Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第10章 勇気の条件
第113話 硝子の瞳
「……クウォーツ起きてる? ねえったら、お返事してよクウォルツェルトさーん」
返事はない。銀のトレイに夕食を乗せたティエルは、現在何の物音もしないクウォーツの部屋の前に立っていた。
湯気を立てるコーンスープに、ホワイトソースのかかった白身魚の蒸し焼き。胡桃の入ったパンが二つ。
今夜はティエルの大好きなメニューだったが、食に興味を示さない彼にとっては恐らくどうでもいいことだろう。
クウォーツが眠りについてから既に七日が過ぎ去った。
未だ目覚める様子のない彼にティエルは正直不安が隠せない。勿論そう思っているのは彼女だけではないのだが。
このまま目覚めることがなかったら。……もしも二度と目覚めることがなかったら。そう考えると恐ろしかった。
気長に待てばいいじゃないかとジハードは言っていたが、クウォーツが必ず目覚めるという確証はどこにもない。
いくら待っても返事はない。やはり今夜も彼の声を聞くことはできないのか。
落胆したようにがっくりと肩を落としたティエルは、トレイを手にしたまま扉を開けて中へと足を踏み入れる。
部屋の中は薄暗く、サイドテーブルの上で細々と燃えている蝋燭だけが頼りであった。リアンが灯したのだろう。
普段と同じように夕食をテーブルに置いたティエルは、傍らのベッドへと顔を向ける。
そこには、両手を胸の前で組んで眠るクウォーツの姿があった。容姿も相俟って、その姿はまるで人形である。
ここまで人形めいた人物だっただろうか。規則正しく上下する胸だけが、彼が今生きていることを証明していた。
「やっぱりさ。心配するなって言われても、心配しちゃうじゃない。……早く元気なクウォーツの顔が見たいよ」
ベッドサイドの椅子に腰掛け、ティエルは眠り続けるクウォーツの顔をじっと見つめる。
伏せられた長いまつげ。透けるような白い肌には、実に羨ましいことにそばかすといった類は一切見当たらない。
クウォーツの顔立ち自体は非常に女顔だ。だが決して女には見えず、しっかりと男性に見えるのが不思議である。
普段は実年齢以上に見えてしまう彼だったが、こうして眺めてみると……意外にも幼い顔立ちをしていた。
悪魔族はその者が最も魔力が高い年齢で時を止め、生涯を閉じるのだという。恐らく彼は、既に時が止まっている。
彼の伴侶となる者は、共に歳を重ねることは決してできない。……その事実が、とても寂しいと思った。
そんなことを考えながらクウォーツを見つめていたティエルは、次第に眠りの世界へと落ちていってしまった。
・
・
・
しんと静まり返った部屋の壁には、少々短くなった蝋燭の燃える橙色の光が映っている。
長いまつげがぴくりと震えた。次の瞬間、閉じられていたクウォーツの硝子玉のような瞳が静かに開かれていく。
瞳孔がくっきりと透けている薄青の瞳。彼が酷く人形めいて見えるのも、きっとこの瞳が大きな原因であろう。
上半身をゆっくりと起こした彼は、乱れた青い髪に二、三回手櫛を入れ、動くことのない表情で周囲を見回した。
そんなクウォーツの視線が一点へと注がれる。ベッドに寄り添うようにして眠るティエルの姿があったためだ。
何故ここで彼女が眠っているのだろう。普段は頭の回転が速いクウォーツだが、寝起きのために頭が働かない。
声をかけるわけでもなく暫く黙ったままでいると、やがて視線に気付いたのかティエルが薄っすらと目を開ける。
クウォーツの姿を視界に入れた彼女は、虚ろな表情で動きを止め……それから勢いよく飛び起きた。
「クウォーツ!?」
「?」
「よかった、目が覚めたんだね。いつまで経っても目覚めなかったから、みんな本当に心配していたんだから!」
「……言っている意味が分からない」
一週間ほど眠ると事前に言っておいたはずなのに、何故心配をされなければならないのだろうか。
勿論そんな不安に揺れる人の心を感情の欠落したクウォーツが理解するはずもなく、ただ首を傾げるだけだった。
けれど、理解されなくとも構わないとティエルは思っている。彼が目を覚ました。その事実だけで十分である。
「クウォーツは意味なんか分からなくていいの。分からなくても教えてあげません」
「……」
「やっぱり顔見たら安心しちゃったな。そうだ。七日間も飲まず食わずだったんだから、お腹空いてるよね」
「いや、別に」
「わたし夕食持ってきてるんだ! ……あれ、ちょっと冷めちゃってるかな。温め直してもらってこようか?」
サイドテーブルへと顔を向けたティエルは、コーンスープから既に湯気が消えてしまっていることに気が付いた。
冷めた料理も不味くはないが、美味でもない。食に興味のない彼だからこそ、美味しいものを食べてもらいたい。
だがクウォーツは力なく首を振り、別に腹は減っていないと、トレイを手にして立ち上がったティエルを制した。
どうもまだ、頭がはっきりとしない。まるで霞がかかったかのように、クウォーツの意識はぼんやりとしていた。
目の前で笑顔を浮かべているティエルを眺めてみる。生気に満ち溢れていて、とても生き生きとした少女。
過酷な旅の最中だというのに、艶やかで癖のない長い髪が彼女の首筋を伝い背中に流れている。白い首筋だった。
その襟元から覗く首筋に牙を埋め込めば、一体どれほどの美酒を啜ることができるのだろうか。
少女の上げる断末魔の悲鳴は、さぞかし心地よい響きとなって彼に快楽を齎すだろう。何故我慢する必要がある。
そもそもクウォーツが人の血を啜る存在だと知っていながら、共に行動をする彼女達が悪いのではないだろうか。
「クウォーツ……?」
普段は透き通った硝子のように涼しげな色であるクウォーツの瞳に、段々と黒ずんだ赤い光が混ざり始める。
少し様子が変だ、とティエルは首を傾げた。彼の瞳に真紅が混ざる時は、決まって相手を獲物と見做した場合だ。
ハイブルグ城でクウォーツに指輪を渡して以来、ティエル達には決して向けられることがなかった瞳である。
よくは分からないけれど、彼が怖かった。
クウォーツに対してこんな感情を抱いてしまうなんて、ティエルにとってはありえないことであるはずなのに。
どうしたの、と彼女が口を開こうとした瞬間。突然強い力でベッドに押し倒された。じわじわと押し寄せる恐怖。
身体が動かない。感情のない硝子の瞳に見つめられ、魔法がかかったかのように身体が縫い止められているのだ。
赤い光を瞳に湛えたまま、クウォーツがゆっくりと身を近付けてくる。初めて彼の無表情が恐ろしいと感じた。
抵抗すらできず、ティエルは目の前の青い髪をした悪魔の青年を見つめていた。
氷のように冷たい彼の指先がティエルの頬に触れる。その指のあまりの冷たさに、彼女はびくりと身を震わせた。
こんなにも冷たいのに。それなのに、触れられた場所が熱を帯びてくる。今まで感じたことのない感覚であった。
決して不快な感覚ではなく、もっと触れていてほしいと思わせる甘美な蠱毒のような感覚だ。
その指が肌をなぞりながら段々と下へと移動していく。白い首筋。微かな膨らみを見せる胸。肉付きの良い太腿。
すべすべとした肌の感触を楽しんでいるかのように、ティエルの内腿へとゆっくりと手を這わせる。
クウォーツは既に唇が触れそうなほど近くにいた。……かつて、こんなにも間近で彼の顔を見たことはない。
まるで生命という雑物が宿っているとは思えぬ、壮絶で凄艶な美しさに、ティエルでさえも目を奪われてしまう。
勿論彼女は知る由もなかったが、彼は今まで多くの者達の心を虜にし、その全てを破滅に導いてきた青年である。
まさに人の理性を狂わせる魔物だ。薔薇の香りが脳を痺れさせ、命までもを彼に捧げたいという衝動に駆られた。
改めて、クウォーツは人間ではないのだと思い知らされてしまう。ティエル達人間とは、明らかに違う存在だ。
彼に触れられるのは不快ではない。むしろ気を許してくれているのだと嬉しく思うはずなのに、とても怖いのだ。
この行為が一体何なのか、これから彼が何をしようとしているのか。性知識に疎いティエルですらも理解できた。
これは本来であれば子を宿すための行為である。……相手がクウォーツだとしても、その行為はとても怖かった。
「……っ!」
弾かれたようにクウォーツが唐突に身を引いたのと、ティエルの瞳から大粒の涙が零れ落ちたのは同時だった。
彼が身を引いた瞬間にティエルの自由を奪っていた不思議な感覚も解け、彼女は脱力したように息を吐き出した。
ちらりとクウォーツに視線を向けると、彼の瞳から赤い光は完全に消え失せており、普段の薄青色に戻っている。
暫く沈黙が続いた。
彼は何も言わない。あんな事があった後なので、流石のティエルも彼に対して非常に気まずい思いを抱いていた。
重苦しい長い沈黙の後、先に口を開いたのは意外にもクウォーツの方であった。
「……すまない」
「え?」
「お前に手を出そうとするほど、寝起きで見境がなくなっていたらしい。泣くほど嫌な思いをさせてしまった」
「う、うん……」
「最近吸血も含め、色々とご無沙汰だからな。……そろそろ限界が来ているのかもしれない」
吸血はともかく、色々とご無沙汰とは一体何がご無沙汰なのだろうか。
思わずそう問い掛けようとしたティエルだが、聞いてはいけない答えが返ってくる予感がして質問を飲み込んだ。
悪魔族は食事を取らずとも、吸血や精気を得ることによって命を維持できるのだと聞いたことがある。
思い返せばリアンがよく口にしていたような気がする。クウォーツには精気ではなく、絶対に食事を取らせると。
恐らく食事では補うことのできない何かがあるのだろう。吸血や精気を得なければ、補うことのできない何かが。
「暫く私に近付かない方がいい、お前は早く部屋に戻れ」
「た……確かにほんの少しだけ怖かったけどさ、それなら尚更一人にするわけにはいかないよ」
「何故」
「クウォーツは血を吸っていないから調子が悪いんでしょ? わたしの血でよければ、いくらでもあげるから!」
そう口にしたティエルは己の袖をめくり上げると、健康的な腕をクウォーツの前へと差し出した。
吸血時には鋭い牙が肌に埋め込まれ、激痛を伴うだろう。だがそれよりも、彼には辛い思いをしてほしくはない。
一体どれほど血を失えば死に至るのかは知らないが、適量なら大丈夫だ。彼なら加減して吸血してくれるだろう。
差し出された腕を見つめていたクウォーツだが、やがて視線を外すと己の着ている衣服のボタンに手を掛けた。
「気持ちだけ受け取っておく」
「どうして!?」
「相手がお前だとしても、私は加減ができない。一滴残らず吸血して命を奪ってしまう可能性もある」
「でも……」
「だからもう二度と、そんなことを言うな」
完全に突き放したような言い方だった。
しかしそれはティエルの命を奪ってしまわぬように、あえて突き放しているのだということも勿論分かっている。
分かっているからこそ、ティエルは何も言えなくなってしまう。やはりクウォーツはとてもずるいと思った。
ティエルが唇を噛み締めて葛藤し続けている間にも、クウォーツは構うことなく己の寝衣のボタンを外していた。
漸くその行動に気付いた彼女は、ぎょっとして後ずさる。
「あの……どうして服を脱ごうとしてるの?」
「いつまでも寝衣のままで話しているのもどうかと思って」
「だからって、レディの目の前で着替え始める!?」
「サキョウはよく着替えているだろ」
「サ、サキョウはいいの。でもクウォーツは駄目なの!」
「……意味が分からない」
「別に分からなくてもいいよ!」
顔を赤くさせながら、ティエルは慌ててクウォーツから視線を外した。暫くは彼の顔をまともに見れそうもない。
普段は彼に対して殆ど意識はしないティエルだが、先程の一件がある。どうしても気恥ずかしさが否めなかった。
そんな初々しいティエルの様子をボタンを外す手を止めて見つめていたクウォーツが、やがてぼそりと呟く。
「それにしても……泣かれるほど拒絶をされるとは思わなかった」
「えっ?」
「いや、今まで迫った相手に拒まれたことがなかったから。こういう場合もあるんだな」
「せ……迫ったって……そんなことばかりしてるの!? クウォーツの馬鹿ぁっ! エッチ! もう知らない!」
色事に対して免疫のないティエルには、あまりにも痛烈な台詞だったのだろう。
涙を薄っすらと浮かべた彼女は慌しく部屋から出て行ったのだった。大きな音を立てて勢いよく閉じられた扉。
ベッドに腰掛けたままティエルを見送ったクウォーツは、人形のように整った顔に表情も浮かべずに独りごちた。
「……散々な言われようだ」
+ Back or Next +