Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第14章 BLACK・KNIGHTS

第153話 Savas Collection -3-




ティエル達が予約を済ませた二十階建てのホテルは、さすが大都市の宿泊施設だけあって客室は二百を超える。
宿泊代も小さな町や村の三倍ほどだ。赤い絨毯の敷き詰められた床に、凝った細工の豪勢なシャンデリアの数々。
高名な画家の描いた絵画や骨董品が並ぶ廊下は、小国の城の廊下といっても誰も疑いはしないだろう。

ティエルがまず驚いたことは、部屋の中に紅茶やコーヒーなどのティーセットが置かれていたことであった。
十八階に部屋を取ることができたティエル達は荷物を置いてから、ギルドの確認がてら買い出しに出掛けたのだ。

ギルドの前に張り出されている賞金首は高額で、暫くはここで稼ぐのもいいかもね、とジハードが言っていた。
長旅にはどうしても金がかかる。幸いにもティエル達は高額な賞金首を狩ることが可能なほどの力を持っている。
一体でも倒してギルドに差し出せば、一ヶ月ほどは何もせずともこの町に滞在し続けることができるだろう。


すっかり日が暮れた頃。
そろそろリアンが戻っているだろうとホテルへ帰ったが、残念ながら彼女の姿はロビーには見受けられなかった。
サバス・コレクションに参加する資格を得るために、まだ町のどこかにいるのだろう。
別れ際に夕食を先に食べていてくれとリアンは言っていたが、やはり彼女が戻ってくるまで待つことにしたのだ。

彼女の帰りを待ちながら、クウォーツとジハードの二人部屋では会話もなく、ただただ時間が過ぎ去っていった。
普段ならば他愛のない馬鹿話を交わしている二人なのだが、今はそんな気分にはなれなかったのだ。
知らずのうちに精神的に頼り切っていたサキョウの抜けた穴は、ジハードが思っていたよりも遥かに大きかった。

しかし、ティエルの前では落ち込んでいる様子を見せるわけにはいかない。
彼女は感受性が強い上に、まだまだ感情をコントロールできない子供だ。悲しいときはひたすら落ち込み続ける。
こんな時、大人達まで落ち込んでいては前に進むことができない。吹っ切った顔をして前に進んでいかなければ。

……だが大人といえども、ジハードは勿論、クウォーツやリアンも世間一般的には若輩者と呼ばれる存在である。
ティエルに比べれば多少人生経験は積んでいるだろうが、精神的にはやはり未熟な部分が多く残っている。
ベッドに寝転がりながら料理本をぱらぱらと捲っていたジハードであったが、先程から内容が頭に入ってこない。


窓辺の椅子に腰掛けながら夜景を見つめているクウォーツへと視線を向ける。やはり彼はいつも通りである。
しかしエルキドに辿り着いてから、段々と彼の精神状態が不安定になっていることにジハードは気付いていた。
悪魔族を壊滅させると言いつつも悪魔族のクウォーツを仲間と認めているサキョウ。
その矛盾に対して、そしてミカエラから仲間になれと持ち掛けられ、彼の精神は着実に追い詰められていたのだ。

サキョウの母親の墓参りの帰り道、クウォーツとサキョウの二人が一体どんな会話を交わしたのかは分からない。
若干気まずい状態になっていた二人の仲を取り持とうとして、余計なことをしてしまったのかもしれない。
母の死を乗り越え、悪魔族であるクウォーツを認めて漸くサキョウは前に進もうとしていたのだ。それなのに。
愛する女性をミカエラに殺害され、再び悪魔族は彼の憎しみの対象となってしまった。


もう一度ジハードは窓辺のクウォーツへと視線を向ける。相変わらずの無表情だ。だが、様子が少しおかしい。
十八階の部屋から眺める夜景は美しく、下には色とりどりの光が広がっている。
そんな光景を眺めている彼の顔色が、普段以上に蒼白に見えた。何度も生唾を飲み込み、額には汗が浮いている。


「……もしかして、体調が悪いのをずっと隠してたの?」

普段は見本のようにきっちりと丁寧に結ばれたリボンタイを彼が緩めかけた時、見兼ねたジハードが口を開いた。
ジハードに気付かれているとは思わなかったのか、クウォーツはリボンタイを緩めていた手をぴたりと止める。
昼間は辛そうな様子を見せていなかった。もしかしたら彼も、ティエルの前では気を張っていたのかもしれない。

部屋に戻り、思わず気が緩んでしまったのだろう。……勿論、その様子を聡いジハードが見逃すはずがなかった。


「サキョウもあんなことになってしまったし、エルキドでは色々とあっただろ。体調を崩すのも仕方がないよ」
「……」
「ティエル達の前で気を張り続ける気持ちは分かるけど、ぼくの前くらい気を抜いたって……クウォーツ?」


やはり様子がおかしい。
普段ならば、人形のように眼球を殆ど動かすことのないクウォーツの視線が若干泳いでいるようにも見えたのだ。
ベッドから身を起こしたジハードはクウォーツへと歩み寄り、彼の青い前髪をぐいと上げて己の額を押し当てた。
少しだけ熱っぽい気がする。だが、その瞬間。両の瞳を見開いたクウォーツは彼から弾かれたように身を離した。

ジハードのスキンシップの多さ、距離の近さは今に始まったことではない。今更何を驚くことがあるのだろうか。
明らかにクウォーツは彼を避けている。こんなことは初めてだ。近付かれては何かまずいことでもあるのか。


「えっ、なに。びっくりした。本当にどうしたんだよ」
「……別に」
「いや、少し熱あるだろ。流行り病だったらぼくにうつるとか気にしてる? これだけ一緒にいたらもう遅いよ」
「そういうわけでは」
「薬飲んで暖かくして寝てろって。治癒魔法は病気には効かないんだから。えーと、薬草はどこだったかな」

「すぐ、戻る」
「えっ? おい、すぐ戻るって一体どこに行くつもり……待てよ、クウォーツ!?」


荷物から薬を取り出そうとしているジハードの制止も聞かず、クウォーツは口を押さえながら廊下に飛び出した。
廊下ですれ違っていく宿泊客達が何事かと次々と振り返っていく。
行き先はどこでもよかったのだ。一刻も早くジハードから離れたかった。離れなくては最早自制ができなかった。
先程ジハードに触れられた時、彼の無防備な首筋に牙を突き立てたくなるような衝動に駆られた。もう限界だ。

ほぼ飛び降りるような形で階段を下り、ホテルを出た彼は未だ眠らぬ夜の町を走り続ける。
人間の振りを続けていくのもそろそろ限界が近付いてきた。……そんな真似事など、最初から無理だったのだ。
人間と同じように太陽の下で生き、血や精気を吸わずに食事を取る。悪魔族にとって命を削るような行為だった。


耐えられる限り、ぎりぎりまで血や精気を摂取しないように心がけていた。
最後に血を摂取したのは一体いつだっただろうか。ああ、町を襲った盗賊の不味い血を吸ったのが最後であった。
その頃もクウォーツは体調を崩しており、有ろうことかティエルにまで手を出そうとしていたことを思い出す。

……段々と体調を崩す間隔が短くなってきている。
いつかは理性も消えてしまい、見境がなくなってしまうのだろうか。それでは本当に欲望のままに生きる魔物だ。

サキョウの父親は言った。悪魔族というのは『人々を魅了し欲に溺れさせ、堕落させてしまう魔物』なのだと。
それは間違ってはいないのかもしれないとクウォーツは思い始めていた。だからこそ、あの時何も言わなかった。
しかし。違う、人間達が勝手に自滅しているだけだ、と。奴らの自業自得なのだと。別の声が頭の中に響き渡る。
己が欲に溺れた責任を、全て悪魔族に擦り付けたいだけなのだと。


濃い桃色や紫に輝く派手な魔法灯が並ぶ寂れた通りに迷い込んだクウォーツは、更に薄暗い路地へと進んでいく。
倒れるようにその場に腰を下ろした彼は、ぐったりと壁に凭れ掛かった。既に立つ気力すら残ってはいない。

人間はこんなにも世の中に溢れているのに、何故自分は悪魔族なのだろうか。
悪魔族の中で生きていれば、こんな疑問を持つことすらなかった。だが知ってしまったのだ。人間達の生き方を。
陽だまりのようなジハードやティエル達とあまりにも近くで過ごしすぎたのだ。感化され過ぎたのだ。

己も彼らと同じように生きていけるのかと錯覚してしまった。だが、悪魔族である現実は残酷に突きつけられた。
血や精気を摂取しなければやがては体調を崩し、誰だろうと見境なく相手に襲い掛かってしまう、という形で。
悪魔族が人間の振りをするなんて、到底不可能な話だったのだ。


「……あんた、具合悪そうだけど大丈夫?」

その時。唐突に声が掛けられた。蓮っ葉な女の声だ。
ゆっくりと視線を上に移動させると、肌も露わな格好の女が路地裏に座り込んでいるクウォーツを眺めていた。
どうやら売春婦のようである。考えに没頭するあまり、彼らしくもなく気配に気付くことができなかったのだ。


「よくいるのよ、酒を飲み過ぎて気分悪くなってるやつがさ。うふふ、金払ってくれれば介抱してあげようか?」
「……」
「ちょっと無視ぃ? あんた、どうせここには女探しに来たんでしょ。あたしはどう? 悪くないでしょう」

長い赤毛の娼婦は笑みを浮かべながら豊かな胸を揺すって強調させる。
惜しみなく曝け出された首筋。はちきれんばかりの胸元。娼婦は警戒心の欠片もなく彼へと歩み寄っていった。
薄暗い路地。通行人などいない。格好の獲物だ。ああ、この娼婦の肌を裂き、首筋に牙を埋め込んでやりたい。


「いつまでもそんな薄暗いところで座り込んでいないでさぁ、顔くらい見せてよお兄さん……って、きゃあ!」

商売用の笑顔を浮かべた娼婦はクウォーツへと歩み寄っていくが、足元の酒瓶に躓いて彼へと倒れ込んでしまう。
こんな所にゴミを捨てたのは誰よ、と悪態をつきながら身を起こそうとする娼婦だったが。
その時、彼女は初めてクウォーツの顔を間近で目にしたのだ。……薄いアイスブルーの瞳が彼女を見つめている。

まるで冷たい硝子をそのまま嵌め込んだかのような瞳。思わず言葉を失い、その瞳に娼婦は魅入られてしまった。
目が離せない。離れない。離すことができない。劣情を誘われるまるで媚薬のような美しい男だと彼女は思った。
見つめているとじわじわと身体中に媚薬が染み込み、心をがんじがらめに絡め捕られる。明らかに人外の存在だ。

それなのに硝子のような儚さすら感じられた。一瞬で心を奪われるということは、このようなことなのだろうか。


倒れ込んだ時に傷付けたのか、娼婦の首筋には赤い線が生まれており、その傷口からじわりと血が溢れていた。
首筋に食らい付きたくなる衝動を抑え、だが、クウォーツはその赤い色から目を離すことができなかった。
……おかしくなりそうだ。第一ここまで耐え続けたんだ。欲望に忠実に生きる魔物となってもいいじゃないか。

そもそも耐え続ける必要なんてあるのだろうか。ティエル達と出会う前までは欲望のまま生きていたではないか。
彼女達と生きる道を選んでからはできる限り、こちらに危害を加えようとしてくる者達から吸血を続けていた。
だが。この娼婦は危害どころか、むしろ彼に好意的だ。彼女を殺せば、単なる魔物に成り下がってしまうだろう。

けれど、それが一体どうしたというんだ。
どう足掻いても悪魔族は魔物だ。人間ではない。もう……人間の振りを続けるのは、終わりにしようではないか。


「え? ……きゃっ!」

気が付くと、クウォーツは娼婦を己に引き寄せていた。
彼女の首筋から零れ落ちる鮮やかな赤い糸をなぞるように舌に血を絡めながら、ゆっくりと舐め取っていく。
酔ったようにとろんとした甘い表情を浮かべた娼婦は、拒む様子もなく頬を紅潮させながら彼に身を預けていた。

「もう……やぁね、外でやるのが好きなの? あんた、綺麗な見た目の割にはせっかちなんだから……ぁあっ!」


娼婦が言葉を終えぬうちに、無防備に曝け出された彼女の首筋へ、クウォーツは鋭い牙をつぷりと埋め込んだ。
溢れ出す真紅の血。この世の何よりも甘美で、脳を痺れさせ、理性など簡単に手放してしまう禁断の美酒だった。
娼婦の喉が仰け反り、快楽に歪めた口から切なげな吐息が掠れた声と共に吐き出される。

恍惚とした表情の娼婦とは裏腹に、冷めた表情のクウォーツは彼女を己の身体の下に組み敷いて血を貪り続けた。
やはり女の血はいい。もっと早くにこうすればよかった。あれだけ耐え続けていたのが馬鹿みたいに思えてくる。
第一この女も拒んではいないではないか。むしろ悦んでいるじゃないか。迷う必要など、どこにもなかったのだ。

その時。


「……クウォーツ……」

唐突に、聞き慣れた女の声が響いたのだ。
からんと地面に転がった『もの』に視線を走らせると、大きな青い水晶の杖。これもよく見慣れたものである。
口を血で濡らしたクウォーツが顔を上げると、瞳を呆然と見開いたままこちらを見つめるリアンの姿があった。





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