Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第13章 島国エルキド

第150話 悲しみの雨




悪夢のような出来事から、早一週間が過ぎた。
その日から雨は止むことなく降り続け、まるでサクラを失ったサキョウの悲しみを現しているかのようであった。

ヤイバや他の門下生達はジハードの治癒魔法によって命を取り留め、コウやアヤメ達と後処理に走り回っていた。
サクラが悪魔族に殺されたという噂は瞬く間に町中に広まっており、エルキド人達の悪魔族に対する憎しみを
更に深める原因となり、そして勇敢にも戦い、悪魔族を退けたタチバナ道場の面々は称賛されることとなった。

大切な姉を失ってしまったアヤメだったが、悲しみを乗り越え気丈にもリアンと共に台所を切り盛りしており、
同じく妹であるサクラを失いつつもトガクレは師範代として、また喪主として毅然とした態度を崩さずにいた。
サクラの葬式は道場で行い、かつてのガキ大将など幼なじみ達が多く参列した。
中でも婚約者であった餅屋の若大将の悲しみは計り知れず、彼女の名を叫びながら棺に縋り続けていたのだった。


だが、葬式の日ですらサキョウの姿はどこにも見受けられなかった。あの日から彼の姿を全く見ていないのだ。
ささやかな葬式も無事に終わり、サクラの遺体はサキョウの母親が眠るあの墓地へと埋葬されることになった。
まさか再びここへ訪れることになるとは、あの時は誰もが思わなかっただろう。

……そして、そこにもサキョウは姿を現さなかった。


道場を訪れる客の数も落ち着いた頃、庭に面した障子を全開にした状態で、ティエルは外の景色を眺めていた。
敷かれた布団を畳む気にもなれず、口数の多い彼女にしては黙ったまま雨の景色をぼんやりと眺めているだけだ。
昼食の後片付けを終わらせてきたリアンが手を拭きながら戻ってくると、もう、と小さく溜息をついた。

「ティエルったら、布団も片付けないで。あなたが暗い顔をしていると、結構周囲に影響が出るんですのよ?」
「リアン……」
「サキョウが戻ってきたときに、そんな暗い顔をして出迎える気なんですの? ほら、しゃんとしなさいな!」

両頬を包み込むように軽くぱちんと叩かれ、ティエルは拗ねた子供のように彼女から視線を逸らした。
こうなっては結構長引くかもしれない。ティエルは普段はとても明るい性格だが、落ち込むと長引くことが多い。
だがそうも言っていられない。サキョウは依然姿を現さず、ジハードは門下生達の治療に追われている。

クウォーツに至っては人前に姿を見せること自体が少なくなっていた。そういえば彼の姿も暫く見かけていない。


「……サキョウ、一体どこに行っちゃったんだろう。サクラさんのお葬式にも出なかったし」
「気持ちを整理するためには時間がかかるのよ。死んでしまったという現実を、まだ受け止められていないの」
「じゃあいつ? いつになったら、受け止められるようになるの? ……わたしは、まだ受け止められない」
「ティエル」

愛する者を突然失ってしまった悲しみ。それは、ティエルには痛いほど理解できる。
メドフォードが占拠されてからもうすぐ一年近くが経とうとしているのに、未だに受け止めきれていないのだ。
できれば悪い夢だったと思いたい。しかし残念ながら全て現実だ。辛くても前に進んでいかなければならない。

「わたし」
「え?」
「サキョウを探しに行ってくる。サクラさんの近くにいる気がするんだ。……必ず近くにいる気がするんだ」
「あ、ちょっと! 待ちなさいなティエル!?」

突如ティエルは立ち上がり、リアンの制止も聞かずにばたばたと道場に続く廊下を走って行ってしまった。
途中でジハードとぶつかりそうになったようで、一体何の騒ぎだと首を傾げながら彼が座敷へと姿を現した。


「血相変えてティエルが走って行ったけど、何かあったのかい?」
「サキョウを探すって出て行きましたわ。……でも、じっと落ち込んでいるよりティエルらしい行動ですわよ」
「そうだね」

「何かをしていないと悲しみに負けてしまうのよ。だからサキョウのパパもトガクレさんやアヤメさんも、
 あえて慌ただしさの中に身を置いている。そんな毎日を過ごしていくうちに、段々と気持ちの整理がつくの」

聞こえる音は、延々と鳴り続ける雨音のみ。普段ならばこの時間帯は道場から門下生達の掛け声が響いていた。
魔法で治療したとはいえ、門下生達の半分以上が重傷を負ったのだ。暫くは安静にしていなければならない。
ヤイバやコウなど動ける者達は、ミカエラによって破壊された客間の片付けを行っているそうだ。


「サキョウは認めたくないんだ。……理性ではサクラさんの死を理解していても、心が認めていないんだよ」
「当然ですわ。数十年間も想い続けていた相手でしょう? そう簡単に割り切れるわけがないじゃない」
「でも、たとえ何年かかっても。いつかは認めなくちゃいけない」

己の視線を拳に落としたジハードは、ぐっと強く握りしめる。
もしもあの日、サキョウの母親の墓参りについて行くと言わなければ。リアンと共にこの屋敷に残っていれば。
手遅れになる前にサクラを治癒できたのかもしれない。彼女は今頃サキョウの隣で笑っていたのかもしれない。


「ジハード。あなた、また自分を追い込むようなことを考えているんじゃないでしょうね」
「……どうかな」
「自分を追い詰めるのはジハードの悪い癖ですわ。周囲の目は騙せても、私の目までは誤魔化せませんわよ」

「お見通しかい、困ったな」

困ったな、と口に出してはいるが、それほど困った様子を見せずにジハードはにこりと柔らかく微笑んで見せた。
彼の笑顔は本心から浮かべていることが少なかった。『異端の子』として今日まで生きてきたジハードは、
少しでも周囲から好感を持ってもらえるように、愛されやすくなるように、偽りの笑顔を浮かべ続けていたのだ。


「サキョウのことは勿論心配だけど……もう一人、気になるやつがいてさ」
「それって」
「あいつ、あの日から道場の人達の前には姿を現さないようにしているんだ。それで何が変わるっていうんだよ」

つんと湿った木の臭いがする。エルキドの家屋は、殆どが木材で作られているためだった。
暫くの間黙ったまま俯いていたジハードであったが、やがて静かに顔を上げるとリアンに向かって口を開いた。

「……ぼくらも行こう」
「えっ、行くってどこへ……」
「ぼくらもサキョウを探しに行こう。何かに没頭していないと気が紛れないのは、ぼくらだって同じなんだ」

驚いたように赤い瞳を瞬いているリアンにそう言うと、ジハードはリグ・ヴェーダを抱えて駆け出したのだった。







一方。屋敷を出たティエルは、傘を差しながらサキョウの姿を求めて走り続けていた。
顔を歪めながら必死に走り続けるティエルの姿に、すれ違った人々は一体何事かと驚いたように振り返っていた。
見慣れぬ家が立ち並ぶ道。何度か転倒し、衣服が泥水を吸っても止まることなくひたすらに走り続けていたのだ。

どのくらい走り続けていたのだろうか。やがて長い塀に囲まれた、見覚えのある墓地へと辿り着いた。
サキョウの母親と、サクラの眠る場所である。
ゆっくりと門をくぐり、綺麗に掃除の行き届いた墓地をぐるりと見渡すが、やはり動く者は見当たらないようだ。

肩を落としたティエルは元来た道を戻ろうと踵を返すが。その時、傘も差さずに佇む大きな人影が目に入った。
気配など全くなかった。完全に生きることを放棄してしまったかのような人物だった。
ぐっと唇を噛み締めたティエルは、新しい墓石の前で立ち尽くしている人影の背に向けて静かに傘を差し出した。


「……ティエルか……」


差された傘に気付いて振り返ったのは、随分とやつれた老人のような様子のサキョウであった。
ぼうぼうに伸びたヒゲ。頬は若干こけており、髪は長い間雨に打たれて額に貼り付いていた。これでは亡霊だ。
あんなにも生気に満ち溢れていた彼の面影など、最早どこにもない。本当にこの人物はサキョウなのだろうか。

強い意志と輝きを秘めていたはずの黒い瞳はどこまでも虚ろで、ティエルを見ているのかさえも分からない。


「すまんなぁ……ワシはみんなに心配を掛けてばかりだ」
「サキョウ」
「後悔は決してするなとサクラに言われたが、ワシはあの日から後悔をしてばかりなのだ。後悔しかないのだ」

ひとは、たった数日でこれほどまで変わってしまうのか。
蚊の鳴くような弱々しいサキョウの声。彼の髪には、数日前までには見当たらなかった白髪が混じっていた。
喉が焼けるような感覚に陥ったティエルは唾を飲み込み、サキョウに対し泣き笑いのような歪んだ笑顔を向けた。


「みんな、サキョウの帰りを待ってるよ」
「……」
「わたし達も、サキョウのパパも、トガクレさんも、アヤメさんも、コウくん達も、みんなサキョウを待ってる」

強い風が吹き、ティエルの差し出していた傘が飛ばされてしまい、からからと地面を転がっていった。
しかし。必死に絞り出した彼女の言葉も、サキョウには届いていないだろう。虚ろな瞳から涙が溢れ出ていた。


「ワシは……もう駄目であろうなぁ」
「サキョウ」
「……お前達とこれ以上旅を続けていく自信がないのだ。今は……何もする気が起きぬのだ……」

ぼろぼろと涙を溢れさせるティエルを引き寄せると、サキョウは彼女を抱きしめながら泣き続けていた。
その様子を、傘も差さずに無表情のまま墓地の入口で眺めていたクウォーツは、顔を伏せると静かに踵を返すが。
歩きかけた足がぴたりと止まる。前には同じく雨に濡れたジハードとリアンが立っていたのだ。


「ワシは、もうお前達と共に行くことができぬ。こんな弱い心のままでは、必ずやお前達の足を引っ張るだろう」
「うん」
「それに……暫くサクラの側にいてやりたいのだ」

「……うん」
「本当にすまぬ」

「でもね、サキョウ」
「……」
「またいつか、サキョウと一緒に旅ができる日……待ってるよ。わたし、ずっと待ってるから」

サキョウは何も答えない。俯いたままサクラの墓を見つめ続けているだけであった。
そんな彼の見慣れた大きな背中を、ティエルは背後から抱きしめた。別れを惜しむかのように力一杯抱きしめた。
墓地の入口には、ずぶ濡れの三つの人影。名残惜しそうにサキョウから身を離したティエルは、彼に背を向ける。

「今度は敵討ちなんて関係のない、楽しい旅をしようよ。五人でさ。世界の果てを目指すのも、きっと楽しいよ」
「……」
「だから……わたし達、行くね。そのためにやらなくちゃいけないこと、あるから」

「ワシは」
サキョウの声。

「ワシは、どうしようもなく心の弱い男なのだと思い知らされた。サクラが死んで、希望を失ってしまったのだ。
 大の男が情けないだろう。なあ……教えてくれ、一体どうすれば強くなれる? お前達のように強くなりたい」


か細い声で発せられたサキョウの独白。どんな時でも前向きで、ティエル達に力を与えていた彼とは思えぬ姿だ。
サクラの存在は彼にとって、それほど大きな存在だったのだ。希望の象徴でもあったのだ。
たとえ自分の隣で微笑んでいなくとも、他の男の隣で微笑んでいようとも、彼女が幸せならばそれでよかった。


「強い心といいますけれど……サキョウの望んでいる強い心って、どんなものをいうんですの?
 どんなに大切な人を失ってしまっても、決して涙を流さない心のこと? 悲しみを全く感じない心のこと?」

暫くの沈黙の後、最初に口を開いたのはリアンであった。
濡れて頬に貼り付いたハニーシアンの髪を払いのけると、リアンはサキョウに向けて少しだけ微笑んで見せた。
彼は何も答えない。大切な人物が殺されても、何も感じない心を持つことが幸せだというのだろうか。


「それがもしもサキョウの望む強い心だというのなら、ぼくは強くなりたいとは思わないよ。
 強くなんかなくても、たとえどんなに弱いと言われても。愛する人の死に涙を流せる心を、ぼくは誇りに思う」

次に口を開いたのはジハード。
弱くても、立ち止まってもいいと思う。それで再び歩き始めることができるのなら、前を向いて行けるのなら。
サキョウが顔を上げる。何かを言葉に出そうと口を開くが、そのまま力なく閉じられていく。


「悲しみを全く感じることのできない、涙を流すことのできない私を……果たしてお前は羨ましいと思うのか」

人形のような顔付きで、硝子玉のような瞳でクウォーツが言った。
生ける人形と呼ばれ、泣くことすら知らない者もいる。涙の意味を知らない者もいる。感情を持たない者もいる。
そして、感情を失っていることに対して嘆くことすらできない者もいる。それは強い心といえるのだろうか。


「……さよならなんか言わないからね、サキョウ。全てが終わったら……会いに来て、いいかな」

最後にティエルが口を開いた。
雨の中段々と遠ざかっていく四つの後ろ姿を、サキョウは虚ろな瞳で立ち尽くしたままいつまでも見つめていた。
今もなお彼の顔を濡らし続けているのは、激しい雨によるものなのか、それとも……。





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