Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第12章 ロマンス
第132話 降り止まない雨 -2-
昼頃から降り始めた大雨は夜になっても止むことはなかった。
宿屋のマスターの話では、数日間はこのような雨が続くのだという。残念ながらエルキド行きの船は全て欠航だ。
船が出なければどうすることもできない。雨雲が通り過ぎるまで、暫くはこの宿屋に留まることになりそうだ。
ここティークバウムは港町だけあって、様々な国から輸入される珍しい特産品であちこちの店が賑わっている。
……とガイドブックに魅力的な紹介文が記載されているのだが、この雨では雑貨屋巡りもなかなか難しいだろう。
濡れた服を着替えたティエルとリアンはサキョウ達の部屋で相談を終えた後、ロビーのソファーで寛いでいた。
上機嫌でガイドブックを開きながら、興味のある店のページに付箋をぺたぺたと貼り付けているのはティエル。
雨季といっても小雨になる日も出てくるだろう。そんな日くらいは外出したい。身体が鈍ってしまいそうだった。
一方リアンは宿の一階に位置するレストランのメニューに興味を示している。シフォンケーキが絶品だそうだ。
そして、一番驚いたのが紅茶の種類の豊富さだった。各地から取り揃えた銘柄がずらりとメニューに並んでいる。
スタンダードな銘柄に加えて少々マニアックな銘柄や、聞いたこともないような名前の紅茶と様々だ。
シフォンケーキと紅茶は大変相性がいい。明日の優雅なティータイムを思い浮かべて、リアンの頬が思わず緩む。
紅茶といえば、食に全く興味を示さないクウォーツが唯一自ら進んで飲んでいたことを思い出す。
彼が購入するのは割とマニアックな銘柄の紅茶だ。これだけ豊富な種類が揃っていることを知れば喜ぶだろうか。
勿論『喜ぶ』という感情がクウォーツに存在すれば、の話だが。……彼が喜んでいる場面を見たことがないのだ。
どうしよう。明日、彼もお茶に誘ってみようか。いや、誘おう。彼に対しては少々強引な接し方で丁度いい。
「リアン、どうしたの? さっきからずーっとにやにやしちゃってさ」
「にやにやとは何ですのよ、失礼ですわ。……ねぇ、ティエル。明日はここのレストランでお茶しましょう?」
「シフォンケーキが美味しいって書いてあったね。紅茶の種類も多いから、クウォーツも誘ったらきっと喜ぶよ」
「え、ええ。そうね、そうしましょう!」
目に見えて機嫌が良くなったリアンの様子を眺めながら、ティエルは通りに面した窓の外へと視線を移動させる。
土砂降りだ。勿論歩いている人影など一つも見受けられない。
激しい雨が窓ガラスを殴るように叩き付けており、石畳の通りのあちこちに大きな水溜りができているようだ。
「それにしても部屋が空いていて本当によかったね。もう少し遅く到着していたら満室で、野宿だったかも……」
「ジハードを叩き起こして正解でしたわ。……いくら朝が弱いといっても、あれは限度がありますわよ」
「冴えてるときと寝ぼけているときの落差が激しいからなぁ、ジハードは」
冴えている時のジハードは確かに惚れ惚れするほど頭の回転が速い。難解な計算や戦略をすらすらと口にする。
そのどれもが的確で、ティエルやサキョウは勿論、リアンですらも黙って頷くことしかできない。
だが起きたばかりのジハードは本当に頼りにならないのだ。先日の朝食時などスプーンを咥えたまま眠っていた。
普段の外面の良さからは想像もつかないような残念な姿である。
「勿体ないですわぁ。文武両道、ルックスも良し、おまけに子供にもすぐに懐かれる完璧な好青年ですのにねぇ」
「確かにすぐ子供に懐かれるよね。ジハード自身も子供は好きだって言ってたし」
「やっぱり恋人にするなら……強くて優しくてとびきり格好よくて、子供に好かれやすい男性がいいですわぁー」
どこかにそんな男性はいないかしら、と深く溜息をつくリアン。
従業員達がばたばたと忙しなくレストランを走り回っている。恐らく夕食の時間が近付いてきているのだろう。
「それなら、クウォーツなんてリアンの好みにぴったりじゃない?」
「え?」
「強いし、優しいし、とびきり格好いいし! きっと子供にも好かれるんじゃないかなー」
「え、あの、ちょっと」
「今は恋人いないって言ってたよ。前は何人かの愛人やってたとか言ってたけど……どういう意味なんだろう?」
「……」
「ねえリアン、愛人ってなぁに? 恋人とは違うの?」
「知らなくていいですわ。ティエルになんて不純なことを吹き込んでいるんですのよ、あのモミアゲ伯爵様は!」
リアンが思わず発してしまった大声に、ロビーで寛いでいた宿泊客達が一体何事かと皆一斉に振り返った。
彼らに対して完璧な愛想笑いを浮かべて会釈をしたリアンは、眉をきりりと吊り上げながらティエルに向き直る。
どうやらとても怒っているようだ。自分は何か失言をしてしまったのかとティエルは首を傾げていたが。
「大体あのクウォーツのどこが、優しくて子供に好かれそうなんですのよ。仲間の欲目もいい加減にしなさいな」
「そうかなぁ。そうなのかなぁ」
「残念ながら私には……強がりで、無神経で、格好つけで、子供に怖がられる男にしか見えませんけどね!?」
「あ、ああ……リアンにはそう見えるんだ……」
「そうなんですの!」
「ほら、もう夕食の準備ができているみたいだよ。従業員の人達が部屋に呼びに行ってる!」
リアンにぐいぐいと詰め寄られ、ティエルは慌てて話題を変えるようにしてレストランへと顔を向けたのだった。
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一方。カーテンを閉め切った二階の一人部屋ではクウォーツがベッドの上で足を投げ出した状態で寝転んでいた。
先程から廊下が騒がしい。どうやら数名の足音がばたばたと忙しなく行ったり来たりを繰り返しているようだ。
ごろりと寝返りを打つと、艶のある青い前髪が視界を塞ぐ。そういえば雨に濡れたまま乾かすことを忘れていた。
そんな髪を、綺麗だと褒めてくれた者が二人だけ存在した。
一人は屈託のない笑顔を浮かべていた黒髪の青年で、もう一人は太陽のような眩しい笑顔を浮かべる少女だった。
青い髪は忌み子の証。そう、ギョロイアがよく口にしていた。悪魔族の中でも忌まわしいとされる髪の色である。
未来永劫誰からも愛されることはなく、誰からも存在を許してもらえず、孤独に朽ちていく運命だと聞かされた。
そんな忌み子である彼の側にいてくれたのは、ずっと愛情を注いでくれたのは、ギョロイアただ一人だけだった。
彼女だけが本当に愛してくれているとあの日までは信じていた。できることなら、信じ続けていたかった。
だがその愛は偽りであり、初めから存在しなかったのだ。孤独に朽ちていく運命なのだと改めて思い知らされた。
「愛されることはない、か……」
彼に向けられる愛情は全て偽りであり、愛しているように見せかけているだけ。
甘い言葉をかけて近付いて来る者は全てクウォーツに見返りを求めてくる。交換条件として愛を囁いてくるのだ。
ああ、愛という感情はなんて儚く、そして下らないものだろう。こんな感情を理解できない方がむしろ幸せだ。
クウォーツがぐしゃりと長い前髪をかき上げると同時に、扉が遠慮がちにノックされた。
勿論彼が返事をすることはない。ティエル達ならば返事がなくともいつも無遠慮に勝手に入ってくるためである。
顔を向けることもなく寝転がっていたが、扉が開く兆しはない。扉の前に立つ気配も離れずに留まり続けていた。
もう一度だけ強めなノック。どうやらティエル達ではないようだ。ならば一体誰だろうか、思い当たる節がない。
起き上がるのも億劫であったが、クウォーツは身を起こすと扉に向かって歩き始めた。
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『宿屋ミルフィーユ』の従業員、マリアは先程から忙しなく宿泊客の部屋に訪れ、夕食の時間を告げ回っていた。
そして、一つの扉の前で立ち止まる。確かこの部屋は、皆が騒いでいた青い髪の客の部屋であったはず。
彼女が今まで目にしてきたどんな者よりも美しい容姿をした男だった。従業員達が色めき立つのも大いに頷ける。
だがマリアはそれよりも恐怖の感情が勝ってしまった。同じ生き物とは思えぬ、底知れぬ恐怖が勝ってしまった。
全ての部屋には声を掛けた。あとは例の客に声を掛ければ終わりだ。呼吸を整え、マリアは小さくノックした。
……返事はない。
どうしようか。この客だけ避けるわけにもいかない。暫くの葛藤を経て、マリアはもう一度強めに扉を叩いた。
長い沈黙。やがて扉がゆっくりと開かれ、中から青い髪をした若い男が姿を現した。
長いまつげに縁取られた、硝子のような薄い色の瞳。鼻も唇も輪郭も全て丹念に作り上げられた美術品のようだ。
美しく整った顔のパーツが、気味が悪いほど完璧な位置に配置されている。
もしもパーツのどれか一つでも位置を違えていたならば、彼はもっと親しみを覚える顔立ちになっていただろう。
これではただの人形だ。この男は人ではない。マリアは心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような錯覚に陥った。
怖い。この男が怖い。夕食の時間を告げて早く立ち去りたかった。だが口の中が乾いて上手く言葉が出てこない。
無感情な硝子の瞳に見下ろされ、マリアはしどろもどろになりながらも口を開いた。
「あ……あの、お食事の用意ができたので……それで、声を掛けに……わ、私……ちゃんと伝えましたからっ!」
最早失礼な態度などとは言っていられない。言葉を発したマリアは彼から逃げるようにして駆け出した。
手摺りを掴み、一階へ降りる階段への第一歩を踏み出した時。雨のために濡れていた床に足を滑らせてしまう。
悲鳴を上げようとしても声が出ない。手摺りからも手が離れてしまい、ぐるりと勢いよく景色が反転する。
落ちる。……マリアがそう思った瞬間、背後から強い力で腰を引き寄せられたのだ。
脱げた靴が激しい音を立てながら長い階段を転がり落ちていく。今頃は自分もあのように転がり落ちていたのだ。
打ち所が悪ければ死んでいたのかもしれない。そこまで考えると、漸くマリアは腰を引き寄せた相手を振り返る。
「……私を避けるのは勝手だが」
階段を転げ落ちそうになったマリアを引き寄せてくれたのは、あの青い髪をした客であった。
「足元くらい気を付けろ」
「あっ、ご……ごめんなさい……!」
無感情な青い瞳で顔を間近で覗き込まれ、マリアは慌てて彼から身を離した。初めて声を聞いたような気がする。
見た目に違わぬ同じく無感情な声だが、僅かに甘さを帯びた声。ふわりと香る匂いは薔薇の香りだろうか。
やはり避けていたことに気付かれていた。まあ当然と言えば当然だ、あんなあからさまな去り方をしたのだから。
だが、そんな態度を取った自分を助けてくれるとは思わなかった。
この人はもしかしたら、皆が思っているほど……。
「あ、あの」
「おういクウォーツ、そんな所におったのか。もう夕食の時間だぞ」
「……」
「ん、どうした? あまり従業員のおなごを怖がらせてはならんぞ。お前はいつも怖い顔をしているからなぁ」
改めて礼を言うために顔を上げたマリアの瞳に、彼の肩越しに熊のような大男がやって来るのが映った。
先程ロビーで見かけた彼の連れだ。親しげに話しかけてくる様子から、彼に対して随分と気を許しているようだ。
「し……失礼します!」
顔を赤くさせながらマリアは何度も頭を下げると、顔も上げずに階段を勢いよく駆け下りていった。
最後の段を下りても、激しい胸の鼓動は収まらない。階段を勢いよく駆け下りた所為だろうか。そうに違いない。
あの青い髪の客に対して恐怖が完全に消え去ったわけではない。だが、もっと彼のことをよく知りたいと思った。
(……あの人の名前、クウォーツさんっていうんだ……)
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「ねぇマリア、見たわよぉー」
「なによ、ジェシカ。にやにやしちゃって」
慌ただしく過ぎていった夕食の時間も終わり、マリア達従業員は早速片付けに取り掛かっていた。
この片付けが終われば彼女達の食事の時間である。今夜の賄いは一体何だろうか、ここの料理長の料理は絶品だ。
銀のトレイに汚れた皿を重ねて置き、弾みをつけて持ち上げたマリアに向かって同僚のジェシカが声を掛ける。
「あんたさ、やけに例の青い髪の客のテーブルに水を継ぎに行ってたじゃない。一番興味がなさそうだったのに」
「あの五番テーブルは私の担当だったから仕方がないでしょ」
「うふふ、もしかして気に入っちゃった?」
「!」
「……なんて、性格重視のマリアに限ってそんなわけないか。あの客すっごい美男だけど内面問題ありそうだし」
「ち、ちょっとそんな言い方ないじゃない」
「そんな顔だけの男よりさ、十二番テーブルに座っていた金髪の彼……結構かっこよくなかった!?」
弾んだジェシカの声に、他の従業員達も一斉に振り返る。
「あ、私もそう思ってた!」
「さっきさぁ、私声かけられちゃったの。確か名前はシオンさんって言ってたわ」
「きゃーっ、イケメンは名前まで素敵ねぇ」
早速他の男性客に目移りをして騒いでいる同僚達に溜息をつくと、マリアはふと二階へ続く階段を見上げてみる。
……先程腰を引き寄せてくれた彼の腕は、意外なほど力強かった。
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