Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第3章 麗しき薔薇の君

第29話 Lifelike Doll




「……ぐ、はぁっ……」

カルデンツァの毒花が浮かぶ液体を飲み干したクウォーツは、身体中に広がっていく不快感に思わず口を押さえる。
力を失い手から滑り落ちた空のグラスがテーブルにぶつかり、派手な音を立てながら砕け散った。

「あ……あぁぁっ……!」


麻痺の痺れにも似た感覚は指先から肘へ、二の腕へ。それから足先から膝へ、腿へと波紋のように広がる。
がくりと両膝を突き、絨毯に散らばる割れたグラスの破片を強く握り締めた。
強烈な痛みによっていくらか平常心を保とうと考えたはずだったが、それも全くの無駄な抵抗に終わってしまう。
破片を握り締めた拳から真紅の鮮血が溢れ出て、赤黒い絨毯が更に濃い赤色に染まっていった。


「在るはずのない愛に縋り続けた哀れな男の幕引きじゃ。クウォルツェルト、お前に罪があった訳ではない。
 むしろお前は疎まれていたあたしに好意的ですらあったよ。……ああ、それがお前の犯した唯一の罪だろうね」

目を細めながら一歩ずつギョロイアはクウォーツへと歩み寄って行く。
しかし彼はそんなギョロイアの存在など既に目には入っておらず、全身を蝕まれていくような苦痛に耐えていた。
意識が暗闇に引き摺り込まれていく。自分という存在が徐々に消え失せていくのを心のどこかで感じていた。


「けれど……愛する男をあたしから奪い去った女と全く同じ顔をしたお前なんぞを、誰が愛せるんだい!?
 本当に気味が悪いほど似やがって! あの女が受けるはずだった報いを、お前が全て肩代わりするんだよ!!」


憎しみを通り越し、もはや呪いの文句となっている。そんな言葉も苦痛に喘ぎ続ける彼には全く聞こえていない。
血走った瞳が見開かれ、糸を失った操り人形のように、ころんと地面に転がったまま彼は動かなくなった。
開いたままの両目は光を映しても完全に瞳孔が開いており、噛み切った唇から血が零れ落ちる。

クウォーツには『あの女』の代わりに多くの報いを受けてもらわねばならない。
永遠にこのハイブルグ城に繋ぎ止め、心を殺し意思を奪い、この世で最も美しい家畜として飼い続けてやるのだ。


「クウォルツェルト様」


一見すると死体のようにも見えるが、彼の心臓の鼓動は止まらず規則的に打ち続けている。
……確かに生きてはいるのだ、肉体的には。
ギョロイアの声に反応し、クウォーツの指先が動いた。まるで瞬きすら忘れたように、ゆっくりと身を起こす。
彼の心だけが完全に殺されてしまった瞬間であった。

肉体的にはカルデンツァの毒花を飲む以前と何ら変わりなく生命活動を続けているが、そこに彼の心は存在しない。
ギョロイアが望んだとおりの、意思を持たない生ける人形が出来上がったのだ。


「あたしが分かりますか? ここがどこだかお分かりですか?」

甘い笑顔を浮かべながら、ギョロイアは上半身を起こしたクウォーツの両肩に優しく手を置いて語り掛ける。
虚ろな瞳。少しの間を置いて、彼はこくりと頷いた。元々人形めいた人物であったが、もはやただの人形である。

「それでいいのですよ、クウォーツ様。あなたはあたしの言うことだけを聞いて生き続けていればいいのです」


流石カルデンツァの毒花の効能である。
それとも元々心を持っているのかも怪しいような無感情のクウォーツだからこそ、効き目が顕著であったのか。
今となってはどうでもいい事であったが。そんな事を考えていたギョロイアの耳に、ノックの音が響いた。
暫くの後。扉が開かれ顔を覗かせたのは、黒髪でオールバックの従者。カルデンツァの毒花を入手した男である。

「失礼いたします。ギョロイア様、もう終わったのですかな?」
「ああ、見て分かるだろ。カルデンツァの毒花の効き目は確かだったよ」
「それはなによりです。ところで……わたくしとの約束は覚えておいでですか」

毒の効き目に満足そうな笑みを浮かべた従者の男だったが、立ち去ろうとはせずにギョロイアへと視線を向けた。
この男がここへ来た目的など既に察している。反応も何もない相手に対し、趣味の悪い人形遊びがしたいのだ。
まるで死体を犯して楽しむような行為だ。虫唾が走るが、クウォーツがどんな目に遭おうと知ったことではない。
そもそもクウォーツは女と違って孕むような面倒な可能性もないのだ。ならば気の済むまで好きにすればいい。


「悪趣味な奴だね、本当に」
心底蔑んだ表情を隠そうともしないまま、ギョロイアは未だ地に座り込んだままのクウォーツへと顔を向ける。

「クウォーツ様。……二時間だけ、この男の言うことを聞いてやりなさい」

一体どこを見ているのか。ここではないどこかを見ているのか。そんな瞳で、彼は迷いもなく頷いた。
ギョロイアの蔑んだ表情などには目もくれず、従者の男は喜々としてクウォーツの手を取って立ち上がらせる。

「さぁ、クウォルツェルト様。参りましょうか」
「計画を実行するのは深夜二時過ぎだからね。それまでにとっとと終わらせておくんだよ、いいね?」
「重々承知しております。あぁ……やはり、意思のない人形のような伯爵閣下は想像以上に魅力的ですよ……!」


ふらふらとした足取りのクウォーツの手を取ったまま、この応接間に隣した寝室へと向かって行く従者。
ギョロイア以外の言葉に一切耳を傾けることがなく反応のなかった、普段のクウォーツにはありえない光景だ。
これは、完全に彼の心が消滅した証である。

従者の手がゆっくりと彼の腰に回される様を横目で見やった彼女は、小さく舌打ちをすると部屋を後にした。







……目が覚めた。
誰かに呼ばれたような気がして、身を起こして耳を澄ませてみる。やはり何も聞こえない。
大きなあくびを一つして、ティエルは月明かりを頼りに時刻を確認する。壁に掛かる時計は深夜二時四十分。

本来ならばこんな時間に起きることなど滅多にない。起きることがあるとすれば、それは何かの前触れだった。
メドフォード城にてヴェリオルの襲撃に遭った時も、ただならぬ恐怖で目が覚めたのだ。
しかし、今目覚めたのはそんな理由ではないような気がした。恐怖は感じない。恐怖よりも、もっと別の何か。


ベッドの上で寝付けないまま何度か寝返りを打っていたティエルだったが、かたん、という僅かな音に振り返る。

この位置からではよく見えない。ベッドから下りて、何の音だろうと首を傾げて広すぎる部屋を見回してみた。
カーテンを軽く引いて開けたままにしていた大きな窓の枠に、満月を背にして腰掛ける人影。
ふわふわと揺らめくボイルカーテンに合わせて、同じく揺れるドレスのようなコート。それには見覚えがあった。
逆光になって分かり辛かったが、月の光に照らされているのは間違いなく青い髪。


「クウォーツ……?」

恐る恐る声をかけてみると人影はこちらに顔を向けた。
影になっている顔の中で、二つの薄青の瞳だけが爛々と輝いている。ティエルが猫のようだと評した瞳だった。

顔を向けたまま何も話そうとしないクウォーツの様子に、もしや彼に何かあったのではないかと不安が過ぎる。
こんな時間の来訪も、彼が何も答えないのも、きっと口には出せない理由があったのだろう。
もしかしたら友達である自分を頼って、わざわざ訪ねて来てくれたのかもしれない。それならば力になりたい。


「クウォーツ、どうしたの? 何かあった……? わたしでよければ、力になるよ」


微塵の疑いも持たずに、ティエルは窓枠に腰掛けるクウォーツへと歩み寄って行く。
もう少しで彼に手が届くというところで、逆に腕を引かれて強く抱きしめられた。咄嗟のことで言葉が出ない。
一体どうしたというのだろうクウォーツは。何か怖いことでもあったのか。辛くて悲しいことでもあったのか。

ティエルも昔、そんな時はよく祖母やゴドーに抱きしめてもらっていたことを思い出す。
なんだか懐かしいな、と彼女は笑みを浮かべ、抱きしめ返してやろうとクウォーツの背に手を回しかけたとき。

「ティエル! その化け物からすぐに離れろ!!」

突如響き渡ったサキョウの声に驚いた彼女が思わずクウォーツに目を向けると、
彼は鋭い牙を剥き出してティエルの首筋に食らい付こうとしている瞬間であった。衝撃のあまり身体が動かない。


「静寂の彼方より生まれし形ある水よ、凍てついた刃となりて姿を現せ! アイシィレイジ!!」

牙が首筋に埋め込まれようとする瞬間、リアンの魔力で生み出された氷の刃が次々とこちらに突っ込んできた。
氷の刃はティエルとクウォーツを紙一重で避け、背後の窓ガラスや窓枠を派手に破壊するだけであった。
目的は攻撃ではなく、彼をティエルから引き離すことだ。狙いどおりクウォーツは地面を蹴って窓枠から離れる。

「ティエル、大丈夫ですの? 怪我はない!?」
「う、うん……」

すぐさまリアンはティエルに駆け寄り安否を確かめるが、傷一つ負っていない彼女の様子に胸を撫で下ろした。
しかしティエル自身は完全に状況を飲み込めていないようであった。困惑が色濃く顔色に表れている。


ふわりと舞い降りるかのように部屋の中央に着地したクウォーツは、虚ろな瞳でティエル達三人を見つめていた。
表情など一切動く気配がない。数時間前に会話を交わした彼とは何かが決定的に違うような気がした。
確かに数時間前の彼は人形めいた人物であったが、心というものが存在していたはずだ。人形ではなかった。

だがこの目の前の、クウォーツと全く同じ姿をした『もの』からは、……それが全く感じられないのだ。
ではこの青年は一体誰なのだろう。クウォーツだけれどクウォーツではないこの青年は、一体誰なのだろう。
急にとてつもない恐怖がティエルの全身を襲ってくる。


「エルフ族だと上手く隠していたつもりだろうが、このワシの目は誤魔化せんよ」
ティエル達を守るように前に立ちはだかるのはサキョウ。両の拳を握り締め、鋭い視線をクウォーツに向ける。

「とうとう本性を現したな、忌まわしき悪魔族め。……それがお前の正体であろう。クウォルツェルト伯爵!」





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