Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第5章 君が、微笑んだ夜
第42話 若き悪魔の夜想曲 -2-
「おいトキオ! 何をさっきからぼさっとしているんだ、お庭の掃除が終わったら次は花瓶の拭き掃除だよ」
恰幅のよい召使い長の怒りを帯びた声。
箒を手に持ったまま落ち葉を掃くことも忘れ、ぼんやりと三階の窓を見上げていた青年は我に返って振り返った。
そばかすの目立つ上向きの鼻、明るい茶色の癖毛。太く垂れた眉に黒目がちな瞳。
年齢は二十代の中ごろ。トキオと呼ばれたこの青年はハイブルグ城には珍しく、とても純朴そうな若者である。
先程彼の名を呼んだ召使い長は、トキオのお人好しな性格を知った上で己の仕事を押し付けてくるのだ。
花瓶の拭き掃除は本来召使い長の役目である。もしも高価な花瓶を割ってしまえば、本当の意味で首が飛ぶ。
その責任を逃れたいために仕事を押し付けてくる汚い男だ。しかし、本日もトキオは断ることができなかった。
「……はい、分かりました召使い長」
「お前は仕事が丁寧だからな。オレの代わりに、花瓶をぴかぴかに磨き上げておくんだぞ!」
ちくしょう、この豚オヤジめ。いつか地獄に落ちろ。
去っていく召使い長の肥えた背に向けて、トキオは小さな声で呟いた。その肩を背後から誰かが軽く叩く。
思わず零れそうになった悲鳴を抑えて振り返ると、背後には同じ召使いのロブが立っていた。
「ようトキオ。また召使い長から仕事を押し付けられているのか? 仕方ないな、オレも手伝うよ」
「なんだ、誰かと思えばロブか……驚かすなよ。従者の方々に聞かれちまったかと思っただろ」
「仕事を手伝ってやろうとしている同僚に対して酷い言い草だな。従者の方々がこんな場所にいるわけないだろ」
ハイブルグ城にはメイド、召使い達とは一線を画する『従者』という者達が存在する。
伯爵の側に仕えることを許された者達である。皆一様に青白い顔をして、召使い達を見下した表情が特徴だ。
彼らに逆らえば、恐ろしい罰が待っている。懲罰房に連れて行かれた召使い達の数人は戻ってこなかった。
あの召使い長ですらも震え上がる存在だ。……彼らの不興を買わないことが、この城で生き残る術だった。
「そうだ、メイドに聞いたんだけどさ。この間城に訪れた旅人の女の子が結構可愛かったんだってよ」
「もしかして長い茶色の髪の毛をしたピンクのワンピースの子かな。オレ、一度すれ違ったかもしれない」
「……トキオというのはお前か?」
庭を掃きながら同僚と他愛のない話を続けていると、突如冷たい声が辺りに響き渡った。
完全に相手を見下している声。本来であれば言葉を交わすのも煩わしい、といった気配がありありと窺える。
トキオに声を掛けたのは、やはり従者と呼ばれる男の中の一人であった。神経質そうな細い眉が特徴だ。
「え……あの」
「庭師トキオはお前のことかと聞いているのだ。早く返事をしろ!」
「は、はい! 従者様。オレのことです」
見事な薔薇が咲き誇る庭園の整備もトキオの仕事の一つであった。
上から下までじろじろと無遠慮に彼を眺めた従者は、何故こんな者に我が君を……と忌々しげに吐き捨てる。
突然の従者の来訪に、トキオとロブは状況を飲み込むことができずに目を瞬いていた。
「今すぐに身を清めて服を着替えろ。本日より五日間だけ、お前を伯爵閣下のお世話役に命ずる」
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召使い達は本来三階への出入りを許されていない。出入りができるのは『従者』と『メイド』だけであった。
半ば慌てて浴場にて身を清めた後は、トキオは袖を通したことすらないような上等な衣服を着せられた。
この手触りは絹か。うっかり転んで破ってしまったら、決して高くはないトキオの賃金で弁償できるのだろうか。
三階の廊下は一階や二階と比べて薄暗く、並ぶ扉の数も少なかった。
無言で進み続ける従者の後に恐る恐る続きながら、今ここにいることをトキオは少しずつ後悔し始めていた。
たった五日間だけとはいえ、顔も知らない伯爵のお世話役など単なる召使いである自分に務まるのだろうか。
それこそ従者やメイドの役目ではないのか。
不慣れな仕事でミスを犯してしまい、伯爵の機嫌を損ねるようなことがあれば……想像するだけでも恐ろしい。
「……何故自分などが選ばれたのか疑問に思っているのかもしれないが、召使いの分際で勘違いをするなよ」
不機嫌極まりないといった表情で振り返る従者。
「本来であれば、お前は伯爵閣下と顔を合わせることも言葉を交わすことも、お声を聞くことすらも許されない。
しかしギョロイア様がお世話役として出したお戯れの過ぎる条件に、偶然お前一人が当てはまっただけのこと」
「そ、その条件って一体何ですか?」
「伯爵閣下と同じ年齢である人間の男、という条件だそうだ。傷心の我が君を慰めて差し上げろとのご命令だよ」
「オレと同じ年齢って、伯爵様はそんなにお若い方だったんですか」
「無駄口は慎め、我が君のお部屋の前である。……あのお方の前で少しでもおかしな真似をすれば斬り殺すぞ」
一際大きな扉の前で立ち止まった従者は数回ノックをするが、部屋の中から何も反応はない。
だが返事がないことなど既に分かりきっているように無遠慮に扉を開け、トキオは目線で中に入れと促される。
扉を開けてすぐ目の前には応接間を兼ねた書斎。机、応接テーブルとソファー、戸棚、本棚が並んでいた。
どうやら左奥は広い寝室のようである。応接間で待たされるのかと思えば、従者は迷わず寝室へと向かっていく。
ほんのりと香る薔薇の匂い。庭園の光景が一瞬だけ過ぎった。
「クウォルツェルト伯爵閣下、お休みのところ大変失礼いたします。先程申し上げていた召使いでございます」
……純白のシーツに包まれた、キングサイズのベッド。天蓋から下ろされた織物は軽く束ねられていた。
薄暗い中でベッドの上に横たわっていた人物は、従者に声を掛けられても全く反応をしない。
乱れた青い髪と白いシャツ。硝子玉のように透き通った薄い色の瞳は、ぼんやりと虚ろに天井を見つめていた。
まるで人形のように恐ろしく美しい容姿をした若い男であった。この者が皆の噂するハイブルグ伯爵なのか。
それよりも、なによりも、トキオはこの青年を確かに知っていた。
「早く伯爵閣下にご挨拶をするんだ」
「はっ、はい!」
従者にじろりと睨み付けられるように急かされ、慌てて背筋を伸ばしたトキオは深々と頭を垂れる。
「お初にお目にかかります、伯爵様。この城で庭師見習いをさせて頂いている、トキオと申します。
至らぬところは多くございますが、本日より五日間精一杯お尽くしいたしますので、よろしくお願いします!」
「クウォルツェルト様は大変聡明で繊細なお方だ。くれぐれも失礼のないように、十分に気を付けるのだぞ」
釘を刺すような冷たい声を発しながら従者はトキオを一瞥し、それから足音も立てずに寝室を去って行った。
虚ろな瞳で横たわる伯爵と寝室に二人きり。辺りを包み込む静寂。
もしもここに連れてこられたのがトキオでなければ、沈黙に耐え切れずに逃げ出しているような空間である。
先程従者は伯爵とトキオは同じ年齢だと口にしていたが、初めは信じがたい話であった。
この青年から発せられる迫力は若い男が出せるような代物ではない。彼に近付いてはならぬと警報が鳴り響く。
しかしよく見てみれば、きちんと年相応の顔立ちをしている。むしろ表情があればもっと幼いのかもしれない。
「……まさか単なる召使いのオレが、今こうして伯爵様とお話ができるなんて夢みたいです」
完全に従者が部屋から出て行ったことを確認すると、トキオは伯爵に向かってにっこりと満面の笑顔を浮かべる。
やはり伯爵は何も答えない。彼の華奢な左手首には、鎖に繋がれた枷が嵌められている。一体何故なのだろうか。
気にはなったが、頭が良いとはいえないトキオでもそれを訊ねてはいけないことだけは理解できた。
「覚えていらっしゃらないかもしれませんが、オレ……庭園で一度だけあなたとお話ししたことがあるんです。
でもまさか伯爵様だったなんて。そりゃあ城の中をいくら探しても、あの日以来全く会えなかったわけですよ」
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「トキオ、お前無事だったのか!?」
「伯爵様の部屋に呼ばれたって聞いて……てっきり殺されて、二度と戻ってこないかと心配していたんだぜ」
召使い達の部屋に戻ったトキオは、ロブを初めとした同僚達に幽霊でも見るような顔付きで出迎えられた。
確かに伯爵や、その周囲に控える従者達に悪い噂は尽きなかった。
全てが真実なのか、嘘が入り混じっているのか。彼らには知る由もなかったが、火のない所に煙は立たない。
「確かに伯爵様の部屋にお世話役として呼ばれたけど、仕事の内容は伯爵様の話し相手になるだけだったよ」
「おいおい、あの伯爵様と話をしたのかよ……オレ伯爵様の姿さえ一度も見たことがないんだぜ」
「やっぱり噂どおりの恐ろしい方なのか?」
「話し相手といっても伯爵様は一言も話して下さらなくて、オレだけがべらべら話し続けていたんだけどさ」
結局一日目はトキオが何を話しかけても伯爵は一度たりとも言葉を発さず、視線すら向けてはくれなかった。
この青年は本当に人形なのではないかと、己は単なる人形に向けて話し続けているのだろうかと錯覚するほど、
伯爵は天井を見つめたまま指一本すら動かすことはなかったのだ。
「噂では物凄く恐ろしい方だって聞いていたけど、オレは決してそんなことはないと思うんだ。
年齢だって同じくらいで……オレ達召使いとは生きる世界がまるで違うような、とてもお美しい方だったよ」
「えっ、伯爵様ってそんなに若かったのか!?」
「高齢なギョロイア様の養子っていうくらいだから、勝手に中年くらいの恰幅いい紳士を想像していたんだけど」
「若くて美しい男だなんて、やっぱり噂どおりギョロイア様の愛人にするためにご趣味で養子に選んだんじゃ……」
「おい、声が大きい! 従者の方々の耳に入ったら、お前の首が飛ぶぜ?」
殆ど想像だけで勝手に盛り上がっている同僚達から視線を外したトキオは、一つ隠れて溜息をついた。
明日こそは伯爵様の声が聞けますようにと、傷心である伯爵様がどうか早く元気を取り戻してくれますようにと。
トキオはそれだけをただ祈り続けていた。
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