Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第4章 メビウスの指輪
第33話 メビウスの指輪 -1-
随分と質素な宿屋の一室。
洒落た内装などは見受けられず、ただ寝泊まりするための本来の宿屋の目的だけで作られたような部屋である。
天井に貼られている板が所々黒ずんでいるのが見えた。相当古い宿屋なのだろうか。
部屋にはベッドが三つ所狭しと並んでおり、ベッドの手前には木で作られた小さなテーブルがあった。
そのテーブルの前で俯きながら腰掛けているのはティエル。
卓上には、出来上がってから随分と長い間そこに置かれ続けていた薄い色のスープ。完全に冷め切っている。
特にスプーンを持とうとすることもなく、彼女はぐっと何かを堪えているように視線をスープに落とす。
「ティエル、辛い時でも食事は取った方がいい。折角助かった命だ、身体を壊してしまったら元も子もないぞ。
お前はよくやったとワシは思う。だが、あんな状況であの男を助けることなど……きっと誰にもできなかった」
溜息をついて彼女の前に腰掛けているのはサキョウ。
普段額に巻かれているモンク僧の証でもある鉢巻は外されており、ありありとした疲労が表情に浮かんでいる。
だがそれよりも衰弱し気落ちしているティエルの様子に、サキョウは半ば叱るような口調で台詞を続けた。
「クウォルツェルトのことはもう忘れろ。それがお前にとっても、彼にとっても一番正しい決断だろう」
「正しい決断……?」
「お前も本当は分かっているはずだ。彼にはあのギョロイアという老婆が必要で、離れることなどできぬと」
「忘れる? クウォーツを……」
サキョウの言葉にティエルは唇を噛み締める。乾いた唇がぴっと切れ、小さな血の粒を盛り上がらせていた。
彼の言っていることは尤もだ。
理解はしている。生半可な覚悟で悪魔族に関われば、今回のように命を脅かす危険性も十分にあった。
きっとサキョウが正しいのだ。第一ティエルの身を案じて言ってくれている。それは分かっているのだけど。
「……わたしが一緒に行こうってクウォーツに手を伸ばしたとき、彼はわたしの手を掴もうとしてくれたんだ」
「ティエル、もう言うな」
「それを、わたしは掴むことができなかった。もう少し手を伸ばせば掴むことができたのに。
クウォーツは人間であるわたしを信じてくれようとしたんだ。それなのに、それなのにわたしは……!」
あの夜、ギョロイアの蔦に追われてハイブルグ城から逃げ出したティエル達。
無我夢中で林を抜けて城下町まで辿り着くと、蔦はもう追ってはこなかった。……自分達は助かったのだ。
城と城下町を隔てる林は、まるで悪魔の世界と人間の世界を隔てる壁のようにも感じられた。
呆然とした様子で町の噴水広場の前で座り込んでいると、漸く夜明けがやってきた。
気の遠くなるくらいに長い夜であった。朝日を浴びて幾分か落ち着いたティエル達は、ハイブルグの森を抜け、
この小さな町に辿り着いたのだ。ほぼ転がり込むような形で宿屋に飛び込み、三日が経ったのである。
サキョウの言うとおり、このまま忘れてしまうことが一番いいのかもしれない。
そもそもクウォーツは人間ではないのだ。悪魔族、その中でも人間の血を糧にして生きるヴァンパイアである。
共に生きるには、あまりにも種族の違いという壁があった。……でも。
「ねえサキョウ。どうやったら忘れることができるの? 忘れることなんか……できないよ……!」
「……あーあ、スープがすっかり冷めちゃってるじゃない。これ冷めると飲めたものじゃないですわよ。
とは言ってもこんな小さな町にある宿屋で、一流ホテルのような豪華な料理を期待してはいけませんけど」
美しく鮮やかな、長いハニーシアンの髪がティエルの視界に入った。
のろのろと顔を上げると、リアンが古めかしい本を持ちながら難しい顔付きでティエルを覗き込んでいる。
吸い込まれそうなカーネリアンの瞳に見つめられ、彼女は思わず目を逸らしてしまった。
むっとした表情を浮かべたリアンは、そんなティエルの顔を両手で掴むと無理矢理自分に向けて顔を上げさせる。
「何で目を逸らすんですの。私、逸らされるような顔なんてしていないですわよ」
それでもティエルが口を噤んだまま目を合わそうとはせずにいると、掴んでいた手を離して大きく溜息をついた。
「まったく……こんなにもあなたを追い詰めてしまうクウォーツさんもなかなか罪な男ですわね。
でもティエル。私はこの三日間あなたのように俯いたまま落ち込んで、何も動かなかったわけじゃなくてよ?」
口調こそ厳しいものであったが、ティエルを見つめるリアンの表情は柔らかい。
テーブルの上に置いていた不厚い書物を彼女の前に手繰り寄せ、ぱらぱらと勢いよくページを捲り始める。
ページを捲った途端に細かい埃が舞ったがリアンは特に気にせず、とある一ページをティエルに指し示した。
文字が掠れて殆ど読めないが、ページの中央に奇妙なデザインの指輪が描かれているようだった。
「……メビウスの指輪、って書いてあるよ。この指輪がどうかしたの?」
「これはかつてこの町をほぼ壊滅させた悪魔族、ヴァンパイアのダントゥが身に着けていたという指輪。
光に対して完全な抗体を持つこの指輪を身に着けて、ダントゥは昼の町を奇襲したと言われているんですの」
「昼の町を?」
「指輪を身に着けている間だけ、光に対する抗体を持つことができるのよ。……たとえ、ヴァンパイアでもね」
「ヴァンパイアでも……?」
それからリアンは目を瞬いているティエルに向かって、ぱちんとウインクをする。
最初は彼女が一体何を伝えたいのか全く理解ができなかったティエルも、次第に理解し始めてきたようだ。
「つまり。このメビウスの指輪を身に着ければ、ヴァンパイアが光を浴びても灰にはならないってことですわ」
「……そ、それじゃ」
「そうですわ。クウォーツさんに、太陽の光だって虹だって見せてあげることができるんですのよ!」
「太陽の光も、虹も、彼に見せてあげられる……?」
急にぱっと表情の明るくなったティエルは、思わず椅子から立ち上がると勢いよくリアンに飛び付いた。
不意を突かれたリアンはバランスが保てなくなり、そのままティエルと共にベッドに転がり込んでしまう。
「リアン大好き! ありがとう、ほんとにありがとう!」
「そんな馬鹿力で飛び付かれたら苦しいですわ! サキョウと違って、私は繊細でか弱い乙女なんですから……」
「あ、ごめん。つい」
「しかしメビウスの指輪とは一体どこにあるのだ? そんな大層なもの、簡単に手に入るとは思えんぞ」
テーブルの上で広げたままになっている本を、サキョウは軽く覗き込みながらリアンを振り返る。
「はしゃいでいるところ水を差すようで悪いが、喜ぶのはまだ早いのではないか?」
「さっき言ったじゃないですの、ダントゥはかつてこの町をほぼ壊滅させた悪魔族だって」
「う? うむ……」
ティエルに抱き付かれていたリアンは弾みをつけてベッドから上半身を起こし、二人の顔を交互に見つめた。
「あまりにも強すぎたダントゥは完全に倒すことができず、この町の外れの遺跡に封印されているそうよ」
「ということは」
「ダントゥと共に指輪は今もまだ遺跡に封印されているってこと?」
「ええ。けれど昔の話ですから、遺跡の存在も今は町の人々に忘れ去られているようですけどね。
代々町長さんがしっかりと遺跡を管理しているみたいですから、荒らされてはいない……と思いたいですわ」
「それなら早く町長さんに許可を貰いに行かなきゃ!」
スープを急いで平らげたティエルは、そわそわと落ち着きがない。本当は今すぐにでも遺跡に向かいたいのだ。
「わたし、食器を下に片付けに行ってくるね」
空になったスープの皿を持ち、忙しない足音と共にティエルは部屋から出て行った。
先程までの落ち込みようが嘘のようだ。後に残ったリアンとサキョウは顔を見合わせて思わず笑みを浮かべる。
「……ワシは長年悪魔族と戦ってきた僧侶だ。だから、あの悪魔族の青年を人として決して認めたわけではない」
「分かっていますわ」
「悪魔族を一人残らず殲滅させるのが我がベムジンの教えだが、ワシはそれを残酷なことだとは思っておらぬ」
「悪魔族は人に非ず、ですからね」
開いていた分厚い本を眺めているリアンに向かって、サキョウは絞り出すように言葉を続けた。
「しかしこれ以上、ティエルのあんなに辛そうな顔を見ているのは嫌なのだ。ずっと笑顔でいてほしいと思う」
「ええ」
「……だから、指輪探しにワシも付き合うのだ。決して悪魔族を認めたわけではないと言っておきたかった」
「まぁ理由なんて、それだけでいいんじゃないかしら」
そう言って、リアンは笑った。
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