Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第16章 全ての生ある者たちへ

第175話 ベムジンへの帰還




ごとごとごと。馬車の不規則な心地よい揺れに、ティエルは知らぬ間に眠ってしまったようだ。
爽やかな緑の匂いを含む風と、早朝の優しい日差しが降り注いでいる。彼女はゆっくりと閉じていた目を開いた。
決して広いとはいえない荷台には、のんびりと寛いでいる仲間達の姿が見える。こんな穏やかな日は久々である。

荷台から身を乗り出しながら辺りの景色を眺めているリアン。ジハードはあくびをしながら料理本を捲っている。
時折御者台から聞こえてくる明るい笑い声は、サキョウと馬車の持ち主の男の声だ。
表情もなく妖刀幻夢の手入れをしているのはクウォーツ。周囲には彼を慕って小さな吸血蝙蝠が跳び回っている。

平和だ。こんな穏やかな光景を眺めていると、敵討ちの旅を続けているとは我ながら思えなくなる。
たとえ束の間の平和だったとしても。彼女はこの光景がいつまでも続いてほしいと願わずにはいられなかった。

ロクサーヌの森を抜け、メドフォード王国の位置する広大なエンシルガルド大陸へと漸く辿り着いたティエル達。
港町から内陸へ進むこと二週間と五日。サキョウの暮らしていたベムジンにほど近い町までやってきた彼らは、
ベムジンに積み荷を届けるという商人の荷馬車に乗せてもらえることになったのだ。


「この風の匂いが懐かしいなー! エンシルガルドの風は、青々とした緑と水の匂いをたくさん含んでいるんだ」
「うふふ、ティエルったらご機嫌ですわねぇ」
「だって故郷の近くに帰ってきたんだよ? 知らない町を巡るのもいいけど、やっぱりメドフォードが一番だな」

起きたばかりであるのに機嫌のよいティエルの様子を微笑ましく見つめ、振り返ったリアンが笑みを浮かべる。
彼女が振り返った瞬間に光沢のあるハニーシアン色をした髪がふわりと舞い、リアンを一層魅力的に見せていた。


「メドフォード地方は比較的暖かく過ごしやすい場所だと聞きましたわ」
「うん、そうだよ。雪なんて滅多に降らないもん」
「私の故郷は割と肌寒い場所でしたから、メドフォードが羨ましいですわねぇ。冬の間は雪も積もりますのよ」

「雪かぁ……雪といえば、寒い中露天風呂に浸かりながら熱燗をぐいっとやってみたいね」
「ジハード、発言がおじさんっぽい!」
「この風情が分からないのは、ティエルがお子ちゃまだからなんだよ」

料理本から顔を上げたジハードの発言は、二十三歳の若さとは思えない台詞であった。
苦労を重ねている彼は、年齢の割には老成した部分があるのだ。勿論、年齢相応の未熟さも持ち合わせているが。
お子ちゃまと言われてしまい、ティエルは思わず両頬を膨らませている。この動作自体が既にお子ちゃまである。


「じゃあ、色々片付いたら温泉旅行もいいかもね! わたしは温泉巡りをした後は冷たいミルクが飲みたいなー」
「それを言うならコーヒー牛乳だろ?」
「知っています? 温泉は美容にも大変良いんですのよぉ。お肌がつるつるのぴかぴかになるんですって」

温泉旅行の話で盛り上がっている三人を一瞥し、何を言うわけでもなくクウォーツは再び妖刀幻夢に顔を向ける。
そんな彼の前へ、弾みをつけて荷台に上がってきたサキョウがしゃがみ込んだ。

「クウォーツ」
「?」
「ベムジンへ着く前に、これをお前に渡しておこう」

サキョウが差し出したのは、赤と緑の紐で編まれた腕輪のようなものであった。小さな鈴が三つほどついている。
使用されている赤と緑の色合いは、サキョウが身に着けている鉢巻の色によく似ている。モンク僧の誇りの証だ。
暫くそれを眺めてからクウォーツは、これはなんだ、と言わんばかりにサキョウへと視線を向けた。


「うむ。僧侶の都であるベムジンは、町のあちこちに魔除けの結界が張られているのだ」
「結界?」
「勿論悪魔族に対しても結界は効果を発揮する。だがこの腕輪を身に着けていれば、結界を無効にできるのだ」

「こんなことをせずとも、私が町に入らなければ済む話なのでは」
「そういうわけにもいかぬ」
「……もしも私が悪魔族だと知られてみろ。手引きをした貴様の立場も危うくなるのではないか」

ベムジンはサキョウの第二の故郷だ。そして彼は、己がモンク僧であることに誇りを持っている。
悪魔族を町に入れる手引きをしたと周囲に知られてしまえば、僧侶の身分の剥奪、最悪極刑もありえることだ。
そんな危ない橋を渡るくらいならば、町に入らなければいいとクウォーツは差し出された腕輪を軽く振り払った。


「貴様が何度も言っていただろう。僧侶達にとって、悪魔族は永遠の宿敵であると」
「そうだな」
「町人達ならばともかく、長年悪魔族と対峙し続けてきた僧侶どもの目をこんな腕輪で欺けるとは思えないが」

耳の尖った者ならそう珍しくはない。エルフ族の耳の形と、クウォーツの耳の形は全く一緒である。
だが、彼には隠し切れない悪魔族の妖気を纏っているのだ。
確かに普通の者ならばエルフ族だと誤魔化すことができるのかもしれないが、僧侶達まで誤魔化せるはずがない。

それは勿論サキョウも理解しているはずだが、彼はクウォーツに振り払われた腕輪を笑みを崩さずに拾い上げた。


「……確かにお前の言うとおり、我々僧侶の宿敵は悪魔族だ。奴らを殲滅するために厳しい修行を続けている」
「で?」
「しかし、全ての悪魔族を排除してもいいとは思わぬ。悪魔にも人間にも、色々な者がいると漸く気付いたのだ」

「貴様がそう思っても、他の奴らはそうは思わないだろ」
「分かってくれるさ。お前はワシにとって、大切な仲間……いや、ほとんど息子みたいなものだからなぁ」
「イビキのうるさい父親は遠慮しておく」
「それは酷いではないか!」

サキョウの抗議の声を無表情で軽く聞き流し、クウォーツは溜息と共に彼の差し出していた腕輪を受け取った。
その時。御者台の方から、人の良さそうな赤ら顔の男が顔を覗かせた。
この中年の男が馬車の持ち主である。港町で仕入れた珍しい織物や敷物をベムジンの商店へ届ける道中であった。


「おうい、旅人さん達よ。ベムジン寺院が見えてきたぞう」
「ほんと!?」

ティエル達が前方に目を向けると、ベムジンを象徴する大寺院の丸い屋根が高い塀の上から顔を覗かせている。
ベムジンは町をぐるりと囲んでいる高い塀が特徴だ。これも恐らく魔除けのまじないが彫られているのだろう。
大寺院には世話になったシグン大僧正がいる。大僧正は、祖母ミランダの古くからの知り合いだと言っていた。
長い眉毛に隠された黒い瞳はとても優しい目をしていたことを思い出す。

「わーっ、懐かしい! サキョウ、見て見て。ベムジンが近付いてきたよ。一年ぶりに帰ってきたんだよ!」
「わははは。ワシ以上にお前がはしゃいでどうするのだ」
「あの頃はリアンとも会ったばかりでさ。ほんとに心細くて、故郷を追われてからまだ日が浅かったなぁ……」

「本当にこの一年、色々なことがありましたわね。長かったようで、とても短かったような気がいたしますわ」


「……まだ何も終わってないんだし、三人とも思い出を懐かしむには早いんじゃないのかな」
「勝手にさせておけよ」
「まぁいいけどさぁ」

旅に思いを馳せている三人を眺め、退屈そうに大あくびをしたジハードは隣のクウォーツへと顔を向ける。
ジハードもクウォーツもベムジンを訪れたことがないため、この町に対して特に思い入れがないのであった。

一行がそれぞれの思いを胸に抱いている間にも、荷馬車は聖なる都ベムジンの正門を潜り抜けていく。
年月を感じさせられる重厚な門の左右には、確かに魔除けの結界と思われるまじないが描かれているようだ。
荷馬車が門を通過する瞬間、クウォーツの手首に嵌められた鈴の腕輪が、ぱちんという小さな音を立てる。

クウォーツが纏っている悪魔族の妖気を、恐らくこの腕輪が結界から隠してくれたのだろう。
だがこのような結界などほんの気休め程度であるとクウォーツは思った。入り込める方法などいくらでもある。

ベムジンまで乗せてくれた荷馬車の商人に礼を言い、ティエル達は正門の前でさてどうしようかと立ち止まる。
道行く人々の中には僧侶見習いと思わしき少年達の姿もちらほらと見受けられた。
悪しき者達の敵襲に備え、ベムジン寺院は勿論町並みも複雑なのだ。わざと迷いやすい構造にしているという。


「ティエルよ。お前は初めて出会った時、ワシをゴドーと呼んだだろう。あの時は本当に驚いたぞ?」
「あの時はそっくりに見えたんだよ。……でもサキョウはゴドーみたいに、お腹がぽっこり出てないもんね!」
「ワシは鍛えているからなぁ」
「うん」

「……今でもワシが兄上に見えるか?」
「見えないよ。確かにサキョウとゴドーは似ている所もあると思うけど、やっぱり全然違うよね」


サキョウと初めて出会った噴水広場の前まで来ると、ティエルは笑顔を浮かべて彼を振り返った。
太い眉と優しい黒の瞳は二人とも似ていたが、ゴドーと違って日に焼けた浅黒い肌。鍛え抜かれた大柄な身体。
まるで丸太のようなサキョウの太い腕に、己の腕を軽く絡める。

「ゴドーは死んだ。わたしはその事実をしっかりと受け止めなくちゃならない。目を逸らしたりしちゃいけない」
「ティエル」
「もしも事実から目を逸らしてしまったら、それはわたしを守って死んだゴドーに対して大きな侮辱になる」
「……そうだな」

初めてベムジンでサキョウに出会った時と全く同じ道のりを歩きながら。
二人は亡きゴドーの冥福を祈ったのであった。





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