Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第3章 麗しき薔薇の君

第25話 麗しき薔薇の君 -3-




……コツ、コツ、コツ、コツ。


「はあぁっ、ひぃ、ひぃ、ひぃ、わあああっ!!」
ドタタタタ、バタッ、ズル、ズル、ズル、ダダダダダ。コツ、コツ、コツ、コツ、コツ。

「うわぁっ、く、来るな! 化け物っ!! 誰かあっ、畜生、誰か聞こえてたら助けてくれぇぇ!!」

周囲の壁は頑丈な石造りで、叩いて助けを呼んでも到底声は外に聞こえそうもない。
旅人風の衣装を着た男は恐怖にがたがたと震えながら、それでも追ってくる複数の『何か』から逃げ続けていた。
気を抜くと足が縺れて転んでしまいそうになる。


ハイブルグ城地下に延々と広がる薄暗い石牢を、つい先日までは気ままな旅人であった男は走り続けていた。

数日前。男は地図が存在しないというハイブルグの森に迷い込み、城を訪ねると快く一夜の宿を提供してくれた。
男とその相棒を出迎えたのは、非常に醜い容姿をした老婆だった。
彼女は旅人から聞いた様々な話を、自由に動ける身ではないハイブルグ伯爵に語ってやりたいのだと言う。
お安い御用とばかりに、男と相棒は各地を回った様々な旅の話を老婆に語ったのだ。

しかしその夜。
提供された夕食に眠り薬が混入されていたのか、目が覚めたら相棒と共にこの地下牢に閉じ込められていた。
……騙された。金目の物など殆ど持たない自分のような旅人相手に、一体何が目的でこんな真似をするのか。
森には恐ろしい魔物が生息していると聞いていたが、本当に恐ろしい魔物は城の中で手薬煉を引いていたのだ。

二日前に相棒は牢から引きずり出され、それ以来顔を合わせていない。既に生きてはいないだろう。
今自分をゆっくりと追い詰める、得体の知れない『化け物』から同じように追われ、きっと逃げ切れなかった。
そして恐らく、殺されたのだ。


(オレは死ぬのか? このまま化け物にとっ捕まって、殺されちまうのか? ……嫌だ、死にたくない!)

逃げても逃げても悪夢のように、複数の足音は彼を追い続ける。獲物が弱るのを待っているといわんばかりに。
いっそ死ぬ気で立ち向かってやるか。いや……無理だ、相手は化け物が複数。勝てるわけがない。


「うわひっ!? ……いてぇな畜生!」

ただひたすら前を向いて走っていた男は、足元に転がる何かに気付かず派手に転がってしまう。
思わず舌打ちをして忌々しい障害物に目を向けるが、その目が段々と見開かれ、絶望の色に支配されていった。

「ああ……あ……あああぁぁ……フレック、フレックじゃねぇか! ……こんな所に……!」

男が躓いたものは、目を見開いたまま絶命している相棒の姿。しかしその身体はミイラのように干涸らびていた。
しかし嘆き悲しむ暇はない。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、男は再び走り続ける。


背後から聞こえる足音は途絶えることなく男を追う。後ろを振り返ってみるが、闇が広がっているだけである。
そして前を向くと、男の表情が凍り付く。行き止まりであったのだ。

びっしりと蔦の絡み付く石の壁。……その手前に積み上げられた木箱の上に、こちらを見下ろす人影があった。
場違いに置かれた精巧な人形かと錯覚してしまうほど、薄暗い地下牢に不釣り合いな美しい生身の青年である。
光沢のある青い髪色を除いて、全体的に色素が薄い印象だ。決して乱暴に触れてはならない儚ささえ感じられる。

思わず身構えた旅人の男であったが、もしやこの者も自分と同じように牢に囚われていたのではないか。
一人よりは二人の方が心強い。そんな、淡い期待が脳裏を過ぎっていくが。


……いや、違う。現実を見ろ。この若い男も明らかに城の住人だ。人ではない異質な気を放っているではないか。

背後で複数の足音が止まった。青年に気を取られている間に追いつかれてしまったのだ。
振り返ると、黒の衣装を纏った数人の男達が並んでいた。間違いなく人ならざる者達。確認せずとも分かる。
もう逃げられない。だが逃げられないのであれば、死ぬ物狂いで抵抗してやろう。それが男の出した結論だった。

まず狙うのは、一番弱そうな奴にしよう。勢いよく反対側に手を伸ばし、青い髪をした青年の腕を強く引いた。


「……っ!」

か細い悲鳴が青年から発せられる。思っていたよりも簡単に華奢な身体は男に引き寄せられた。
すぐさま旅人の男は隠し持っていた短剣を彼の首筋に宛がう。刃が掠めたのか、白い肌に一筋の赤い線が走った。

「こいつの命が惜しければ、お前ら全員動くなよ。道を開けろ、出口を教えるんだ!」


化け物相手に人質が通用するのか分からないが、旅人は青年に短剣を突きつけたまま男達に顔を向けた。
だが。彼らは道を開ける気配もなく、にこにこと不気味な微笑みを浮かべてこちらを眺めているだけである。

「な、何がおかしい」

「これは失礼いたしました。いえ、あなたが今人質に取ったと思い込んでいるお方を誰だとお思いですか?
 まったくクウォルツェルト様も人が悪うございますな……いつまでか弱き人質を演じ続けているのでしょうか」
「え……?」

その言葉に、旅人の男は短剣を突きつけている相手に改めて顔を向ける。
俯き加減であった青年の様子は、つい先程までならば恐怖のあまり俯いているのだと疑いもしなかっただろう。
青年が己に背を向けている状態であることに、心から安堵を覚える。彼は危険だと頭の中で警報が鳴り響いた。


……じわじわと侵食していく、底知れぬ恐怖。
クウォルツェルトと呼ばれた男から、先刻確かに感じていたはずの弱さ儚さなど微塵にも残ってはいなかった。
本当に関わってはならない恐ろしい魔物はか弱い振りをしながら、哀れな獲物が掛かるのを待ち構えていたのだ。


「ほんの一時の間だけでも、夢が見れただろう」
その甘いテノールの声は、ひどく熱を持って艶やかで。じわじわと耳を侵されていくのが心地よかった。

「もしかしたら、己は助かるのかもしれない……と」

緩やかに振り返った青年の顔が、男のすぐ近くにあった。薄いアイスブルーの瞳から目を離すことができない。
ああ、神様。この凄艶な生き物こそを魔物と呼ぶのなら、それは心底恐ろしい魔物であった。
彼に命を奪われることが、この上ない喜びだと感じてしまった。命を奪われる瞬間を待ち望んでいる自分がいた。

恐怖すら甘美な果実と錯覚させられる美しい顔を近付け、耳元で甘く囁くものは愛の言葉ではなく、死への宣告。


「怖がらなくていい。……すぐに楽になれる」
「……うあぁぁっ!!」

首筋に走った凄まじい痛み。青年の鋭い牙が男の首筋に食らい付いていたのだ。
程なくして全身を侵食していく快楽は、精を放った時の絶頂感とよく似ている。足が震え、力が全く入らない。
青年の細い身体にぐったりと凭れ掛かるようにして、旅人だった男の意識はそこでぷつりと途切れた。







人間は欲深く残酷な者達だ。
力も持たず脆弱なくせに傲慢である。その上集団になると、力を持ったと錯覚して他者を支配しようとする。
人間と悪魔族の因縁は太古から続いている。光と闇のような、決して交わることのない存在であった。

だが圧倒的な数を誇る人間と比べて悪魔族は非常に数が少なく、
その上人間達によって面白半分に各地で行われている悪魔狩りがその差を更に加速させる。馬鹿げた話だった。

ギョロイアは人間を深く怨んでいる。全てを支配するべき存在は、悪魔族なのだと常日頃から口にしていた。
今まで無念のうちに殺された罪なき悪魔族の数だけ、人間達を殺してやりたいと。苦しませてやりたいと。
……しかしクウォーツにとっては、そんなことは最早どうでもいい話であった。
復讐はいつまでも終わることのない負の連鎖だ。人間に関われば、きっと傷付くのはギョロイアの方だと思った。


彼女が傷付くところはこれ以上見たくはない。できることなら、いつまでも笑顔でいてほしい。
ギョロイアと二人だけで、どこか遠い場所で静かに暮らすことができればいい。彼女に心からの平穏を与えたい。
クウォルツェルトという悪魔族の青年は、それ以上に何も望むことはなかった。


ハイブルグ城三階の廊下を歩いていたクウォーツは、ギョロイアの部屋へと向かっていた。
早く彼女の顔が見たい。あの優しい声で名前を呼んでほしかった。不安定な心が唯一穏やかになる時であった。
血の色のような赤い絨毯が続く廊下に人の姿はなく、メイドの姿すらも見受けられない。

赤い絨毯に走る一筋のオレンジ色。ほんの少しだけ開かれた、ギョロイアの部屋の扉から漏れる光であった。
扉を開けたままにするなんて、用心深い彼女にしては珍しいこともあるものだ。
無表情のまま首を傾げ、クウォーツは扉に歩み寄っていった。半ば無意識となりつつある気配を消す癖と共に。


「ほう、これが噂に名高いカルデンツァの毒花かい」

扉まであと数歩のところで、中からギョロイアの声が聞こえてきた。
誰かと会話をしているのだろうか。立ち聞きをする趣味もないので、クウォーツは扉の手前でくるりと踵を返す。
ただ彼女の顔が見たかっただけで、特に急ぐ用事もない。また後で部屋を訪ねればいいだけだ。


「カルデンツァの毒花……たった花びら三枚で、飲ませた者の心を殺してしまう恐ろしい毒花。これを使えば
 ギョロイア様の思いどおりに動く肉人形を作り上げることが可能です」

もう一つの声の主は、普段ギョロイアのご機嫌取りばかりをしている従者である。
オールバックの黒髪と、くるんとしたヒゲが特徴的だった。
常に厭らしい笑みを浮かべながら、クウォーツの姿を上から下まで、ねっとりと舐めるように見つめている男。


「ふふふ。ギョロイア様は一体誰に、この心を殺してしまう恐ろしい毒花をお使いになるのですかな」
「やだねぇ、既に答えなんて決まっているだろう? クウォーツ様以外の、他の誰に飲ますっていうんだい」
「勿論分かっていますよ、ちょっとした冗談じゃないですか」

歩き始めていたクウォーツの足が止まる。

聞き間違いなどではない。確かに今、ギョロイアは彼の名前を口にした。それも耳を疑うような会話の中で。
……いやまさか、きっと疲れているのだ。疲れているから悪い方向に考えてしまうのだ。
何度も自分に向けて愛していると言ってくれた彼女の行動が、今まで間違っていたことがあったか。信じるんだ。


「そもそもクウォーツ様は心が殆ど壊れた人形のようなお方だろう? そのくせ少々反抗的な部分があってね」
「確かに、本当に困ったお方ですよ。まぁそんな困った部分も含めて大変魅力的ではないですか」
「悪趣味な冗談はやめとくれ。お前は単に、見てくれが良いだけの人形で遊ぶのが好きなだけだろう?」
「手厳しいお言葉ですが、否定はしませんよ」

「あたしはごめんだね。あいつに利用価値がなければ、愛しているだなんて虫唾が走ることを誰が言うもんかい」
「ギョロイア様もなかなか残酷なお方ですねぇ……」

「今夜、カルデンツァの毒花を飲み物に混ぜてクウォーツ様にお渡しする。これで完全な肉人形の出来上がりさ。
 心にもない愛を囁くだけで簡単にあたしを信じきった馬鹿な男の末路だ。不幸に塗れて苦しみ続けるがいい!」


ギョロイアの笑い声が、廊下にまで重く響いている。
そんな毒花になど頼らなくとも、彼女のためならば何だってしてやるのに。この心すら邪魔なものなんだろうか。
感情も何もない生ける人形である彼は、己の意思を持つことすらこれほどの罪であるのか。


「ギョロイア様。カルデンツァの毒花を見事に入手したわたくしの望みを……一つ聞いては下さいませんか」
「なんだね、言ってごらん」
「では」

赤く色付く自らの唇をぺろりと舐め、従者の男は下卑た欲望を隠そうともしない声で口を開く。

「あなたの言うところの……悪趣味な人形遊びを是非しとうございまして」
「はん、本当に悪趣味だねぇ。反応は薄いし、声すら出さないクウォーツなんざ抱いたって面白くもないよ」
「それが良いのではありませんか。男でありながら、あれほどの美しさ。多くの者達を狂わせる、罪深いお方だ」

「仕方のない奴だ。……あんな人形みたいなつまらない顔をした男のどこがいいんだか」


「……」

扉の前で立ったまま微動だにしなかったクウォーツは、決して感情の浮かぶことのない硝子の瞳を静かに閉じた。
分かっている。『愛している』などという、まやかしの言葉に騙されていた自分が愚かだったのだ。
彼女が悪いわけではない。簡単に騙される方が悪い。最初から愛なんて存在しなかった。きっと、ただそれだけだ。

目を開いたクウォーツは、踵を返してその場を後にした。





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