Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第16章 全ての生ある者たちへ
第196話 薔薇の舞う渡り廊下
「やっと今日の分の仕事が終わったぁ……。まだ少し残っているけど、今日はもうおしまい!」
かつて亡き祖母ミランダが使用していた政務室にて、大量の書類を前にしていたティエルは大きく伸びをする。
古めかしい木でどっしりと作られた大きな椅子は、微かに祖母の匂いが残っているような気がした。
祖母の生前、ティエルはあまりこの部屋には近付かなかったことを思い出す。
仕事中の祖母は、普段の柔らかな雰囲気とは違ってぴりぴりと張り詰めたような表情を常に浮かべていたからだ。
その理由は、今ティエル自身がここに座るようになってからは、なんとなく理解ができるようになってきた。
あまりの仕事量に、彼女も険しい表情を浮かべていたことに気が付いたからだ。最近はゆっくりと休む暇もない。
しかし祖母ミランダが背負っていた重圧は、今のティエルとは比べ物にならないほど重かったのだろうが……。
椅子と同じく古い机を、ティエルは無意識のうちに手でなぞっていた。所々インクを零した黒い染みがある。
この大きな机に向かいながら、祖母は一体何を思っていたのだろうか。どれほどの思いを抱えていたのだろうか。
そんなことも、今となってはもう分からないことであった。
(おばあさまと、もっとたくさんお話したかったな。わたしのこと、おばあさまのこと、色々話したかったな)
祖母とはいつまでも一緒だと、根拠のない確かな思いがあった。
別れがこんなにも唐突に訪れるなんて、平和に暮らしていたあの頃のティエルは考えもしなかったのだ。
あなたの国を取り戻したのだと祖母に伝えたい。よく頑張ったねと、優しい手で祖母に抱きしめて欲しかった。
「ティエル。あのさあ、今夜の祝賀パーティーの衣装のことなんだけど」
「!」
突如部屋に響き渡った実にのんびりとした声に、ティエルはぎょっとした表情を浮かべて顔を上げる。
少し開いた扉の前にはいつの間にかジハードが立っていた。考え事に没頭していたために気付かなかったようだ。
「いきなり声を掛けないでよジハード、驚いたじゃない!」
「うん? ノックはしたぜ。あなたはよく周りが見えなくなるのが悪い癖だ。これが敵襲だったらどうする……」
「お説教はまた今度にしてください。わたし、これから着替えたりとか色々準備しなくちゃいけないし!」
「逃げたね……まぁいいや。今夜くらいはティエルも何もかも忘れて楽しまなくちゃね。たまには休息も必要だ」
「それで、今夜のパーティーの衣装がどうかしたの?」
「ああ……せっかく用意してくれたぼくの衣装だけど、派手過ぎるからもっと地味なものに変えてほしいんだ」
そう言いながら彼が取り出したのは、細かな刺繍が美しい男性用の礼服である。
深い赤を基調とした布地で仕立て上げられたその衣装は、メドフォードでは珍しい中東大陸風のデザインだった。
勿論ジハードが身に着ければ相当華やかであり、よく似合うであろう衣装だ。しかし彼はあまり乗り気ではない。
「えぇーっ、なんで? それはわたしと侍女のエレナが一生懸命選んだ衣装なんだよ。エレナも悲しむよぉ」
「いや、そんなことを言われてもな」
「ジハードの普段着も結構派手だし大丈夫だよ。イケメンはこういう派手な服が似合うってエレナが言ってた!」
「イケメンって……そういう俗っぽい言い回しは姫君としてどうかと思うんだけど」
「ジハードはまだいいよ。わたしなんかドレス着なくちゃいけないんだよ? 絶対に似合うわけないのにさ」
ティエルの現在の服装は、簡素な水色のワンピースである。襟元の金の刺繍が辛うじて衣装を飾り立てている。
素朴な雰囲気のティエルには煌びやかなドレスよりも、こちらの方がずっと魅力的に彼女を見せてくれていた。
しかし今夜は祝賀パーティーだ。メドフォードの姫君として、しっかり立場を全うしなければならない。
「あはは、そんなことはないんじゃないかな。お転婆とはいえティエルも女の子なんだし、きっと綺麗だよ」
「また適当なこと言ってるー」
「ぼくもサキョウも、ティエルのドレス姿を楽しみにしてるんだから。そんな自信のないこと言っちゃ駄目だ」
「……うん」
にっこりと穏やかな笑顔を浮かべたジハードは、俯いてしまったティエルの頭に手を伸ばすと優しく撫でてやる。
普段ならば子供扱いをするなと唇を尖らせる彼女であったが、今日に限っては特に不満はないようだ。
「そういえば……サキョウと言えば、どのタキシードもサイズが合わなくて服が弾け飛びそうになってたぜ」
「あれでも衣裳部屋の中でも一番大きなサイズだったんだよ! やっぱり特注じゃないと無理だったかなぁ?」
「まぁなんとか着れたみたいだけど、少しでも激しい動きをしたら脇やら股やら破けるだろうね」
「前もそんなことがあったよね。雨で服が乾かなくて、サキョウが勝手にリアンのストールを腰巻にしてて……」
「……そうそう、結局破いちゃってさ。その後ぼくは、怒った彼女の愚痴に散々付き合わされたっけ」
ははは、と明るい笑顔を浮かべたジハードだが、彼の瞳は明らかに暗い影を落としていた。
笑顔で心境を隠しきれていないのだ。普段は晴れ渡った空色をした瞳は、今にも雨が降りそうなほど曇っている。
あの戦いの日から辛い思いを抱え続けているのは、決してティエル一人だけではない。
「ジハード」
「うん?」
「甘いことを言っていると思うけど、リアンはアスモデウスに脅されていたんじゃないかなって考えてるんだ」
「……」
「だから、わたしはまだリアンを信じてる。きっと生きて、また出会えるんだって信じてるよ」
「……ティエル」
「ごめんジハード。わたしそろそろエレナにドレスを合わせてもらわなくちゃ。じゃあまたパーティーでね!」
気を取り直して勢いよく椅子から立ち上がったティエルは、何か言いたげなジハードを残して足早に廊下に出る。
彼から否定の言葉を聞きたくなかったのだ。まるで逃げるように立ち去ってしまったと、ちくりと心が痛んだ。
いつだって物事を冷静に判断するジハードのことだ。
あの状況から、リアンがアスモデウスに脅されていたとは考えにくいと言われてしまうのが恐ろしかったのだ。
真実から目を背け続けていても、前に進むことはできないと分かっていても、ティエルは認めたくはなかった。
想像していた以上に長い間話し込んでいたのか、夕暮れを過ぎた辺りはそろそろ淡い紫色に包まれ始めている。
あちこちに灯るオレンジ色の松明と、周囲を包む紫の色合いが混じり合いとても幻想的な光景であった。
渡り廊下の向こうでは今夜の祝賀パーティーの準備のために、両手に様々な荷物を抱えた侍女達の姿が見える。
メドフォード城東の二階に位置する渡り廊下は、高い手摺り以外に風を遮るような壁はなく開放的な廊下である。
中庭の庭園に咲く赤い薔薇の花びらが、夜の匂いを含んだ風で運ばれてくる。
舞い上がる赤い薔薇の花びらの向こうには、渡り廊下の手摺りに浅く腰掛けているクウォーツの姿があった。
ティエルの気配を察してこちらを振り返った彼は、やはり初めてハイブルグ城で出会った頃から何も変わらない。
あの幻想的な庭園で、言葉も忘れて暫く彼の姿に目を奪われていた。目を離すことができなかった。
硝子のようなアイスブルーの瞳よりも、誰もが振り返る絶世の美貌よりも、彼の青い髪にただ目を奪われていた。
忌まわしいとされている髪の色が、こんなにも美しいものだったなんて。あの夜ティエルは衝撃を受けたのだ。
あれから、随分と月日が経っていた。……初めて出会った時、彼と一体どんな会話を交わしたのかを思い出す。
「一人のところ、邪魔しちゃってごめんね。でも……あなたの髪の色が、すごく綺麗だなって見とれちゃったの」
「……」
「わたし、ティエルっていうの。よかったら、あなたのお名前を聞かせてほしいな。……あはは、なぁんてね」
二人の間を舞い上がっていく薔薇の花びら。
暫く彼女の顔を黙ったまま見つめていたクウォーツだが、やがて風で乱れた髪を整えることもなく口を開いた。
「クウォルツェルト。……だが、お前はクウォーツと呼んでいるよな」
あの日、クウォーツが初めて発した台詞とはほんの少しだけ違うけれど。その僅かな違いが彼との年月を感じた。
まさか彼が冗談に付き合ってくれるとは思わなかったのか、ティエルはほんの少し驚いたように目を丸くする。
それから彼女は耐え切れなくなったのか笑いを吹き出してしまった。
「やだ、クウォーツまでそんなこと言っちゃって! そういえば……ハイブルグ城の薔薇の庭園、綺麗だったね」
「ここにも薔薇の庭園があるだろう。少々荒れてはいたが、手入れをすればさぞかし美しいだろうな」
「前はハイブルグ城の庭園に負けないくらい、すっごく綺麗で自慢の薔薇の庭園だったんだよ?」
「そうか」
「きちんと手入れし直したら庭園お散歩しようよ。ベンチで色々な種類の紅茶飲みながらさ、のんびりしたいね」
「……ああ」
「約束だよ? それじゃ、わたし今夜の準備しなくちゃいけないから行くね。またパーティー会場で会おうね!」
一瞬だけクウォーツの返答に間があったのは気のせいだろうか。
いや、普段から彼はこういう返答をする時もあったではないか。気のせいだろうと、ティエルは己を納得させる。
足早に廊下を歩き始めた彼女は、ふと立ち止まってクウォーツを振り返るが。そこにはもう彼の姿はなかった。
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