Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第3章 麗しき薔薇の君
第30話 In awe of him -1-
距離を取って対峙するサキョウとクウォーツだが、明らかにこの状況はクウォーツの方が不利である。
油断をしていたティエル一人を相手にするならともかく、サキョウは修行を積んだ屈強なモンク僧なのだ。
対するクウォーツは剣すら握ったこともないような、儚げな印象が強い青年である。その上現在丸腰の状態だ。
どう考えても彼に勝ち目はない。
しかしそんな状況ですらクウォーツは無表情のまま、焦る様子を見せなかった。まるで他人事のようである。
顔は確かにこちらに向けてはいたが、瞳は完全に彼女達を映していない。
瞳孔がよく透けて見えるのが特徴的であった彼の薄青の瞳。その瞳孔が不安定に大小と大きさを変えている。
ゆらりと。
覚束ない足取りでクウォーツが一歩足を前に踏み出したと同時に、サキョウは勢いよく彼に向かって飛び出した。
完全に丸腰の状態とはいえ、相手は悪魔族。ましてやその中でも最も魔力が高いとされているヴァンパイアだ。
どんな手を使ってくるか分からない。ティエル達を守り抜くために、完膚なきまで叩き潰しておかねばならない。
鍛え抜かれた丸太のような腕を伸ばし、サキョウは足を踏み出したままこちらを凝視するクウォーツの首を掴む。
予想していたよりも細い首に、このままへし折ってしまえるのではないかと感じた。
だがクウォーツも彼の腕から逃れようと身を捩って抵抗を始める。早く致命傷を与えねば、戦いが長引くだけだ。
逃げられぬように首を掴んだ手に力を込めたまま、無防備な胸部にサキョウは反対側の拳を叩き込む。
骨が何本も砕かれた確かな感触。もう一撃。折れた肋骨が内臓を傷付けたのか、クウォーツは激しく吐血する。
首を掴んでいた手を離すと、そのままサキョウは彼を蹴り飛ばした。
華奢な身体は呆気ないほど簡単に飛んでいき、ベッドの柱に激突する。
床にうつ伏せに投げ出されたまま彼は動かない。致命傷を与えたのだ、二度と起き上がることはできないだろう。
ここで気を抜いてはならない。悪魔族の息の根を止めるためには、首を斬り落とすことが確実なのだ。
「サキョウ……終わりましたの?」
「うむ、もうこいつは立ち上がることすらできぬよ」
「そう……」
恐る恐るリアンが口を開く。
リアンに縋り付きながら小刻みに震えているのはティエル。優しい彼女には衝撃の強すぎる光景だっただろう。
これ以上クウォーツの姿を見せ続けるのは酷かもしれない。
「リアンよ、ティエルを連れて少しの間だけこの部屋を出てくれないか。なぁにすぐに終わらせるさ」
「……あ……あぁ……」
「リアン?」
青い顔をしている彼女達をこれ以上怖がらせないように、明るい口調でサキョウは二人に歩み寄って行った。
だがティエルとリアンは、これ以上にないほど恐怖の表情を浮かべながら目を見開いてサキョウを見つめている。
いや。正しくはサキョウではなく、彼の背後を凝視していたのだ。
ミシッ。
ばさばさばさばさ。
微かな木の軋む音。そして背後に感じる気配。同時に、何十匹もの蝙蝠たちがサキョウの横を過ぎ去っていく。
周囲に濃く赤い霧が渦巻いているのを感じた。これは妖気だ。……それもとびきり、危険で濃厚な。
身体が振り返ることを拒絶しているようだった。振り返ってはいけない。早く逃げろと僧侶の勘が訴えている。
だがここで自分が逃げてしまったら、ティエル達はどうなる? 僧侶の誇りにかけても守らなければならない。
背中に流れる冷たい汗を感じながら振り返ったサキョウの瞳に映ったものは、ふらりと立つ人形のような若い男。
赤い妖気を携えて、血色の悪い顔で、二度と立ち上がれるはずのない者が、サキョウをじっと見つめていた。
クウォーツの左手に握られている、美しくも毒々しい装飾がされた真紅の長剣。一体いつの間に手にしたのか。
この男は危険だ。今までサキョウが仕留めてきた悪魔族達の中で、最も関わってはならない人物だと感じた。
今更後悔しても遅い。死にたくなければ、何とかしてこの状況を切り抜け……。
「うがぁっ!」
サキョウの思考が突如中断され、筋肉で盛り上がった分厚い胸は一直線に斬り裂かれていた。
刹那の出来事だった。前方のクウォーツの姿が一瞬にして消え失せ、気付けば既に間合いを詰められていたのだ。
勿論クウォーツの姿が消えたわけではなく、あまりの速さで目が追えなかった。何だこの生き物は。化け物か。
まるでダンスホールにて円舞曲を優雅に披露しているかの如くステップで、更なる剣戟がサキョウを襲う。
脇腹を斬られ、右腿を斬られ、左腕を斬られ。目にも留まらぬ剣の舞だ。もはや目視で追うことなどできない。
完全に嬲られている。手も足も出ないというのは正にこの状況なのか。
「こ……このままじゃ、サキョウが殺されちゃう……!」
サキョウが血塗られていく様を呆然とした眼差しで見つめていたティエルだったが、はっと我に返って剣を抜く。
ガリオンから譲り受けた剣がベムジンで折れてしまったため、シグン大僧正から譲り受けた竜鱗の剣であった。
友達になると一度決めたクウォーツに対して剣を向けるのは気が進まないが、今回は状況が状況である。
震える手で剣の柄を握り締め、意を決したようにティエルはクウォーツに向かって駆け出した。
その様子をちらりと一瞥した彼はサキョウを甚振る手を止め、ティエルの方へ身体を向けたように思えたのだが。
次の瞬間、目の前にクウォーツの姿があった。距離はまだまだ離れていたはずだった。それなのに。
(……速すぎる!)
ティエルは多少素早さには自信がある。兵士達との訓練試合でも、その素早さを活かして負け知らずだったのだ。
しかしクウォーツの速さは、人間の限界を軽く超えていた。彼女が太刀打ちできるような相手ではない。
また剣技も同じくレベルが違いすぎた。基本形は円舞曲だろうか。華麗なステップでいて、無駄な動きがない。
このような状況でなければ、きっと我を忘れて見惚れていたはずだ。それほど美しい剣技であった。
赤い剣が振り下ろされ、飛び散る火花。ティエルの手から竜鱗の剣はあっさりと遠くへ弾き飛ばされる。
あっ、と思わず声を上げて飛ばされた剣の行方を追ってしまった。
彼を前にして、そんな隙など許されるはずがないのに。……背中に走る激痛。斬り捨てられたのだと分かった。
「ティエルーっ!!」
飛び散る血飛沫。サキョウを介抱していたリアンの悲痛な叫びが響き渡る。
ティエルを助けようと愛用の杖を振り上げた彼女の行動も、背を向けていたはずのクウォーツは見逃さなかった。
彼が背後に向かって指を鳴らすと、突如空間に何十匹もの吸血蝙蝠が出現する。
血に飢えたその魔物達は、哀れな生贄達に一斉に飛び掛った。部屋中に響き渡るリアンとサキョウの悲鳴。
「う……ううぅ……」
這い蹲るような形でその光景を眺めていたティエルは、唇を強く噛み締める。
どうして、こんな事になってしまったんだろう。どうして、クウォーツはみんなを傷付けるんだろう。どうして。
自分は気付かないうちに彼を悲しませるような事をしてしまったのだろうか。怒らせてしまったのだろうか。
優しさも何も感じられない腕がティエルの上半身を抱き起こす。
振り返ると、返り血を浴びたクウォーツの美しい顔が近くにあった。硝子のような瞳に彼女の顔が映っている。
背中、痛いんだから。強くされると痛いよと。わたしだって一応女の子なんだから、と場違いな台詞が浮かんだ。
彼の口元から覗く鋭い牙。
ああ、今度こそわたし死んじゃうのかな。血を吸われるときって痛いのかな。やっぱりすごく痛いんだろうな。
できたらあまり痛くしないでほしいな。だってわたし達、友達になったでしょ? 友達だったら……。
「……ごめんね。わたし、あなたを傷付けちゃったのかな」
ティエルの瞳から、ぼろぼろと大粒の涙が溢れ始めた。
震える両手を伸ばしてクウォーツの頬に触れる。彼は何も答えない。ぬるりとした冷たい血の感触がした。
「あなたが悪魔族って聞いて、最初はちょっと驚いちゃったけど。……そんなの、わたしには関係なかったのに」
ヴァンパイアであるクウォーツに自分から近付くなど、本来であれば自殺行為である。
だがティエルはそのまま彼の背に手を回して己に引き寄せると、先程出来なかった分も含めて強く抱きしめた。
思えば突然深夜にクウォーツが来訪したあの時に、気付いていなければならなかったのだ。
きっと何か怖いことがあったのだ。辛いことがあったのだ。悲しいことがあったのだ。それなのに、自分は。
クウォーツが悪魔族だと聞いて、恐ろしい魔物を見るような目で彼を一瞬でも見てしまった。
指輪を返しに行ったとき、彼はあんなにも普通の青年だったではないか。そこに悪魔族や人間だとかは関係ない。
彼とはいい友達になれるような気がする。手紙だって沢山書こう。自分が見た世界を彼にも知ってもらいたい。
その時感じた様々な思いは、今でも変わることはなかったのに。
「……ろ……」
「クウォーツ?」
クウォーツの唇から微かな声が紡がれる。ティエルは抱きしめる手を緩めないまま優しく聞き返した。
彼の声を聞くのは随分と久しぶりのような気がした。数時間前まで聞いていたはずなのに、おかしな話である。
「……早く……逃げ、ろ……!」
搾り出すように発せられたその声に、腕を緩めてクウォーツの顔を覗き込んだ。
ぐっと歯を食いしばりながら首を振り、何かに飲み込まれようとするのを必死に拒んでいるようにも見えた。
彼に一体何が起こっているのか分からないけれど、このままではまた『クウォーツ』がどこかへ行ってしまう。
先程までのような、クウォーツの姿をした『別のもの』になってしまう。
「クウォーツ、だめだよ」
彼がもうどこにも行ってしまわぬように、彼の心を奪おうとする『もの』に負けぬようにティエルは口を開く。
「あなたの心はここにある。……これ以上あなたの心を奪おうとする何かに、負けたりなんかしないで!」
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