Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第16章 全ての生ある者たちへ
第179話 夜の帳に揺らめくのは
薄暗い寝所に、押し殺したような荒い息遣いが響く。
ベッドサイドに位置する豪奢なテーブルの上には小さな燭台が置かれていた。随分と短くなった蝋燭であった。
今にも消え入りそうな弱々しい火が灯っており、辺りを微かに照らし続けている。
調度品は高価なものだと一目で分かるものばかりであったが、飾り気のない印象を受けるような広い部屋だった。
それは、華美な装飾など全く興味のないこの部屋の持ち主の性格をよく表しているのかもしれない。
「……はぁ、あぁっ……!」
苦しげな女の声、ぎしりと軋むベッド。か細い蝋燭の光で、官能的な女の裸身が艶めかしく浮かび上がっている。
部屋の中心に位置する寝台の上には、一糸纏わぬ姿で向かい合う男女の姿があった。
熱に浮かされた虚ろな表情を浮かべながら激しく腰を振る女とは打って変わって、男の方は表情すら変わらない。
無駄な肉など一切見当たらない鍛え抜かれた裸身。烏の濡れ羽色をした短い髪に、同じ色をした黒い瞳。太い眉。
力強く鋭い顔立ちだったがその瞳は暗い復讐に囚われており、他人を見下したような表情が特徴の男であった。
女を己の腰の上に乗せたまま、彼はまるで別のことを考えているような素振りさえあった。
「ヴェリオル様っ……!」
惚けるような表情を浮かべ、びくんと何度も身体を痙攣させた女は己の下に寝そべる男の名を呼んだ。
長い茶色の髪をした女である。しかし男──ヴェリオルは、彼女の声に微塵の反応も見せずに眺めているだけだ。
癖のない長い薄茶の髪が、彼女の首筋を伝ってヴェリオルの胸に零れ落ちる。どこかティエルに似た女であった。
ヴェリオルは女を見ながら、別の誰かを見ていたのだ。ぐったりと力が抜けたように女は彼の胸に倒れ込む。
「ああ……ヴェリオル様。やはりあなたはわたくしを見て下さらない。いつもあなたは違う誰かを見つめている」
「なんだと?」
「いつもあなたはわたくしを抱きながら、違う誰かを抱いている」
ヴェリオルの裸の胸に縋り付くように俯いた女は、悲しげな光を瞳に宿しながらゆっくりと顔を上げた。
彼女の言葉に、ぴくりと太い眉を顰めるヴェリオル。
「何が言いたい、タマサ。くくく、まさかお前はオレに愛されたいとでも言うのかね?」
「そんなことをわたくしが望む資格はありません。あなたに愛されることなど決してないと……分かっています」
「当然だろう。オレが愛する女はただ一人。所詮はお前は、ティエルの身代わりでしかないんだ」
冷たく凍り付いたままのヴェリオルの瞳。復讐と執着に囚われた彼の心を、一体誰が救うことができるのだろう。
そして、それが自分ではないことも彼女は理解していた。自分は誰かの身代わりでしかないのだと気付いていた。
気付いてはいたがそれでもよかった。ヴェリオルが他の誰かを見ていても、永遠にこちらを見ることがなくても。
彼が触れてくれる。彼に抱かれているこの一時だけが、愛されていると錯覚できる。そう思い込むことができる。
それだけで満足していたはずだった。これ以上望むものなど何もないと……思っていた。
「愛しいティエルさえこの手に入れば、お前の役目は終わりなんだよタマサ。……興が醒めた。今日はもう行け」
「……はい」
ヴェリオルの心が動かぬことを知りながら、タマサは微笑みを浮かべて触れるだけの口付けをする。冷たい唇。
この男の暗い復讐に燃える瞳に、全てを見下した鋭い瞳に彼女は惹かれたのだ。初めて見た時から惹かれていた。
その瞳に決して自分が映ることがないとしても。
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「ひえぇ、焔の王国ゾルディスなんて言ってるのは誰だよ。真冬の深夜はくそ寒いじゃねーか。へっくしょい!」
大袈裟に身震いをしながら、松明が点々と灯る薄暗い廊下を歩いている人影が一つ。
特徴的な緑の帽子に長いローブ。適当に結ばれたよれよれのネクタイから、この男が如何に無精なのかが伺える。
童顔ともいえる幼い顔立ちに似合わず、その若葉色の瞳はひどく老成した雰囲気であった。まるで老人のようだ。
「こんな夜はヨシノさんの作るミネストローネ食うのが一番だよなぁ……いや、リナのシチューも捨てがたいな」
青年の名はアリエス=ファレル。
こう見えても魔物考古学の界隈では名の知られた博士であり、ゾルディス屈指の魔力を持つ宮廷魔術師であった。
アリエスは現在ヴェリオルから頼まれていた品物を、彼の部屋まで届けに行く途中なのだ。
吐き出した息の白さに寒気が襲ってきたのか、アリエスは緩んだネクタイをきちんと結び直して襟元を整える。
時刻は深夜。その上ここは、大臣や元帥クラスの者達の部屋が並ぶ廊下だ。忙しそうに歩く侍女の姿もなかった。
アリエスとヴェリオルの不仲はゾルディス中に広く知れ渡っているが、実際はアリエスの方が若干立場が弱い。
ヴェリオルから命令されれば不仲であれど、なかなか断ることができない。国の実権を握っている方が強いのだ。
「ん?」
やれやれと一つ大きな溜息をついたアリエスは、前方から足早にこちらに向かってくる人影に思わず首を傾げる。
流れるような長い薄茶の髪をした女。どうやら薄物の上に外套を羽織っただけの格好で廊下を歩いているようだ。
そしてこの女には見覚えがあった。
「タマサさんじゃねーか。もしかしてヴェリオルの旦那の部屋にいたの? やべぇ、鉢合わせするところだった」
「……アリエス博士」
にかっと人懐っこい明るい笑顔を浮かべたアリエスは、タマサに手を振って見せる。
タマサはヴェリオルの部屋付きの侍女だ。しかしアリエスは彼女がヴェリオルの愛人だということを知っている。
行為の真っ最中に部屋を訪れなくてよかったと、アリエスは胸を撫で下ろした。気まずいどころの話じゃない。
声をかけられたタマサは足を止めることもなく、深々と頭を下げてまるで逃げるように廊下を走り去っていった。
彼女は確かに泣いていた。あの涙は決して見間違いなどではない。
女の涙は心が痛む。彼女の後ろ姿を暗い面持ちで眺めていたアリエスだったが、気を取り直して再び歩き始めた。
どうせ『例の少女』にしか興味のない朴念仁が、心無い台詞を言ってタマサを傷付けたのだろう。
他人事ながらもやもやとする。女は泣かせるものではなく、笑顔にさせるもの。それがアリエスの信条であった。
まぁ、仕事が関わればアリエス本人も女を泣かせてしまうことは幾度もあったが。仕事とプライベートは別だ。
そんなことを考えながら歩いていると、やがてヴェリオルの部屋まで辿り着く。やる気のないノックを数回する。
「ヴェリオルの旦那、アリエスです。例の品物を届けに来ましたよっと」
「……入れ、開いている」
「ちわーっす」
更にやる気のない表情と声のまま、アリエスは扉を遠慮なく開け放った。
飾り気のない広い寝室。中央にはキングサイズのベッド。ヴェリオルはその上で気だるそうに寝転がっていた。
彼の裸の上半身は、同性のアリエスが目にしても感心するほど引き締まっており、まるで鋼の筋肉の塊であった。
太い眉に、短く切り揃えられた黒髪。均整取れた体躯。まさに雄々しいとはこのような男のことを指すのだろう。
研究に没頭して身体を鍛える間もないアリエスとは対極に位置する存在である。
いや、男は筋肉ではない。そして勿論身長でも顔でも金でもない。ユーモアのセンスと頭脳で勝負すべきである。
「……ご所望の悪魔族の心臓ですよ。あいつら希少な種族なんで、手に入れんのなかなか苦労したんですからね」
「あの醜い豚野郎の性奴隷どもがいるだろ。確か三体くらい悪魔族を飼っているだろうが」
「ブノワ大臣に頭下げて、悪魔族の心臓を譲り受けるオレの気持ちも考えてほしいなぁ。自分でやって下さいよ」
「ふん、このオレにあの醜い豚野郎に頭を下げろと? そういう役回りはお前の仕事だろうが、アリエス博士」
「うわぁ……信じらんねぇ言い草。いつまでも未練たらたらで、小さな女の子のケツ追っかけてるくせに」
「寝言が聞こえたが? 博士よ。お前の心臓も、ついでに抉り出してやってもいいんだがな」
「い、嫌だなぁ。冗談ですよヴェリオルの旦那。ほらこれ、受け取って下さい」
ヴェリオルが言うと冗談に聞こえない。笑顔を引き攣らせながら手を振ったアリエスは、彼に麻袋を差し出した。
中身は先程言ったように、悪魔族趣味のブノワ大臣から譲り受けた悪魔族の心臓である。
彼が所有する性奴隷の一人が度重なる性行為のためにショック死したところだったという。なんとも哀れな話だ。
「しっかし……よくもまぁ、こんなもん食えますよね。強さを維持するためとはいえ、オレには真似できねぇな」
「食うわけじゃない。悪魔族の心臓を潰し、その滴り落ちる血を飲み干せばいいだけだ。簡単だろう?」
「いやーオレには無理っすね。いくら悪魔族にしか扱えない武具、デスブリンガーを使うためだとしてもなぁ」
「……」
「人間に惨殺された悪魔族の名工が作り上げたという、悪魔族だけが扱える美しくも毒々しい武具。
悪魔族を心底憎んでいる旦那が、悪魔の力を借りて強さを得ているってのも……結構な皮肉な話ですよねぇ?」
クウォーツの妖刀幻夢、バアトリのサタネスビュート、そしてヴェリオルの使用しているデスブリンガー。
それらは皆悪魔族の呪いが込められた武具だ。人間が使用すればたちまち生命を吸い取られて死に至ってしまう。
だがヴェリオルはデスブリンガーを使用するために、恐ろしい方法をアリエスに編み出させた。
特別な呪いを刻んだ悪魔族の心臓から滴り落ちる血を飲み干すことによって、
本来であれば人間には決して扱えぬはずの強力な武具を扱うことができるようになるのだ。恐ろしい儀式である。
「利用できるものは、悪魔族だろうが何であろうと利用するだけだ。博士、ご苦労だったな。もう行け」
「いやまぁ、旦那がそう言うんならそっちはいいんですけどね。ただ……」
「何だ? 何か言いたそうな顔付きだが」
「さっきタマサさんとすれ違ったんですよ。彼女泣いていた。もうオレ、あんなタマサさんを見ていられなくて。
旦那の女性関係にオレがどうこう言う筋合いは全くないんですけど、いい加減彼女を見てやってくださいよ」
もう行けとヴェリオルから声を掛けられたにも拘らず、アリエスはなかなか立ち去ろうとはしない。
先程廊下ですれ違ったタマサの姿があまりにも痛々しく哀れで、気の毒に思えたのだ。報われてほしいと思った。
しかしアリエスの言葉にも、ヴェリオルは一体何を言っているんだとばかりに眉を顰めるだけであった。
「言葉に気を付けろ、博士。そもそもお前には何の関係もない話だろう。さっさと部屋から立ち去れ」
「……タマサさんって、ティエルちゃんに似てますよね。あの子が大人になったら、きっとあんな感じだろうな」
「それがどうした?」
その言葉に、ヴェリオルの表情が凍り付いた。
気の弱い者ならば震え上がらせてしまいそうな憎悪を込めた黒い瞳で、彼は目の前のアリエスを睨み付けた。
しかしアリエスは全く怯まず、幼さの残るぐりぐりとした丸い瞳でヴェリオルを睨み返す。
「タマサさんを抱いても、ティエルちゃんを抱いていることにはならない。あの子が手に入るわけじゃないんだ」
「……で?」
「旦那、あんたも本当は分かっているんだろう。なのにいつまでタマサさんを身代わりにするつもりなんだよ?」
「言いたいことはそれだけか、博士よ」
「それだけ、って」
「お前の今日までの功績に免じて今は許してやるが、これ以上余計な詮索をすれば……博士とて容赦はせんぞ」
ああ、この男には何を言っても無駄なのだと。その時アリエスは心の底から理解したのだ。
己以外は全て手駒。勿論ティエルも含めてだ。手駒が何を考えようと関係がない。手駒に情など湧くはずもない。
これ以上の会話は無駄だ。落胆したように肩を落としたアリエスは、彼に背を向けるとゆっくりと歩き始めた。
「分かりましたよ、出て行きます。オレなんかが余計な口出しをして申し訳ございませんでした」
「……」
「でもね、あんたの愛し方じゃ絶対にティエルちゃんは手に入らねぇよ。それだけが言いたかったんです」
返事はない。
アリエスは緑の帽子を深く下げると、軽く一礼をしてヴェリオルの部屋を後にした。
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