Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第3章 麗しき薔薇の君
第27話 麗しき薔薇の君 -5-
「ありがとう。わたしオレンジジュース大好きなの。アップルジュースも同じくらい好きなんだけどね」
クウォーツからグラスを受け取り、弾んだ声を発したティエルは古めかしいソファーに腰掛ける。
彼女が腰掛けたのを確認すると、クウォーツは少し待っていてくれとだけ口にして、寝室へと戻って行った。
一人ぽつんと残され、オレンジジュースに口を付ける。冷たい感触が喉を流れていくのが心地よかった。
静かな部屋に柱時計の音が響く。
応接間には所々アンティークな小物が置かれているようだ。燭台、手鏡、ペーパーナイフ、羽ペンやインク瓶。
しかしこれらは全てクウォーツの趣味ではなく、ギョロイアの趣味で揃えられた小物のような気がした。
ここは確かに彼の部屋で間違いないのだが、彼の選んだものは何一つ存在しない。そんな印象を受けた部屋だ。
暫くの間。こちらに向かってくる足音に顔を向けると、丁度寝室からクウォーツが姿を現したところだった。
寝衣の上に薄物を羽織っていただけの格好であった彼は、白いシャツと灰青のベストに着替えて戻ってくる。
クウォーツが歩くたびに揺れるリボンタイは美しい見本のように結ばれ、彼の器用さを窺い知ることができた。
「待たせた」
「そんなに時間経ってなかったよ。……わざわざ着替えなくても、わたしは全然気にしなかったのに」
「客の前で、さすがにあの格好はないだろう」
「うーん……どちらかというと、すぐ近くで男の人が着替えていたっていう方が緊張するんだけど」
「? 意味がよく分からない」
無表情で首を傾げ、彼女の向かいに腰掛けるクウォーツ。
改めて眺めてみても、やはり人形じみた青年という言葉が一番しっくりきた。けれど確かに彼は生きている。
そんなことを考えながら彼を見つめていたが、思い出したようにティエルは、あっと声を上げた。
「そうだ! クウォルツェルトさんって、旅人のお話をギョロイアさんから聞くのが好きなんだよね?
あの人言ってたよ。自由に旅をすることが許されぬ身である伯爵様に、珍しい話をするのが自分の役目だって」
けれどお食事のときに会えなかったの、とティエルは項垂れてしまう。
たとえ催促されなくとも、自分はきっと旅の話をしていただろう。素敵な経験を誰かに聞いてもらいたかった。
辛いことも経験したが、それだけこの旅はティエルにとって未知で、素晴らしい毎日であったのだ。
「そんな話は聞いたことがない。ギョロイアがそう言っていたのか」
「えーっ、そんなぁ! じゃあ折角考えてきた話、誰も聞いてくれないの!?」
見ている方が痛々しく思ってしまうほど、ティエルの落ち込みようは誰にでも手に取るように分かった。
表情が豊かな分、喜びや感動は勿論、悲しみや怒りも余すことなく表現する。それがティエルという人物である。
今までクウォーツの周囲には存在しなかったようなタイプである。
きっとこの少女が物珍しかったのだろう。それだから、普段ならば考えられぬ台詞を口に出してしまったのだ。
「……その話、私が聞いてもいい」
「クウォルツェルトさんが聞いてくれるの!? 元々あなたに聞いてもらいたかった話だし、本当に嬉しいな」
「私にか」
「うん、だって自由に旅ができない身なんでしょ? 健康そうに見えるけど、きっと深い理由があるんだよね」
自由に旅ができない身。その表現は確かに間違っているわけではないため、クウォーツはこくりと頷く。
彼の反応を目にし、ティエルは是非聞いてほしいと更に力が入ってしまっているようだ。
「それでは。えーっと……まず、わたしはやり遂げなくてはならない大切な目的があって旅をしています」
平和に暮らしていた日々が、突如現れた謎の男によって無残に壊されてしまったこと。
家族を残らず殺されてしまったこと。旅の経験など全くなく、とても心細かったときにリアンと出会ったこと。
二人で力を合わせて森の魔物を倒したこと。賞金首をハンターと共に倒したけど、悲しい思いを経験したこと。
サキョウが共に歩んでくれること。彼は殺されたゴドーの弟であること。
それだけではない。満天の星空を三人で眺めたこと、朝焼けが綺麗だったこと、虹を見たこと。
この旅が始まってから、そんなに長い時間は経っていないけれど。それでもティエルの話は尽きることがない。
「雨上がりに空一面虹が架かっていてね、太陽の光できらきらしてたんだよ。根元には辿り着けなかったけどさ。
クウォルツェルトさんは虹を見たことある? ……虹の根元にはね、すごい宝物が埋まっているんだって!」
「虹?」
「そう、虹。七色に輝く橋なんだよ」
「存在だけなら知っているが、目にしたことはない」
「そうなんだ。いつか、あなたにも見てほしいな」
軽い気持ちで口にしたティエルの台詞であったが、目を閉じたクウォーツはふるふると首を横に振った。
己が経験できることは、誰もが同じように経験できる。そう信じて疑わない彼女だからこそ口にした言葉である。
だが、誰もが同じというわけではない。
「私は陽の光に身体を晒すと死ぬ身ゆえ、それは永遠に無理な話だ」
「え……?」
事も無げに、さらりと言われた。目を瞬いて驚いたように、ティエルはクウォーツを眺める。
もしも彼女が悪魔族について詳しい知識がある者であれば、彼は悪魔なのだと即座に気付いてしまったはずだ。
悪魔族。その中でも最も高い魔力と知能を持つ魔のサラブレッド、ヴァンパイアと呼ばれる存在である。
光に抗体を持つ通常の悪魔族とは異なり、彼らヴァンパイアには抗体がない。光を浴びれば炎に包まれ灰となる。
だがティエルは幸か不幸かそれを知らなかった。ゆえに、彼を悪魔族ではなくエルフ族なのだと思い込んでいた。
「私は太陽の光を知らない。きらきらと輝く虹も知らない。話を聞いて、想像することしかできない」
全く動くことのない人形のような表情で、全く感情を込められることのない声で。クウォーツは小さく呟く。
「けれど……一度でいいから、見てみたいな」
短い言葉しか発することのなかった彼が、己のことを殆ど語らぬ彼が、確かな『自分の言葉』を吐露していた。
ティエルはその時強く感じたのだ。
クウォルツェルトという青年は、決して無感情な人物ではない。様々なことを感じる心を持っているのだと。
「うん」
もっと彼のことが知りたい。些細なことでもいいのだ、どんな食べ物が好きなのか、どんな色が好きなのか。
無表情の下で完全に隠れてしまっていた彼の素顔は、何のことはないただの年相応の青年の姿なのだと思った。
人形なんかじゃない。彼は確かに今、生きている。
「私は何か変なことを言ったか」
にこにこと笑顔を浮かべてこちらを見つめているティエルの様子に、首を傾げてクウォーツが問いかける。
果たして己は笑われるようなことを口にしただろうか、と彼は先程までの会話を思い出していた。
「ううん、ちっとも。クウォルツェルトさんって、とても魅力的な人だなって思って。
あなたがギョロイアさんにあれだけ大切に思われているのも分かる気がするな。すごく愛されているんだね」
「愛されている?」
「そうだよ。庭園で見たときに思ったんだ。あなたに対するギョロイアさんの態度には、とても愛情が溢れて」
「……本当にそう見えているのなら、大きな勘違いだ」
ティエルの言葉に重ねるようにして、ぴしゃりとクウォーツが言い放つ。
「ギョロイアは、私を愛してなどいない」
「え……?」
「陰で私が何と言われているか教えてやる。何も感じず、何も思わず、心が壊れた人形のような欠陥品だとよ」
抑揚のない声だった。
自虐的なクウォーツの台詞だったが、それでも彼の表情は何一つ変わらなかった。哀しみすらも存在しなかった。
しかし僅かに、ほんの僅かに、全てに対する絶望と諦めの色がその声に含まれているとティエルは感じたのだ。
「お前も見てすぐに分かっただろう、私に何が欠落しているのか。殆ど何も感じないんだよ。その上この青い髪だ。
そんな私に誰がわざわざ関わりたいと思う? 関わってこようとするのは皆、下心を持った奴等ばかりだった」
青い髪を持ち、更には感情表現の乏しい人物。
どちらか片方だけでも差別や奇異の目の対象となりうる要素であるのに、その双方とも持ち併せていたら。
周囲に愛情を惜しみなく注がれ、何不自由なく幸せに過ごしてきたティエルには想像することもできなかった。
だから慰めの言葉なんてかけられない。中身の伴っていない言葉は、彼に対して大きな侮辱となる。
「だからもう、私が愛されているだなんて言わないでくれ」
「クウォルツェルトさん……」
普通の者ならば、きっと怯んでしまうだろう。それほどまでにクウォーツは人間らしからぬ異質な迫力がある。
しかしそんな彼を前にしても、ティエルは少しだけ悲しげな瞳で見つめ返す。
確かにこの青年は感情が乏しいのかもしれない。その容姿も相俟って、彼を必要以上に人形めいて見せていた。
けれど先程、虹が見たいと、光が見たいと口にした言葉は、嘘偽りない本心からの彼の願いだった。
ほんの少しの間会話しただけの自分でさえも彼の素顔が垣間見えたというのに、周囲は何故気付かないのだろう。
ティエルはそれが理解できなかった。まるで周囲が彼の感情を閉じ込めて、人形に作り上げているようだった。
「何も感じないことなんかないんじゃないかな。ただ……あなたはそれに、自分でも気付いていないだけで」
「そんなことは」
クウォーツが少し俯くと、長い前髪がぱらぱらと彼の頬にかかる。
「お前は私を気味が悪いとは思わないのか。何故、私に関わろうとする。そんなことをして何の得になる」
「……どうしてそう思わなくちゃいけないの? 気味が悪いなんて、あなたのどこを見たら一体そう思うの?
わたしはもっとあなたのこと、知りたいと思うな。色々なこと、話してほしいって思うな。それが普通だよ?」
それからティエルはにっこりと満面の笑顔で、目の前のクウォーツに両手を差し出した。
「わたし達、友達になれないかな?」
「……」
純粋で人懐っこい笑顔を浮かべるティエルの顔と彼女の両手を、クウォーツは黙ったまま交互に見比べていた。
彼に甘い言葉をかけて近寄ってくるのは、いつも多くの見返りを求めてくる下心がある者達ばかりだったからだ。
この少女は一体何の見返りを求めてくるのだろうと、そんなことを考えていた。
暫く長い沈黙が続く。
握手をするために差し出したティエルの手を、いつまで待ってもクウォーツは握り返してくれない。気配もない。
彼に対しては、もしかしたら少々強引とも言えるくらいの接し方が丁度いいのかもしれない。
瞬きもせずにこちらを見つめてくるクウォーツの両手を、ティエルは手を伸ばして無理矢理ぐいと握り締める。
「やっぱり冷たい手だなー。あっ、両手に指輪してるんだね。……もしかして左利きだったりする?」
「何故分かる」
「なんとなくかなぁ」
彼の手を握ったとき、滑らかな右手に比べて左手の平が明らかにささくれ立って痛んでいた。
長い年月ずっと何かを乱暴に握り続けていたような痕である。ペンか食器くらいしか握りそうに見えなかったが。
「これでもうわたし達、友達だよね!」
「友達?」
「うん、友達。今日からわたしとクウォルツェルトさんは、お友達に……」
「……クウォーツ」
「え?」
「クウォーツで、いい」
握られたままの自分の両手をじっと眺めていたクウォーツだったが、やがて顔を上げると小首を傾げて見せた。
感情表現が乏しい彼の、数少ない癖である。
「友達、なんだろ?」
「うん!」
彼とはいい友達になれるような気がする。明日にはお別れしてしまうけれど、沢山クウォーツに手紙を書こう。
自由に世界を旅することのできない身である彼に、世界の素晴らしさを知ってもらうために沢山の手紙を書こう。
ほんの少しでもいいから、自分が見聞きしたことをクウォーツに伝えたい。
上機嫌で続けられるティエルの話を、彼は無表情で聞いていた。十二時まであと四十分といったところだろうか。
旅の話が途切れると、今度はクウォーツに対して好きな色や料理は何なのか、と他愛のない質問を投げかける。
「特に色や料理にこだわりはないな。味付けは薄い方が食べやすいかもしれないが」
「薄味もいいよね。ちなみにわたしの好きな色はピンクで、好きな料理はポトフとアイスクリームでーす」
「ポトフはともかく、アイスクリームは料理なのか」
「うっ……コックが作ってくれるから、一応料理だもん。もう、クウォーツは意地悪だなぁ」
本当に他愛のない会話。それはティエルにとって、とても楽しく穏やかな時間であった。
しかしその内にうつらうつらとした彼女の言葉が断片的になってきたかと思うと、顔を伏せたまま暫くの沈黙。
そして微かな寝息が聞こえ始めてくる。気付かぬ間に、かなりの時間を話し込んでしまっていたようだ。
「話し疲れて寝たのか。……とんだ来客だったな」
ソファーに凭れて起きる気配を見せないティエルの寝顔を見つめながら、呟くようにしてクウォーツが言った。
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