Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第5章 君が、微笑んだ夜

第41話 若き悪魔の夜想曲 -1-




「なぁ、クウォルツェルト。君はもしも悪魔族と人間達が共存できる世界になったら……何をしたい?」

漆黒の髪をした青年にそう訊ねられたとき、クウォーツは黙ったまま何も答えなかった。
彼の言葉を無視したわけではない。答えが思いつかなかったわけではない。ただ、口にするだけ無駄だと思った。
何を答えたとしても、——そんな世界など、永遠に訪れることはないのだから。







言葉にならなかった声は、一体何を紡ぎ出していたのだろうか。

一体あれからどれほどの時間が過ぎ去ったのか。とても長いようにも、とても短いようにも感じられた。
そもそもこのハイブルグという閉ざされた異質な空間は、時間の概念などあまり意味を成さないのかもしれない。
何も変わることのない緩やかな時の中で、いつの日か必ず訪れるであろう死の瞬間をただ待ち続けているような。

蝋燭のか細い光だけが辺りを照らす中、キングサイズのベッドの上で手足を投げ出して横たわっている青年。
硝子を連想させる薄い色の瞳を天井に向け、ぐしゃりと乱れた艶のある青い髪。まるで透き通るような白皙の肌。
生命という俗に塗れたものが宿っているとは思えぬ、どんな人形よりも美しい青年であった。

投げ出されている状態の左手首には、呪いの言葉が幾重にも刻まれた手枷が嵌められている。
彼をもう二度とこの城から出さぬように、頑丈な手枷から伸びる長い鎖の先はベッドの柱に括り付けられていた。
サイドテーブルに置かれているのは、銀のトレイに乗せられた全く手の付けられた跡のない食事。
側には毒々しい赤い色をした液体が注がれたグラスがあった。ワインのようにも見えるが、明らかに血液である。


「クウォルツェルト様、失礼いたします」

部屋の扉が数回ノックされ、黒髪をオールバックにした男が姿を現した。
ギョロイアの忠実なる腹心である。いつか名前を耳にしたような気がしたが、記憶に残ってはいなかった。
そもそもこの男を名前で呼ぶ機会など無きに等しく、クウォーツにとっては全くどうでもいいことであった。

「お怪我の具合は如何でしょうか? 痛みがあれば、すぐにお申し付けくださいませ」


……ああ、完全に忘れていた。
身体の至る所に包帯やガーゼで丁寧に手当てがされている。思うように手足が動かなかったのはそのためか。

数日前、この城に訪れた人間達がいた。
厳つい身体をした大男が一人、旅など似合わぬような弱々しい女が二人。随分と奇妙な組み合わせだと思った。
男は仲間の女達を身を挺して守るために、無謀にも単身クウォーツへと向かってきたのだ。

いつものように、全員殺すつもりであった。勿論クウォーツには彼らを殺すには十分すぎる力を持っている。
あまりにも人間達は脆弱で簡単に死んでしまいそうだった。暫く嬲ってから、止めを刺してやろうと思っていた。
そう、いつものように。
だが違った。……いつもとは何かが一つだけ、決定的に違ったのだ。


『……ごめんね。わたし、あなたを傷付けちゃったのかな』

彼らはいつもの旅人とは違い、クウォーツを自分達と同じ人間のように扱った。
人間は悪魔族であるクウォーツを恐怖する。どうか助けてくれと、地に頭を擦り付けて必死に命乞いをするのだ。
その一方で、彼の美貌に目が眩んだ人間達も多く存在し、欲望に塗れた下卑た眼差しで彼を手に入れようとした。
クウォーツが今まで出会った人間は、その二種類の者達だけだったのだ。


『あなたが悪魔族って聞いて、最初はちょっと驚いちゃったけど。……そんなの、わたしには関係なかったのに』

しかし彼らは違った。
恐怖も、欲望も、そんなものは何一つとして持っていなかった。ただ一人の人間として彼に接してくれていた。
だからほんの気まぐれだった。こんな珍しい人間もいるんだなと、気まぐれを起こして彼らを逃がしたのだ。


「お食事ばかりか、血すらも召し上がらず……本当に困ったお方だ」

全く手の付けられていない食事に顔を向けた従者の男は、やれやれと深く溜息をつく。
心を痛めた口調とは裏腹に、男は欲望を隠そうともしない妖しげな笑みを浮かべながらクウォーツを眺めていた。
顔、首筋、手枷の嵌められた左手、身体中に絡みつくような視線が酷く不快であった。

「それとも……ふふふ、もっと別の方法で精気を得たいという、わたくしへの遠回しな誘惑でしょうか?」

ぺろりと舌なめずりをする。赤い舌が妙に生々しく映った。
口を閉ざしたままのクウォーツの態度を都合よく解釈すると、従者の男は手を伸ばして彼の肌に手を這わせる。

「あの時クウォルツェルト様は意思を奪われておられましたが、あの夜からわたくしはあなたが忘れられない」
「私に触れるな」


温度など全く感じられない声。全ての感情を抜き去った声がクウォーツから発せられる。
天井に向けていた虚ろな瞳を身を近付けてくる従者に向け、決して逆らうことなど許されぬ硝子の瞳で射抜く。

「おお、流石は我が伯爵閣下。恐ろしゅうございますな」

ぎくりとしたように従者の男は手を引っ込めるが、クウォーツの左手首の枷に目を留めると笑みを浮かべる。
これは単なる飾りではない。いくつもの呪いの込められた手枷であった。

「しかしわたくしを殺すことなどできませんよ。その手首の枷は、あなたの魔力を完全に封じております。
 怪我を負った身体、魔力は封じられ、剣も奪われ、手首は鎖で繋がれ……今のあなたは、あまりにも無力だ」
「……」
「わたくしが何をしようと、あなたには抵抗する術がない」


「魔力も剣も封じた上に身体の自由も奪い、そこまでしなければ私に指一本すら触れることができない臆病者め」
「なんとでも。あなたは計算高く油断のできないお方だ。それを十分わたくしは理解しておりますので」

棘の含まれたクウォーツの物言いにも顔色一つ変えることもなく、従者はにっこりと笑みを浮かべる。
乱れた青い髪に手を伸ばし、手櫛で梳いていく。柔らかくさらさらとした髪は数回梳いただけですぐに整った。
抵抗もせずその行為を受け入れているクウォーツの姿は、誰が見ても物言わぬ精巧な人形そのものである。


「……その辺にしておくんだね、喉を掻っ切られても知らないよ」

いつの間にか、杖を突いたギョロイアが音もなく寝室の入口に立っていた。
枯れ木のように痩せ細った小柄な老婆。濃い茶の髪を結い上げ、長い鷲鼻と瞼に半分ほど埋もれてしまった目。
誰もが顔を背けてしまうであろう、醜い女であった。

ギョロイアにじろりと視線を向けられて、悪びれた様子もなく笑みを浮かべた従者はクウォーツから身を離した。

「クウォーツ様を甘く見ない方がいい。この方は人形を演じながら、お前の隙を常に窺っている恐ろしい方だ」
「存じておりますとも」


「……ギョロイア」
「ご機嫌麗しゅうございます、我が愛しい伯爵閣下。本日も、ただ横たわるお姿でさえも絵画のようにお美しい」
「茶化すな。一日中ベッドの上に繋がれて、私の機嫌が良いように見えるのか」

「お許し下さい、クウォーツ様。……本当はこのような事などしたくはないのです。
 しかしまたあなたが人間どもに唆されて、この城を出て行ってしまうのではないかと不安でたまらないのです」


「もうどこにも行かないと、そう言ったはずだ」

己の顔の前まで左手を寄せると、手枷に繋がれた鎖がじゃらじゃらと嫌な音を立てる。
確かに魔力が完全に封じられていた。これでは黒魔術も、召喚魔法も、愛剣を手元に喚び寄せることもできない。
この手枷はギョロイアの不安の表れなのだろうか。果たして己はこれほどまでに彼女を追い詰めてしまったのか。

「それでもまだ不安だというのか」
「あたしはただ心配なのです。あなたが人間に拐かされ、いつか無残な姿で殺されてしまうのではないかと」

悲しげに瞳を潤ませたギョロイアは痩せた両腕を伸ばし、手枷に繋がれたクウォーツの左手を優しく包み込んだ。


「人間の言葉など信じてはなりません。あなたをあんなにも傷付け、辱めた奴らの言葉など信じてはなりません」

優越感に満ち溢れた下卑た人間の笑い声。自分達よりも脆弱だと思っている存在を甚振る快感の表情。
奴らは皆、玩具のようにクウォーツを扱った。彼が壊れてしまえば、また別のものを用意すればいいだけだと。
屈託のない笑顔を浮かべるあの心優しい黒髪の青年も、奴らに呆気なく殺された。皆、みんな人間に殺された。


「あたしは人間どもを決して許しませぬ。奴らには相応の報い、いやそれ以上の地獄を見せてやらねば」
名残惜しそうにクウォーツの手を離したギョロイアは、こちらをじっと見つめる硝子の瞳に微笑んでみせる。

「……いつまでもお側にいたいのは山々なのですが、五日ほど城を留守にしなければならない用事ができました。
 用事が済めばすぐにでも戻って参ります。戻ってきたとき、この手枷を外すことを必ずお約束いたしましょう」

じゃらり、と鎖が鳴った。
ということはギョロイアが帰ってくるまでの五日間は、この手枷と共に過ごさなくてはならないのだろう。
煩わしさはあったが、魔力や剣を封じられたところで城から逃げる気もない彼には関係がなかった。


「その間この部屋で一人きりというのもお寂しいでしょうから、話し相手ができるお世話役をご用意いたします」
「ギョロイア様、それならばわたくしめが喜んで」

「はん、お前は目を離すとすぐに勝手なことをするからね。……これ以上クウォーツ様に触れるんじゃないよ」
「おやおや、これは手厳しい」
「お前もあたしと一緒に行くんだよ。ほら、さっさと部屋から出て準備しな」
「承知いたしました」

ぴしゃりとギョロイアに言い切られ、従者の男は残念そうに苦笑を浮かべると一礼をしてから去っていく。
その方向を目を細めて睨み付けていたギョロイアだったが、表情を戻して振り返った。

「それではクウォーツ様、また後ほどお世話役を連れてお伺いいたします」

深々と頭を垂れるギョロイア。
そんな彼女を視界からふいと外し、クウォーツは口を閉ざしたまま再び天井に虚ろな瞳を向けただけであった。





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