Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第11章 華の都セレステール
第127話 魔竜ヴリトラ戦 -1-
「な……なんだよ、こいつはぁ!? だって、だってさっきまで、大人しい小さなトカゲだったじゃないか!」
完全に腰を抜かして逃げ遅れてしまったセイファが、目の前で巨大な竜の姿に変化したヴリトラを指して叫んだ。
逃げ出せた者は運が良かった。この場に集っているのは冒険者やハンターではなく、温室育ちの貴族達である。
彼のように腰を抜かして逃げられずに取り残された者、恐ろしい魔物の姿に恐怖で失禁してしまった者と様々だ。
「リアンの言うとおりだったね。パーティーだからといって油断せず、イデアを肌身離さず持っていてよかった」
「でしょう? けれど、相手はなかなか強敵ですわよ。戦うにしても状況が良くありませんし」
「まずは客の避難を優先させねばなるまい。衛兵達と共に、バルバロ王や王子達を安全な所へお連れするのだ!」
腰に携えていた大剣イデアを引き抜いたティエルの隣で、同じく愛用のロッドを構えたリアンは眉を顰めていた。
サキョウは周囲の状況を逸早く把握し、王や招待客の避難を念頭に置いている。さすがは戦い慣れた僧兵だ。
その一方で、ヴリトラは目の前で腰を抜かしてずるずると後退りを始めているセイファを標的に定めたようだ。
ヴリトラの大きく開いた口から生臭い息が吐き出され、刺激臭のある粘着質の唾液がセイファの衣服に降り注ぐ。
強い酸性の唾液は、先程彼が散々自慢をしていたターコイズ色の新しいマントに次々と大きな穴を開けていった。
「う、うわあぁっ! 魔物め、汚いじゃないか! 折角僕のために仕立てた新しいマントなのに……!」
「このバカ野郎、今はそんなことを言っている状況じゃないだろ!?」
「ひっ!?」
ヴリトラの鋭い牙がセイファに食らい付こうとした瞬間、彼とヴリトラの間に突如ジハードが割って入ったのだ。
セイファの身体を背後に蹴り飛ばし、魔竜ヴリトラに向かって極陣をすぐさま発動させる。
しかし超至近距離での極陣の発動であったため、ジハード自身も己の極陣に完全に足を踏み入れてしまっていた。
ジハードと魔竜を巻き込んだ爆破の極陣が発動し、爆風で吹っ飛んだジハードがセイファの元へ突っ込んでくる。
思わず彼を支えたセイファだったが、両手にぬるりとした血の触感。喉の奥から変な悲鳴が漏れた。
セイファの白い袖口が真紅に染まるほどの血だ。見るとジハードの皮膚のあちこちが裂けて出血しているようだ。
あれほどの威力である魔法を至近距離で浴びてしまった割には、まだ運が良いといえるほどの怪我だったが……。
「ひいぃ、血だ! 血が出ているじゃないか!? ……僕、血は苦手なんだよ!」
「……いってぇ……」
「お、おい君……先程の件は謝るから……お願いだ、僕を助けてくれ! 腰が抜けて立つことができないんだ」
「うるさいな、あなたの腰の剣はただの飾りか? しっかりしろよ、何度も狩りで魔物を仕留めてきたんだろ?」
裂けた額から流れ落ちる血を手の甲で拭いつつ立ち上がったジハードは、冷ややかな瞳をセイファに向ける。
王子の大声が耳元で響いて傷が痛むのだ。頼むから少しは黙っていてくれと彼に吐き捨てたいのをぐっと堪えた。
先程は咄嗟にセイファを助けてしまったが、正直に言うとこの状況は完全に王子の自業自得だと思っている。
穏やかな好青年である外見で勘違いをされがちだが、元々ジハードは万人に対して優しさを見せるわけではない。
見た目と違って非常に現実的でシビアな性格だ。心を許した相手以外は冷徹とさえいえるような一面を見せる。
はっきりと言ってしまえばセイファの命を助ける義理はない。助かりたいのならば、死ぬ物狂いで抵抗すべきだ。
「ジハード、気を付けろ! ヴリトラはまだやられてはおらぬぞ!?」
響いてきたサキョウの声で、はっと我に返る。爆煙の中から姿を現したヴリトラは確かに傷を負っていた。
だが、その傷が目に見える速度で塞がっていくではないか。治癒能力というよりは、最早急速な再生能力だった。
怒りで我を忘れているヴリトラは、大きく裂けた口を開きながらジハードとセイファに向かっていく。
「うおおおお!」
そうはさせるかと、サキョウがヴリトラに飛び掛る。いくら怪力を誇る僧兵といえども魔竜相手では分が悪い。
彼を振り落とそうと滅茶苦茶に暴れ狂うヴリトラ。がしゃんとテーブルが倒れ、グラスが次々に砕け散る。
「サキョウ、離れて下さいな!」
「承知!」
「眩き光よ、貫く刃となりて大地を引き裂かん……ライトニングサンダー!!」
杖を掲げたリアンが叫ぶと同時に、サキョウはすぐさま身を離して地に伏せた。
耳を劈くような轟音と共にリアンの杖の先端から迸った稲妻がヴリトラに絡み付く。非常に強力な電撃魔法だ。
容赦ない電撃を浴びせられたヴリトラの全身から黒い煙が上がるが、見る見るうちに傷が塞がっていってしまう。
苦しみの声と共に魔竜は長い尾をリアンに向かって振り下ろし、避ける間もなく彼女は壁に叩き付けられた。
「リアン!」
手にしっかりと握り締めたイデアの感触を確かめ、ティエルは地面を蹴って駆け出した。
イデアを手にするようになってから日も浅いが、以前からずっと使い続けていたかのように彼女に馴染んでいた。
魔竜ヴリトラ。物語に悪役として登場するような恐ろしい姿をしている魔物だが、立ち向かわなければならない。
大切な者達を永遠に失ってしまう恐ろしさに比べたら、今感じている恐怖などまるで比べものにならなかった。
ヴリトラの間合いに入ったティエルは振り下ろされた尾を避け、塞がりかけた電撃の傷に向けて剣を振り下ろす。
一直線に切り裂かれ、ぱっくりと裂けた赤い傷口。しかしそれも束の間で、すぐに治癒されていってしまうのだ。
バルバロ王の命令で駆けつけた兵士達が一斉に弓を射るが、ヴリトラの硬い表皮で呆気なく弾かれていた。
「傷がすぐに回復しちゃうなんて……まさか不死身なの!?」
「魔竜ヴリトラは、如何なる深い傷も瞬時に治癒してしまう身体を持つんだ」
「ジハード」
「けれど決して不死身ではない。一撃で致命傷を与えることができれば殺すことは可能だよ。……殺すことはね」
ティエルが顔を上げると、いつの間にかリグ・ヴェーダを手にしたジハードが隣に立っていた。
己の極陣で先程受けてしまった傷は気休め程度に治っている。もっと時間があれば治療に専念できたのであろう。
彼の身体のあちこちに火傷が残っている。中には完全に爛れてしまっているような傷もいくつか見受けられた。
「ヴリトラは尾にさえ触れなければ、本来は大人しい魔物なんだ。正直……殺してしまうのは気が進まない」
周囲を見渡すと、未だ会場に取り残されて逃げ出せていない者達が大勢いた。勿論セイファやセーラも含めてだ。
兵士達もセイファ達の救出を何度も試みているのだが、暴れ狂うヴリトラの脅威のために近付けないようだ。
極陣を仕掛けようにも、そこら中に貴族達が腰を抜かしている。魔法を発動させれば彼らも巻き込むことになる。
不安げなティエルに向かって、さてどうしたものかね、と力なく苦笑を浮かべたジハードの表情に緊張が走った。
暴れていたヴリトラの尾がこちらに向かって飛んできたためだ。
反射的にティエルの身体を横に突き飛ばしたジハードは、尾の直撃を受けて遠くの壁へと叩き付けられてしまう。
「ジハード!」
彼に駆け寄ろうと一歩足を踏み出したティエルの前にヴリトラが立ち塞がる。びりびりと全身に感じる威圧感。
物語の中でしかその存在を知らなかった竜が、今目の前にいる。正直ティエルの足は竦んでしまいそうであった。
ヴリトラに悟られぬように視線を横に走らせると、ホールの隅でサキョウに介抱されているリアンの姿が見えた。
向かいの壁際では、背を打ち付けて激しく咳き込んでいるジハードの姿。
彼ならばヴリトラの尾を軽く避けられたはずだ。ティエルのために負わなくてもいい怪我を負ってしまったのだ。
一直線にジハードに向かって駆け出したティエルを見逃してくれるほど、魔竜ヴリトラは甘くはなかった。
大きく咆哮すると、太い首を伸ばして天井を突き破る。高い場所から首を振り下ろして彼女を叩き潰す気である。
がらがらと天井の一部が派手に崩れ落ち、ティエルは降り注ぐ瓦礫から身を守るようにして慌てて床に伏せた。
それと同時に、天井から滑りを帯びた赤い液体が降り注ぐ。……血だ。それも、他でもないヴリトラの血だ。
恐る恐るティエルが顔を上げると、眉間から赤い血を流しながら苦しみの声を上げるヴリトラの姿が瞳に映った。
大きく開いた天井からふわりと身軽に飛び降りてきたのは、血に濡れた妖刀幻夢を手にしたクウォーツであった。
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