丈夫だ! 敵討ちが終わり国を取り戻したら、もう一度ベムジンへ見学に来ればいい」

タオルを首にかけ、爽やかな笑顔を浮かべるサキョウ。
ジハードの(自称)天使の微笑みとはまた違った魅力を持つ、父性溢れる優しく包み込むような笑顔であった。

「うん、全てが終わったら必ず遊びに行くから。その時はしっかりとご教示お願いします!」
「よーし! 一国の姫君といえども容赦はせんぞぉ?」
「サキョウ先輩怖いー!」


両手を振りかぶるサキョウから楽しげに悲鳴を上げながら逃げるティエル。
そんなやり取りをしているうちに、辺りが段々と賑やかになってくる。いつの間にか太陽が顔を出していたのだ。
背後の宿屋を振り返ると、あちこちの窓が開かれ始めていた。その中に大あくびをするリアンの姿もあった。

「おはようリアン!」
「あら、ティエルもサキョウも早いですわねぇ」

三階の窓から身を乗り出して手を振るリアン。
普段はきっちりと結っているウェーブのかかったハニーシアンの髪は、無造作に後ろに流されているだけである。
寝起きの姿でさえ映画のワンシーンのようである彼女は、ティエルにとっては羨ましい存在だった。


もうすぐ待ちに待った朝食の時間だ。
着替えに戻るために廊下を走るティエルであったが、やはりジハードの部屋は先程と同じく半開き状態のままだ。
扉を勢いよく開け放ってもジハードは起きる兆しを見せない。このままでは朝食の時間に間に合わないだろう。
やはり朝食は全員揃って食べたいものだ。楽しく会話をしながら食事をすると、更に美味しく感じられるのだ。

腕を捲くりながらベッドまで歩み寄ったティエルは、ジハードの身体をゆさゆさと揺すってみる。
魔法を主力として日々戦っている彼だったが、しっかりと鍛えているようだ。意外なほど腕に筋肉が付いている。
そういえば、彼は昔武闘家を目指していたと言っていたことを思い出す。……それにしても起きない。

「ジハード、朝だよー。早く起きないと朝食の時間に遅れちゃうよ。今日くらいは町見物に行こうってばぁー」
「……」
「もうすぐ六時になっちゃいますよー。ジハードの大好きな小籠包子、わたしが一つ残らず食べちゃうからね?」
「後で食べるから取っといて……」

凄まじく寝ぼけた声が小さく発せられるが、相変わらず両目はしっかりと閉じられている。もう一押し必要だ。


「とにかくちゃんと起きてってばー。だってクウォーツもいないんだよ? わたしはみんなでご飯を食べたいの」
「……リアンやサキョウがいるじゃないか……ほら、いい子にしてたらお兄さんが後で遊んであげるから……」
「あっ、また寝ぼけてわたしのこと小さな子供扱いしてる! 頭撫でられても、全然嬉しくなんかないよ!?」

完全に寝ぼけているジハードからぐりぐりと乱暴に頭を撫でられ、ティエルは憤慨したように彼の手を振り払う。
彼の目にはティエルは一体どんな姿に映っているのだろうか。いや、目を閉じているのだから何も映っていない。
ジハードに対して天使のような美青年などと騒いでいた女性従業員達に、この実に残念な彼の姿を見せてやりたい。

彼を朝食に連れ出すのは最早不可能だと諦めたティエルは、大きく頬を膨らませながら部屋を後にしたのだった。





+ Back or Next +