Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第16章 全ての生ある者たちへ
第195話 For one's smile -3-
気が付くと既に陽は傾いており、大きく開け放たれた執務室の窓からはオレンジ色をした光が差し込んでいる。
午後の会議が終わってから再び執務室に戻ってきたティエルは、周りが見えぬほど資料に目を通し続けていた。
自分でも驚くほどの集中力である。一年前までは、勉強が嫌いで度々授業を抜け出していたことを思い出す。
日々の勉強はいつか必ず役に立つのだと、授業を抜け出したティエルに向けてガリオンがよく言っていた。
その時は、まさかこんなにも早く『いつか』が来てしまうとは夢にも思わなかった。だが祖母はもういないのだ。
しっかりしなければと思う反面、感覚がなかなかついて行かない。ぼんやりとした状態のまま一日が過ぎていく。
リアンのことや、ヴェリオルのこと。二人のことをできる限り考えないようにしている自分がどこかにいた。
大声で泣き叫びたくとも塞き止められたかのように涙が出てこない。
ティエル達をずっと騙し続けてきたと言っていたリアン。数多くの思い出が全て嘘だったなんて、思いたくない。
そしてヴェリオルが昔ギルと名乗り、父王ブラムの側近だったことも。できれば知りたくなかった真実だった。
色々なことが一度に起こりすぎてティエルの感情が追いついていかない。
今は復興のことだけを考え、悩む時間もない。だがそれが落ち着いたとき、一気に感情が押し寄せてくるだろう。
そんな彼女の状態を理解しているからこそ、サキョウは落ち着くまで復興に手を貸してくれると言ってくれた。
力仕事においてはサキョウの右に出る者はいない。運搬道具を使わなくとも巨大な瓦礫を次々と運び出しており、
半崩壊した謁見の間は、サキョウや大工達の力によって段々とかつての姿を取り戻していくようだった。
一方ジハードは戦いによって傷付いた者達の治療にかかりっきりとなっている。
医者や看護師、そして治癒魔法の心得がある者達を集めた医療班の一人として、日々忙しなく駆け回っていた。
だがティエルには、あえて慌ただしさの中に身を置くジハードが何かを忘れようとしているようにも見えたのだ。
クウォーツは、戦いで負った左手の傷が想像していたよりも深かった。氷の刃を握り続けていたのだから当然だ。
暫く剣を握らず安静にしているようにとジハードから厳しく言われていたが……大人しくしている彼ではない。
そして、どうやら色々と吹っ切れたサイヤーから騎士団に入れと勧誘を受けているようだ。
きっとサイヤーならば、彼と仲良くなれるだろう。元々サイヤーは相手の中身を知ろうと努力する性格なのだ。
やがてティエルはゆっくりと動作で椅子から立ち上がり、虚ろな瞳のままふらふらと扉に向かって歩き始める。
執務室を後にし、彼女はそのまま行く当てもなく夕日の差し込む廊下を歩く。
自分の部屋には戻りたくなかった。一人になれば、暗いことを考えてしまいそうだ。誰かと一緒にいたかった。
日々仕事に追われて、夜一人でベッドに入る時。急に恐ろしいほどの寂しさに包まれ、きゅっと心が苦しくなる。
こんな時、いつもリアンが優しく手を握りしめてくれていた。ティエルが落ち着くまでずっと側にいてくれた。
けれど彼女はもういない。最初からリアンという娘など、どこにもいなかった。
世界中どこを探しても、仲間思いのリアンという存在はいない。全ては……焔の魔女が演じた幻でしかなかった。
(……駄目だよ、今はリアンのことを考えちゃ。今は国のことだけを考えるんだ。それだけを考えるんだ)
そう自分に言い聞かせ、ティエルはふと立ち止まる。
気が付けば、町並みが一望できる三階のテラスの入口へと立っていた。祖母ミランダが好んでいた場所でもある。
薄っすらと埃の積もった白いテーブルやベンチ。それらが夕日色に染まり、床に濃い影を落としていた。
久しく人の出入りした形跡が感じられない。美しかった彫刻の手摺りは随分とくすんだ色に変色しているようだ。
……その時。完全に誰もいないと思っていた夕暮れのテラスにて、背後から唐突に声が掛けられたのだ。
「ティエル?」
驚いて振り返ると、目を瞬いているクウォーツが立っていた。まさかこんな場所で彼と出会うとは思わなかった。
思えばあの戦いの日から、彼と二人だけでゆっくり向かい合うことはなかったように思える。
決して避けていたわけではないが、クウォーツを見つめていると、笑顔を浮かべたリアンの姿が重なってしまう。
リアンにとって彼は特別な存在だったのだろうと、ティエルですら察せられた。それすらも……演技だったのか。
「あっ、クウォーツ! 怪我の具合はどう? またリハビリと称して無茶な特訓していたら駄目だからね?」
「私はそんなに信用ないのか」
「うん。……何度も過去にやらかしてるでしょ。クウォーツはさぁ、もっと自分を大切にしてあげた方がいいよ」
「お前もだろ」
じっと真っ直ぐに射抜いてくるクウォーツの硝子の瞳。
全てを見透かされているような、嘘をつくことが許されぬその瞳に耐えられなくなり、ティエルは視線を逸らす。
このまま彼の瞳に射抜かれていると、負けてしまいそうになる。緊張の糸がぷつりと切れてしまうかもしれない。
「わたしはいつも自分を大切にしてます。クウォーツとは違うんですー。でも最近は少し疲れちゃったかなぁ」
「……」
「ほら、王女としてやるべきことが山積みでさ。まぁ仕方ないよね! 復興に向けて今が一番大切な時だもん」
クウォーツの返事はなかった。それでも構わずにティエルは続けた。
「あっ! もうすぐ奪還を祝ったパーティーがあるんだよ。その時はわたしも正装しなくちゃいけないんだって。
こんな日焼けして髪も痛んでる状態でドレスを着ても、全然似合わないんじゃないかなぁ。ちょっと不安だな。
その上わたしダンスも苦手だし。……というか、殆ど踊れないし。絶対にドレスの裾踏んで転んじゃいそう!」
所詮は空元気であった。わざとらしいほど明るいティエルの声が、夕暮れのテラスに虚しく響き渡る。
けれど、もう止まらない。
「一応姫君として、ダンスで転ぶのは格好悪いから……クウォーツに教えてもらおうかな。ねぇ、得意でしょ?
それでさ、どうせだったら当日もリードしてくれたら嬉しいかなーって思ってるんだけどさ。お願いします!」
「ティエル」
「こんなことになるなら、真面目にダンスの授業を受けておくんだったな。これからはちゃんと勉強しなくちゃ。
この間礼儀作法の先生が来てこう言ったんだ、姫様はお転婆に磨きがかかりましたなって。失礼しちゃうなー」
「……やめろ」
「でもわたしだって、いつも剣を振り回しているわけじゃないもん。クウォーツからも先生にそう言って……」
「もういい!!」
クウォーツにしては激しい口調に、びくりと肩を震わせたティエルは顔を上げる。
そこで初めて彼女は、自分が涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった酷い顔で話していることに気が付いたのだ。
涙が止まらなかった。まるで枯れることを知らぬかのように溢れてくる。感情を抑え続けるのも限界であった。
「……もういいんだ。こんな時まで、無理なんかしなくても」
この、彼の言葉が。今日までティエルが押さえ続けてきたものを、あっさりと壊してしまった。
一瞬だけ笑顔を浮かべようと口元を歪めた彼女だが、次の瞬間顔をくしゃくしゃにしながら、大声で泣き始めた。
国を取り戻してからの凛々しい彼女の姿しか知らない兵士達が目にしたら、皆驚愕の表情を浮かべるだろう。
今まで堪え続けてきたものが次々と溢れ出したのか、ティエルはまるで幼い子供のように泣き続けていた。
クウォーツはそんな彼女に伸ばしかけた手を止め、ふと己の左手の平に巻かれた包帯に目を留める。
氷の刃を握った時に負った傷だ。暫くそれを見つめてから、やがて手は行く当てもなくゆっくりと下ろされた。
泣き続けるティエルに声を掛けるわけでもなく、しかしテラスから立ち去るわけでもなく。
クウォーツは黙ったままいつものように無表情で彼女に背を向けると、いつまでも夕日を見つめていた。
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「サキョウ、今日はもう終わりかい?」
本日分の力仕事を終えたサキョウがタオルで汗を拭いつつ廊下を歩いていると、ジハードが窓枠に腰掛けていた。
もしかして待っていてくれたのだろうか。ここ数日は、お互いに顔を合わせる暇もないほど慌ただしかったのだ。
「うむ。お前こそどうなんだ」
「とりあえず一段落ってとこかな。まだまだ怪我人は大勢いるけど、皆命に別状はないくらいには回復してるよ」
「さすがだなぁ。お前がいてくれると本当に心強い。……ところで、ワシを待っててくれていたのか?」
「まぁね、最近は全然一緒に食事取れてなかっただろ。でもお城の食事もいいけど、久々に料理がしたいなぁ」
そう口に出しながら、ひょいと窓枠から飛び降りるジハード。
口調は軽いものだったが、本心からの言葉だということがサキョウにも察せられた。野宿の日々が既に懐かしい。
夕日に染まった廊下を歩きながら、ふとサキョウは隣を歩くジハードへ視線を向ける。普段通りの穏やかな表情。
「ジハード」
「うん?」
「昔……まだワシが幼い子供だった頃、よくこんな夕暮れの中を兄上と手を繋いで家まで帰ったものだ」
「……うん」
「兄上の温かい手に引かれ、父上と母上の待つ家までゆっくり歩いていた。本当に色々な話をしながら帰ったな」
「仲のいい兄弟だったんだね」
「トガクレは今日も泣きべそをかいておった、とか。サクラはお転婆すぎて嫁の貰い手がないだろう、とかな」
サキョウの復讐はまだ続いている。ヴェリオルやミカエラを亡き者にしない限り、彼の復讐は終わらないのだ。
復讐は新たな痛みを生み出してしまう負の連鎖だと理解していても、己を止めることなどできなかった。
彼の言葉を耳にして、ジハードは穏やかに笑って見せる。笑顔を浮かべること以外の表情が思いつかなかった。
「兄上は仇を取ることすらできないでいる不甲斐無い弟であるワシを……恨んではいないだろうか」
「サキョウ」
「……」
「あなたの兄さんは崩れ落ちる時、最後まで笑っていたよね。生ける屍となっても、彼は笑顔を浮かべていた」
「そう、だな」
「最期にサキョウに会えて心から嬉しかったんだと思う。……でなきゃ、あんな幸せそうな顔なんてできないよ」
足を止めるサキョウ。同じくジハードも足を止め、彼を振り返る。その瞬間ちりんと鳴る涼しい鈴の音。
橙色に染まる長い廊下を吹き抜けていく風は暖かく、自然豊かなメドフォード特有の緑の匂いを含んだ風である。
「だから、さ。落ち着いたら、エルキドにお墓を作りに行こう」
「ジハード」
「その時は、ぼくも行って……いいかな」
「当たり前だ」
微かに潤んだ瞳を誤魔化しながら、サキョウは再び歩き始めた。うっかりと言葉の最後が震えてしまったようだ。
ずんずんと進んでいく大きなサキョウの背を眺めながら、ジハードはほんの少しだけ目を閉じたのだった。
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