Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第14章 BLACK・KNIGHTS
第156話 ハンナとダフ屋ヘルグ
人気もなく寂れた通りには割れた酒瓶がいくつも転がっており、時折風に吹かれて新聞の切れ端が足に絡みつく。
華やかな大都市マクディアスの影の存在である娼婦街。ごろつきや職を失った者達が集う場所であった。
あれから数十分歩いた頃だろうか。やがて、随分と魔力の弱まっている魔法灯が照らす大きな看板が見えてきた。
砂埃と錆びのために薄汚れた印象の強いその看板は、一見すると何が書いてあるのか判別できない。
その看板を掲げたあばら屋の前で娼婦がくるりと振り返る。……どうやら、ダフ屋ヘルグの家に到着したようだ。
薄っすらと灯りの洩れる窓の前を横切った彼女は、同じく薄汚れた看板のかかった木製の扉を勢いよく開いた。
「ただいま、ヘルグ兄さ……」
「う、うわわっ! おいおいハンナ、扉を開ける時はノックくらいしやがれってんだ」
「いいじゃないヘルグちゃん、妹さんに見られながら抱かれるのも逆に燃えるわぁ」
彼女が扉を開けると同時に、中から男女の悲鳴が上がった。
クウォーツがひょいと家の中を覗いてみると、薄暗い店のカウンターの上に四十代後半の男女が抱き合っていた。
一人は無精ヒゲを生やした赤毛の男。ほんの少し娼婦に似ていることから、恐らくこの人物がヘルグだろうか。
もう一人は赤いルージュを塗りたくった濃い化粧の女。黒のキャミソール一枚の姿だ。こちらの方は娼婦だろう。
ヘルグと思わしき男は、邪魔をされたためか不機嫌そうに文句を口にしながらスラックスを引き上げている。
「はぁ? 何言ってんのよ、自分の家に入る時にいちいちノックするわけないでしょ。兄さんも懲りないわね」
「うるせぇなぁ。オレのお楽しみタイムを邪魔するんじゃねぇよ」
「店の方に女を連れ込むなって何度も言ってるでしょう? ここじゃなくて、自分の部屋に連れ込みなさいよ」
「……ったくよう、口とおっぱいばかりが立派に育ちやがって。昔のお前は素直で可愛げがあったのによぉ……」
「きゃははは、ヘルグちゃんったら妹さんに怒られてるぅー。かぁーわいいー!」
クウォーツをここまで案内した娼婦はハンナと呼ばれていた。
彼女は呆れ果てたようにぼさぼさの赤毛をかき上げると、ヘルグの背後で笑っている中年の娼婦へと顔を向ける。
「兄さんったら、また新しい女を連れてきて……この間のジュリアさんはどうなったのよ?」
「あいつの話はもうすんな! あんな性悪女、こっちから捨ててやったぜ」
「本気の恋だって言っていたじゃない。どうせいつものように貢ぎまくって捨てられちゃったんでしょうけどね」
「う、うるせぇよハンナ! オレのことが言えるのか? ……お前だってちゃっかり男連れ込んでるじゃねぇか」
そこで漸く一同の視線が戸口に立っていたクウォーツへと注がれる。
この場に似つかわしくはない貴族然とした青年だが、同時に淫靡な雰囲気を漂わせる男娼にもヘルグには見えた。
恐らくこの青年は多くの者達の人生を狂わせてきたのだろうと、裏の社会で生きるヘルグだからこそ察せられた。
「おい……随分とやべぇ奴を連れてきやがったな。あんまりそいつに関わらねぇ方がいいんじゃねぇか?」
「きゃーっ、超美形じゃない! その子の隣に並ぶと、ヘルグちゃんがちんちくりんの不細工にしか見えないわぁ」
「そ、そりゃあ酷いぜミシェルちゃぁん!?」
「あたしの客じゃないわよ、兄さんの客なんだから。この人はね、さっきあたしを助けてくれた恩人なんだ」
なかなか話が進まない。時刻も時刻なので、早めに済ませなければ明日に響く。
カウンターの前まで歩み寄ったクウォーツは、怪訝な表情を浮かべてこちらを見つめるヘルグの胸倉を掴んだ。
「貴様がダフ屋か」
「あぁん?」
「サバス・コレクションとやらに参加するための会員証が欲しい。あるならさっさと売れ。急いでいる」
「なんだぁ!? びっくりするほど態度のでかすぎる奴だな、おい!」
突然クウォーツから胸倉を掴まれたヘルグは、暫くの間予期せぬ出来事にぽかんと口を開けたままにしていたが。
やがて我に返ったのか、彼の手を胸元から振り払うと細かい唾を撒き散らしながら怒鳴り声を発した。
確かにヘルグが怒る気持ちは分かる。残念ながらクウォーツにはそういった交渉能力が著しく欠如しているのだ。
「ケツの青い若造が、いいかオレをなめるなよ。裏の社会で何十年商売を続けてきたと思っていやがるんだ!」
「……」
「その程度の脅しでびびる男じゃねぇんだよ。てめぇに売るもんは何もねぇ。分かったらとっとと帰りやがれ!」
「ちょっと兄さん! 少し落ち着いてよ。いいじゃない、会員証あるんでしょ? この人に売ってやってよ」
二人の間に流れる険悪な雰囲気に割って入ったのはハンナであった。
ヘルグの愛人と思われる娼婦は、その様子をにやにやと笑みを浮かべながら楽しげに眺めているだけである。
「売ってやれぇ? おいハンナ。オレは態度のでかい野郎相手に商売する気なんざ、これっぽっちもねぇっての」
「あたしが連れてきた客くらい大目に見てよ」
「けっ、お断りだ。どうしても会員証を売ってほしいんなら女だよ。女と一発やらせてくれりゃ売ってやるぜ!」
大きな笑い声を上げているヘルグを一瞥するとクウォーツは、話にならない、と声に出さずに呟いた。
できる限り穏便に済ませたかったが、売る気がなければ売る気にさせるしかない。……どんな手を使ってでも。
彼がアイスブルーの両目をすうっと細くさせた瞬間、悪魔の本性である殺気の込められた赤い光が瞳に宿った。
しかし。クウォーツの殺気に気付いているのかいないのか、ハンナは任せといて、と彼に片目を瞑って見せる。
「ねぇ、ヘルグ兄さん。あたしからもお願い、この人に会員証を売ってやってよ。助けてくれた恩人なんだ」
「駄目だ駄目だ、諦めな。男には用はねぇよ」
「……あっそ。それじゃ明日から食事は自分で作ってね。兄さんの好きなミートローフも二度と作ってやらない」
「え!?」
「きゃははは、ヘルグちゃんはミートローフが大好きだしねぇ」
「おいおい……冗談だろハンナ?」
妹の顔を恐る恐る覗いてみたヘルグであったが、残念ながら彼女の顔は本気であった。
食事は妹が作ってくれていた。明日から自分で食事を作れと言われても、何をすればいいのか全く分からない。
しかも彼女の作るミートローフは絶品なのだ。これ以上妹の機嫌を損ねてしまうと、二度と食べられなくなる。
「畜生、仕方ねぇ。妹を助けてくれたらしいしな……特別に会員証を売ってやるよ。で、一体何枚必要なんだ」
「四枚」
「それじゃあ、四千万リンで売ってやる。相場の十倍の値段だが、売ってやるだけマシだと思え……」
そこまで言いかけて、ヘルグは妹ハンナのまるで突き刺さるような冷たい視線を感じ取り、慌てて言い直した。
「そ、相場の十倍はちょっと暴利だったかな」
「当たり前でしょ!」
「じゃあ一千万でどうだ。畜生、睨むなよハンナ! 相場の四百万……ああ、もう破格の二十万で売ってやる!」
「それで構わない」
表情一つ変わることもなく、クウォーツは懐から白金貨を二枚取り出すと指で軽く弾いた。
二枚の白金貨は綺麗な螺旋を描きながらカウンターの上を転がっていく。白金貨は一枚で十万リンの価値がある。
蝋燭の光に照らされて美しく輝く二枚の白金貨に視線を落としていたヘルグは、渋々と会員証を四枚手渡した。
「あーあ、本当に無愛想なやつだな。いくら綺麗な顔してやがっても、所詮は股間に金玉ついてる男だしなぁ」
「……」
「なんだかこいつの顔を見てると、金玉ついてても別にいいかな……って気になっちまって危ねぇな」
「まさか男にまで手を出すつもりなの!? 兄さん、いい加減にしてよ!」
「だ、出さねぇよ。野郎なんかよりも柔らかくておっぱいのある女が一番だぜ、なぁミシェルちゃーん」
「あはぁん、ヘルグちゃんったらくすぐったぁい」
周囲の目も構わずにカウンターの上で行為を始めようとするヘルグ達を後目に、クウォーツとハンナは店を出た。
外は先程と同じように汚れた看板を薄暗い光が照らしており、客を呼び込む女達の声が遠くから聞こえた。
やがて、家の中からくぐもった女の嬌声が響いてくる。あのエロバカ兄貴、とハンナは深く溜息をついて見せた。
「ごめんね、バカ兄貴のせいで茶も出せなかったよ。でも、目的のものが手に入ったみたいで……よかったね」
「ああ」
「……あのさ。よかったら、どこかホテルに入らない? これは商売なんかじゃなくて、個人的なお誘いだけど」
精気を得るいい機会であった。彼女を抱けば、暫くの間は体調を崩すことはなくなるだろう。
血液を摂取するか、それとも性行為で精気を得るか。そのどちらかが、クウォーツが生きていくための術である。
無表情のままハンナを眺めていたクウォーツだったが、やがて風に吹かれて少々乱れた髪を整えつつ口を開いた。
「やめておく」
「あはは、そう言うと思ったよ」
「……」
「これほどいい女が誘っているっていうのに、断るなんてさ。まぁ……その変なところが気に入ったのかもね」
「色々と世話になった」
「うん、引き止めちゃって悪かったわね。……バイバイ、名前も知らない色男さん」
返事はなかった。ハンナに背を向けたクウォーツは、そのまま薄暗い娼婦街を歩き始める。
振り返ることもなくあっさりと去って行く彼の後ろ姿を、ハンナは苦笑を浮かべながらいつまでも見つめていた。
・
・
・
真夜中に吹く風は冷たく、クウォーツはコートの襟を立てながらホテルまでの道のりを急いだ。
娼婦街を抜けるとホテルへと続く大通りだ。時刻のせいか店はどこも閉まっており、人影一つ見受けられない。
ホテルの入口では守衛がおり、クウォーツの姿を確認すると、お帰りなさいませ、と一礼をしながら扉を開ける。
あんなにも賑やかだったロビーもとうに消灯時間を過ぎており、階段や長い廊下に灯る蝋燭の数も減っていた。
十八階の自室に辿り着くと、既に就寝中かと思われていたジハードがこちらを向いてベッドに腰掛けていたのだ。
優しい表情が特徴のジハードにしては若干厳しい表情だ。まさかこんな時刻に彼が起きているとは思わなかった。
「おかえり」
「起きていたのか」
「そりゃそうだろ。あんな尋常じゃない様子で部屋を飛び出しておいて、心配するなっていう方が無理な話だよ」
「心配?」
「どれだけ探したと思ってるんだ。心配したと思ってるんだ。それなのに、けろっとした顔で戻ってきやがって」
「……すまない」
「もういいよ、こうして無事に戻ってきてくれたんだし。リアンの代わりにダフ屋に行ってきてくれたんだろ?」
ああそういえば、とクウォーツは思い出したように懐からごそごそとヘルグから受け取った会員証を取り出した。
会員証の取引相場は四百万リンだったが、ハンナのお陰で破格の二十万リンで手に入れることができたのだ。
男には高額を、女には身体を要求するというダフ屋の話を聞いていたジハードは、脅したのかい、と口を開いた。
「初めは脅すつもりだったが、色々とあってこの値段になった」
「……まさか、身体を要求されたんじゃないだろうね」
「そんなわけないだろ。男に用はないと言われた」
「それなら別にいいけどさ。明日も早いんだから、クウォーツも早く休んだ方がいいよ」
あくびをしてから大きく伸びをしたジハードであったが、ふと動きを止めて振り返る。その顔は珍しく無表情だ。
彼にじっと見つめられる形となったクウォーツは、気にも留める素振りは見せずにドレスコートを脱いでいた。
一見すると仰々しいコートだが、実際はクウォーツの素早さを損なうことのないように仕立てられているのだ。
そこで、漸く彼はジハードの視線に気付いて首を傾げて見せる。一体何だろう。もう休むのではなかったのか。
「あなたは、割と残酷だよ」
「?」
「ぼくが何を言っているのか分からなければ、それでもいいさ。どうやら自分でも気付いていないようだし」
「意味が分からない」
「……ぼくを見ながら、あなたは一体誰と会話をしているんだろう。瞳に映っているのは、本当は誰なんだろう」
「え?」
「おやすみ」
クウォーツが声をかける間もなく、静かに目を伏せたジハードは彼に背を向けてベッドに横になってしまった。
もうこれ以上話しかけないでほしいという空気がジハードの背から発せられている。
その背を暫く見つめていたクウォーツだったが、やがてふるふると力なく首を振ってから溜息をついたのだった。
+ Back or Next +