Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第12章 ロマンス

第133話 降り止まない雨 -3-




どこか、身体が怠かった。

ゆっくりとクウォーツが目を開けると、薄暗い部屋の天井が映る。どこにでもあるような古びた客室であった。
怠さを感じるなんて、まるで生き物ではないか。勿論生きているのだから当然の話だが、改めて生を実感する。
閉じられたカーテンの外からは相変わらず激しい雨音が続いており、雨季とやらはまだまだ長引きそうだった。


蝋燭は燃え尽きており、投げ出された左手の側には昨夜遅くまで読んでいた小説が開いた状態で放置されていた。
コートも脱がず、靴を履いたまま寝てしまったようである。うたた寝どころではない。
普段ならば見かねたジハードやサキョウに起こされていたのだが、一人部屋ではそういうわけにもいかなかった。

身体が怠いのも己の不養生だ。今日は外出予定がなくて良かったかもしれないとクウォーツは小さな溜息をつく。
戦闘時にへまをやらかせば死に繋がる。自分だけならば単なる自己責任だが、誰かを死に至らしめることもある。

本来ならば陽の出ている時間帯は、夜の住人である悪魔族の彼にとっては活動すべき時ではない。
ハイブルグ城でティエルの手を取ってから、まさに昼夜が逆転している生活を半年以上も送り続けてきたのだ。
身体が怠くなるのも仕方がない話だろう。


のろのろとした動作で胸から銀色の時計を取り出して、時間を確認する。時刻は十三時を過ぎたところだった。
なんてことだ。これでは、いつも大寝坊をするジハードのことが言えないではないか。
静かに身を起こすと、部屋の隅に用意された簡易洗面所で顔を洗い始めた。水は冷たく、目覚ましには丁度良い。

長いまつげからぽたぽたと雫を落としながら、ふと大きな鏡に映る己の顔を眺めてみる。
鏡には随分と見慣れた若い男の顔が映っていた。普段と何一つ変わらぬ、そして数年前から何一つ変わらぬ顔だ。
自分が周囲の目にどう映っているかは理解しているつもりだ。実際に幾度か己の美しさを利用したこともある。

彼がその気になれば、全てを手にすることができる美貌とまで褒め称えられ続けてきた。
だが、全てを手にするどころか……彼は全てを失ってきた。感情も、記憶も、誇りも、尊厳も踏み躙られてきた。
では全てを失った今、ここに残っているものは一体何なのだろう。人の形をした、空っぽの人形なのだろうか。

感情の欠落している彼に、これ以上の思考は生み出されることはなく次第に消えていく。
鏡から視線を外すと手元にあったタオルで顔を拭い、簡単に髪を整える。癖のない柔らかな髪はすぐに収まった。
このまま部屋にいても仕方がない。ロビーに置かれた新聞に目を通そうと、扉を開けて廊下へと足を踏み出した。







今日も相変わらずの雨模様だ。
銀のトレイを胸に抱えたマリアは、昼時が過ぎ去ったレストランにて落ち着かない様子で周囲を見回していた。
レストランで寛ぐ客の姿もすっかりと少なくなり、宿泊客達は銘々の部屋で今後の予定を立てているのだろうか。

窓際のテーブルでは、女性の同僚達がきゃあきゃあと黄色い声を発しながら集っている。
彼女達の輪の中心にいるのは、一人旅をしている僧侶の青年だった。金髪でハンサムだと昨夜から騒がれていた。
少し前までは青い髪の客に騒いでいたはずだが、ほんの数時間で誰も何も言わなくなった。彼女達は移り気だ。

朝食を取りに来た客達の中には、あのクウォーツという名前の青い髪をした青年の姿は見受けられなかった。
彼の連れだと思われる者達のテーブルには三人しかおらず、マリアはほんの少しだけがっかりしていたのだ。
特に意識をしていたつもりはなかったが、気が付くとあの青年の姿を探してしまっている。

正直今でも恐怖心が完全に消え去ったわけではない。けれど、あの青年のことをもっとよく知りたいと思った。


「マリア」
「……」
「おいマリア、聞いてんのかよ! 花瓶の水が溢れてるぞ」
「え? やだ!」

考え事に没頭するあまり、同僚であるカシムの呼びかけにも気付かずにマリアは花瓶に水を注ぎ続けていたのだ。
カシムは橙色の髪を短く切り揃えた素朴な青年で、マリアとほぼ同時期に『宿屋ミルフィーユ』で勤め始めた。
少々調子に乗る癖があるが、明るく馬鹿正直で裏表のない性格のために宿泊客からの評判も良い。


「最近忙しいし、少し疲れてるんじゃないか? 昨日の夜からぼーっとしてるし、ちゃんと休憩取れてるのかよ」
「別に疲れているわけじゃないんだけど。確かに最近あまり休めていないかもしれないわね」
「働きすぎは良くないぜ、たまには休息も必要だろ。……よ、よかったら明後日の休みに二人で映画でも……」

若干顔を赤くさせながらカシムがポケットから映画のチケットを取り出そうとした時。ロビーがしんと静まった。
先程まであれほど賑やかだったのに。首を傾げながらマリアが振り返ると、その理由がすぐに理解できた。
たった今ロビーに姿を現した人物に皆の視線が注がれている。遠くからでもすぐに分かった。例の青い髪の客だ。

(あの人だ……!)


「うわ……あの男の子、髪の色青いよね?」
「関わるとまずいんじゃなかったっけ。確か忌み子で、周囲に不幸を撒き散らす存在だって聞いたことがあるよ」
「馬鹿だな、単なる迷信だろ? ……それよりよく見ろよ、女よりも綺麗な顔してんぞ。ちくしょー、足長ぇな」

「やだ、すっごい好みかも。でも声かけにくそうなタイプなのが残念ねぇ」

勿論姿を現した青い髪の客とはクウォーツであり、周囲で好き勝手に言われたところで彼が気にするわけがない。
ロビーにて注目の眼差しを注がれたまま無表情でつかつかと進んでいき、新聞を手に取って広げていた。
周囲の宿泊客達は相変わらず彼の様子を窺いながら耳打ちを続けているが、誰一人として近付く者はいなかった。


……今しかない。昨日、助けてもらったお礼を言うのだ。早く行かないと彼が立ち去ってしまう。
けれど迷惑ではないだろうか、別の機会を待った方がいいのか。彼が一人でいる機会はもうないのかもしれない。
やっぱりあの客いけ好かねぇな、と呟くカシムの前で暫く迷っていたマリアだが、意を決して彼まで駆け寄った。

「あの……!」
「?」

突然前に飛び出してきたマリアの姿に、驚く様子もなくクウォーツは新聞から視線を外して首を傾げて見せる。
彼女の姿に見覚えがないのだ。そして話しかけられるような覚えもない。面倒事には関わらない方がいいだろう。
瞬時にそう結論を出したクウォーツは、マリアに返答をすることもなく再び新聞へと視線を落とした。


「も、もしかして私のことお忘れですか?」
「……」
「そうですよね。私地味だし、目立つタイプではないから仕方ないですけど……昨夜階段で助けて頂いた者です」

完全に忘れ去られていた。マリアにとっては印象的な出会いであったが、彼にとってはどうでもいい記憶なのだ。
仕方がないと言えば仕方がないが、こうあからさまに態度に出されてはなかなか傷付く。
昨夜階段で助けて頂いた者、と口に出すと漸く彼は思い出したようだ。新聞からゆっくりと顔を上げてくれた。

薄い色をした硝子のような瞳。正直声をかけたことを後悔してしまいそうになるが、勇気を振り絞って見つめる。


「き……昨日は本当に失礼いたしました! それと、助けて下さってありがとうございました」
「それで?」
「よろしければ、お礼に紅茶をご馳走させてくれませんか? ここの紅茶、種類も多くてとても美味しいんです」

あまりにも素っ気なさすぎる返答にも負けず、マリアはぺこりとお辞儀をしながら口を開いた。
やっと彼に伝えることができた。昨夜からずっと何を言おうか考えていたため、若干寝不足になってしまった。
普通の者ならば既に心が折れているであろうクウォーツの態度だが、様々な客を見てきたマリアは辛抱強かった。

暫しの沈黙。彼は相変わらず表情を変えることもなく、人形のような顔付きでじっとこちらを見つめている。
やはり断られるのか。それでもいい。失礼を詫び、感謝の気持ちを彼に伝えることの方がずっと大切なのだから。
だが、クウォーツから発せられた返答はとても意外なものであった。


「……紅茶には少しばかりうるさいが、それでも構わなければ」







「ちょっとクウォーツ、一体いつまで寝ているんですの。どうせ暇なんですから、今からお茶しに行きません?」

一方。朝食にも昼食にも姿を現さなかったクウォーツに対してリアンは若干不満気味である。
普段は無施錠であることが多い彼の部屋には珍しく鍵が掛けられ、外から呼びかけることしかできなかったのだ。
両手を腰に当て、クウォーツの部屋の前で先程から何度も呼びかけているのだが……中からは物音一つしない。

同じくジハードも朝から眠り続けており、そしてサキョウは身体が鈍ると言って部屋で激しくトレーニング中だ。
いつかの船旅の時のように、また壁を壊したりしなければいいのだが。


「返事もしないなんて。折角の美しい乙女達からのお茶の誘いなのに、無視を決め込むとは男として失格ですわ」
「あっ。そちらのお部屋の方なら、先程一階で見かけましたよ」
「え?」

遠慮の欠片もなく扉を叩き続けるリアンに向かって、濡れた廊下にモップをかけていた女性従業員が声をかける。

「青い髪をした綺麗な男の人ですよね?」
「そうですけど……起きていたなら一言くらい私達に声をかけてくれてもいいのに。本当に自由な伯爵様ですわ」


クウォーツの単独行動は、今に始まったことではない。
しかし朝からずっと気に掛けていたリアンとしては、小言の一つでも言ってやりたくなるのも仕方がないだろう。
女性従業員に礼を述べると早速一階へと足を向ける。階段を下りるとすぐそこはロビー、その奥はレストランだ。

ロビーでは数名の宿泊客達が談笑をしているのが見える。どこにいても目立つ特徴的な青い髪は見当たらない。
首を傾げながらレストランへと顔を向けると、ガラス張りの向こうにクウォーツの姿が見えた。
遅い昼食でも取っているのだろうか。声をかけようと歩き始めたリアンであったが、その歩みが思わず止まった。

クウォーツは一人ではなかったのだ。彼の側には女性従業員の姿が見え、どうやら会話をしているようである。
彼が他人と会話を続けるなど珍しいこともあるものだ。……むしろ初めて目にする光景のような気もする。


「クウォーツ」

大きな足音を立てつつクウォーツのテーブルまで歩み寄っていくと、声に気付いた彼が軽くこちらに顔を向けた。
同時に傍らの女性従業員も顔を上げる。とても純朴そうな娘だが、意外にも肝が据わっているのかもしれない。
テーブルの上にはいくつかの紅茶のポットが置かれており、周囲に良い匂いが漂っている。

「何か」
「何か、じゃないですわよ。……朝から姿を見せないと思ったら、一人で優雅にティータイムをしていたなんて」
「それが?」
「私達何度もあなたの部屋に行ったんですのよ。従業員の女の子を口説く前に、私達に声くらいかけなさいな」

「く、口説かれていたわけではないですよ! 昨日助けて頂いたお礼に、紅茶をご馳走させてもらおうと……!」


傍らに立っていた若い女の従業員が、不必要なほど顔を赤くしながら両手を振って否定する。
詳しく話を聞くと、どうやら昨夜階段から足を滑らせた彼女をクウォーツが救ったそうだ。信じられぬ話である。
他人に全く関心を示さないクウォーツが。素知らぬ振りをして、首を突っ込む真似は決してしないと思っていた。

……彼のことを随分理解していたような気でいたが、実のところは然程理解をしていなかったのかもしれない。
クウォーツと会話ができる相手は自分達だけだと勝手に思い込んでいた。そこに僅かな優越感を抱いていたのに。
実際はそうでもなかったのだ。そう思うと、リアンの心がちくりと痛んだ。


「クウォーツさん、紅茶には少しばかりうるさいだなんて仰っていましたけど……少しばかりじゃないですよね」
「そうかね」
「ええ、結構うるさいです。そもそもイセリアローズとセントローズの区別が付く人なんて初めて見ましたから」
「全く違うと思うが」
「これでも私、紅茶については割と長い間勉強したんですよ。それでもなかなか区別付きませんでしたし……」

何やらリアンの前で紅茶についての深い話が始まった。勿論それほど詳しくない彼女には理解できない会話だ。
それよりも、一体いつの間にこの従業員に名を教えたのか。しかも本名のクウォルツェルトではなく愛称呼びだ。
彼が言ったのだろうか。『クウォーツと呼んでくれ』と。そんな馬鹿な。ああ、何だろう。物凄く不愉快だった。


「……お邪魔をして悪かったですわね。それじゃ私、部屋に戻りますわ」

努めて冷静に。ぐるぐると思考が渦巻く心境にしては、思ったよりも落ち着いた声が出たなとリアンは思った。
本来ならば今頃は、クウォーツの紅茶に対する知識はティエルや自分に語られていたのかもしれなかったのに。


立ち去っていくリアンの背を、クウォーツはちらりと一瞥しただけで無言のまま紅茶のカップに口を付けた。





+ Back or Next +