Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第3章 麗しき薔薇の君
第31話 In awe of him -2-
「……!」
クウォーツの両の瞳が一杯に見開かれる。
硝子のような、氷のような。薄く透き通る彼の瞳。リアンやサキョウは気味が悪いと言っていたけれど、
まるで宝石だ。心から綺麗だと思った。空の青とも違う、海の青とも違う。この薄青の瞳に何度も目を奪われた。
行き場もなく彷徨っていた彼の視線が、そこで初めてティエルに合わせられる。
先程までは確かにティエルの方を向いてはいたけれど、ただ瞳に映していただけで彼女を見てはいなかった。
それが、漸くクウォーツ自身の意思でティエルを見つめたのだ。きっと、もう大丈夫。そんな確信があった。
「……ティエル……と、いったな……」
苦しげな声を絞り出したクウォーツは彼女から身を離し、ふらふらと床に崩れ落ちる。
激しく咳き込む口を押さえた手。その隙間から零れるのは赤い血だった。
……彼は本来動けるような状態ではない。痛みを感じる心すら失っていたために、立ち続けることができたのだ。
「あいつが気付く前に、早く逃げるんだ……」
「クウォーツもういいよ、喋らないで。すぐに人を呼んでくるから、ここで待ってて!」
「駄目だ!」
早く手当てをせねば。
助けを呼びに行くためにティエルが扉に顔を向けるのと、クウォーツが彼女の腕を掴んだのは同時であった。
しかし扉の前に立つ意外な姿に足を止める。いつの間にか、ギョロイアが無言で扉の前に立っていたのだ。
「ギョロイア、さん……?」
憎しみと驚愕。その双方が入り混じったような表情を浮かべているギョロイアの姿に、思わず寒気を覚える。
いや、今はそんなことを気にしている場合ではない。早くクウォーツの手当てを頼まねば。
恐る恐るティエルはギョロイアの名を口にするが、彼女はティエルのことなど目に入っていないようだった。
視線の先は口を押さえて地に座り込むクウォーツである。
「そんな馬鹿な。……クウォーツ様の心は、あの時完全に消し去ったはず」
「ギョロイアさん! それよりもクウォーツが……」
「カルデンツァの毒花を飲ませた者が心を取り戻すなど、決してありえないこと。それなのに一体何故じゃ……?」
ティエルの言葉に耳すら傾けず、ギョロイアは一歩ずつクウォーツへと歩み寄って行く。
うわ言のように呟かれた彼女の言葉に、サキョウは眉を顰めた。カルデンツァの毒花。聞き捨てならない名前だ。
「カルデンツァの毒花だと? 飲ませた者の心を殺してしまう恐ろしい毒花ではないか!
そんなものを何のためにこの男に飲ませたのだ。クウォルツェルトはお前の大切な主ではなかったのか!?」
「ああそうだ、とても大切なお方だよ。……この方がいなければ、あたしの復讐は達成できないんだからね」
己の吐き出した血によって咽るような咳を繰り返しているクウォーツの胸に、ギョロイアはそっと手を触れる。
哀れむような優しげな眼差し。確かにその光景だけを目にした者は、愛情に満ち溢れていると錯覚するだろう。
「……けれどあたしが必要なのは、従順な生き人形だ。心なんてものはあたしにとって邪魔でしかないんだよ。
殆ど感情なんて残っていないくせにクウォーツ様には反抗的な部分があってね。人形に感情は必要ないだろう?」
悪魔族の自己治癒能力のためか、クウォーツの咳は大分治まっていた。
しかし言葉を発することはなく、黙ったまま虚ろな視線を地面に落としている。まるで抜け殻のようだった。
周囲に人形であることを強いられ続けたゆえに感情を失ったのか、それとも元々人形めいた人物であったのか。
ティエル達には察することができなかったけれど。
「あたしを信じきったクウォーツ様は、毒薬とは疑いもしないでカルデンツァの毒花を飲んだのだよ。
唯一向けられていると思い込んでいた存在するはずのない愛情に縋り続け、何一つ気付かなかった哀れな男だ」
「違う」
「なんだい?」
「……違うわ。何も気付いていなかったのはあなたの方よ、ギョロイアさん」
酷く冷静な声と共にリアンが前に進み出る。
燃え盛る炎にも似たカーネリアンの瞳に浮かぶ感情は、確かな怒り。明るい彼女が初めて見せる表情であった。
辺りの温度が急激に高くなったような錯覚を起こす。長いハニーシアンの髪が、風もないのに揺れている。
「彼は確かに気付いていたわ。気付いていながら、飲めば自分の心を失ってしまうと知っていながら、
……それでも何も気付いていない振りをして、全て覚悟の上でカルデンツァの毒花をあなたから受け取ったのよ」
屋根の上で夜景を眺めていた時、クウォーツは『最後に誰かとこの光景を見たかった』とリアンに対して呟いた。
あの時彼は既に覚悟を決めていたのではないのだろうか。己が存在できる最後の夜だと知っていたのではないか。
だから、そんな台詞を口にしたのではないだろうか。
「全て手の上で躍らせていると思っていたようですけれど。滑稽ですわね、踊らされていたのはあなたの方よ!」
「……下等な人間風情が、分かったような口を利いてくれるねぇ」
いくつもの小さな瘤が浮き上がった醜い顔に恐ろしい笑みを浮かべ、ギョロイアは常に手にしている杖を掲げる。
彼女の口から漏れる小さな呟きは、明らかに不吉な響きを持つ呪詛であった。
「あたし達悪魔族を相手にしたことを、死んで後悔するがいい!」
ギョロイアが振り上げた杖の先端から、何本も絡み合った太い蔦が生み出されていく。
魔に属する者だけが使用できる黒魔術だ。人間が扱うことのできる攻撃魔法とは大きく違い、殆どが禁呪である。
ぬるぬるとした体液のようなものを纏った太い蔦は、標的をリアンに定めて一斉に突っ込んでくる。
「死ね、報いを受けろ人間が!!」
「もうやめろ!」
その時。
もはや立ち上がることすらできぬだろうと思われたクウォーツが地面を蹴り、リアンに向かって駆け出したのだ。
彼の速さは蔦がリアンを貫くよりも速く、呆然としている彼女を抱え込むようにして覆い被さる。
状況を把握できぬままリアンが床に伏せたと同時に、上に覆い被さっていたクウォーツの身体がびくりと震えた。
「クウォーツ様!?」
「クウォーツっ!!」
「あ……」
恐る恐るリアンが見上げてみると、蔦に右肩を貫かれたクウォーツの姿が目に映った。
貫通した蔦の先端は赤く染まっており、ぼたぼたと鮮血が滴り落ちている。辛うじて急所は免れているようだ。
痛いはずだ。痛みを感じないことなんてありえない。痛いはずなのに、こんな時でさえも彼は無表情であった。
「あなた……私を」
守って、くれたの……?
「ギョロイア。……報いとか、人間に対する復讐とか、そんなことよりも」
ゆっくりと立ち上がったクウォーツは、己に突き刺さったままの蔦を左手で勢いよく引き抜くと地に投げ捨てる。
生々しい音を立てながら地に転がった太い蔦は、蝋燭の光に照らされて艶やかに照り輝いていた。
「……私はただお前と二人で静かに暮らせたら、それだけで良かった。きっと、それだけで幸せだったんだ」
「クウォーツ様」
「けれどお前は違った。お前の幸せは、私の幸せとは違った。お前は……私を使って復讐を為したいだけだった」
黒魔術を放った当人であるギョロイアは、言葉もなく呆然とした表情でクウォーツを見つめていた。
目の前の光景を信じることができなかった。悪魔族が、人間を守ったなど。決してあってはならないことである。
よりにもよって、それが感情など無きに等しいクウォーツが。人形のように無反応だったクウォーツが。
「お前は私に言ってくれた。私の幸せが、お前の幸せなのだと」
愕然としているギョロイアの元までふらふらと歩み寄ったクウォーツは、膝を突いて彼女の手に己の手を重ねる。
枯れ木のように痩せ細り骨ばったギョロイアの手を包み込む、まるで女のようにしなやかな彼の白い手の平は、
剣を握り続けた代償で見た目以上にぼろぼろに痛んでいた。
「私の幸せは、ギョロイア。お前が幸せに生きてくれることだ。だからお前の望みは叶えてやりたい。……けれど」
そこまで言いかけて、クウォーツは立ち尽くす三人の人間達を振り返る。
カルデンツァの毒花を飲んで心を失っていた時の記憶は全て残っていた。彼らに剣を向けた記憶も勿論残っている。
この手で彼らの息の根を止めてしまうことは簡単であった。それほどの力をクウォーツは持っているのだから。
……簡単だったけれど、それができなかった。
無感情な人形であることを否定してくれた。もっと知りたいと言ってくれた。友達になろうと言ってくれた。
誰もが距離を置くクウォーツに対して、半ば無遠慮なほど踏み込んできた人間達。
それがあまりにも珍しくて、ちょっとした気まぐれを起こしたのかもしれない。理由はきっと、それだけだった。
「たとえお前の望みだったとしても……私は、この人間達を殺すことはできない」
ティエル達を振り返ったクウォーツの瞳は、やはり硝子のように感情を映してはいなかった。
ギョロイアの幸せは自分の幸せなのだとクウォーツは言ったけれど、ギョロイアは決して彼を愛してはいない。
今回カルデンツァの毒花を使ったように、彼がどんなに傷付こうとも厭わないだろう。それでも幸せだというのか。
それが彼の望んだ幸せな生き方なのだろうか。
『私は太陽の光を知らない。きらきらと輝く虹も知らない。けれど……一度でいいから、見てみたいな』
……でも。
ティエルの前で零したこの一言こそが、クウォーツが無意識のうちに求めていた幸せだったのではないだろうか。
太陽を見たいんじゃないのか。虹を見たいんじゃないのか。この城に閉じ込められたままで彼は本当にいいのか。
初めてクウォーツの姿を目にしたとき、まるで見えない鎖で城に縛られているようにもティエルには見えた。
ここにいては、きっと彼は幸せになれない。……ティエルはそう強く感じたのだ。
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