Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第5章 君が、微笑んだ夜

第44話 若き悪魔の夜想曲 -4-




召使いトキオがハイブルグ伯爵のお世話役に命ぜられてから早五日が過ぎた。
人前に殆ど姿を現さないこの伯爵の意思は、全て彼の後見人的存在であるギョロイアを通じて発せられている。
顔どころか伯爵の声すら知らない者達も城の中には存在した。そして勿論、トキオもその中の一人であった。


しかし彼は以前、たった一度だけハイブルグ伯爵クウォルツェルトと出会っていたのだ。
その時はまさか彼が伯爵とは知らず、随分と馴れ馴れしい口調で話してしまっていたことを今更ながら思い出す。
けれどあの出会いは、トキオの中で決して忘れることのできない大切な時間となって鮮やかに色付いている。

……お世話役に命ぜられてからの五日間、トキオは常に伯爵の側に付き添い尽くしていた。
伯爵は心に深い傷を負っていると従者から聞いた。手首の枷は、彼が危険な行動を取らぬための措置であるのか。

元気を取り戻してほしいというトキオの懸命な努力も虚しく、結局この五日間伯爵は一言も口を利かなかった。
約束の五日間は、あまりにも呆気なく過ぎ去ってしまったのだ。


「クウォルツェルト様。今の季節は、一年の中で薔薇が最も美しく咲く時季なんですよ」

今日もまた、全く手の付けられた形跡のない食事の乗ったトレイ。
完全に冷めてしまったそれを片付けながら、トキオはベッドの上で虚ろな瞳を天井に向ける伯爵を振り返った。
彼の色の薄い瞳は瞳孔がくっきりと透けており、声を掛けられても一切動くことはない。

「……そういえば、昔一度だけ薔薇の庭園であなたとお話したことがあるって最初の日に言いましたよね。
 丁度二年前の今頃です。オレが皿洗い担当から配置換えされて、今のお庭担当になったばかりの頃に一度だけ」


初めは厨房担当の召使いとして働き始めたトキオだったが、のんびりとした性格がコック長とは合わなかった。

罵声を毎日のように浴びせられ、いつまで経っても皿洗いしかさせてもらえなかったのだ。
元々植物の世話が趣味であったトキオはお庭担当に配置換えを願い出た。そして念願の庭師見習いとなった。
しかしお庭担当を取り仕切る召使い長にも目を付けられ、様々な嫌がらせを受け続けることになってしまう。

トキオが丹精込めて育て上げた薔薇の苗を全て召使い長に踏み躙られ、嘔吐するまで何度も殴られたある日。
涙と鼻水、血に塗れた顔のまま召使いの部屋に戻るわけにもいかず、トキオは薔薇の庭園を彷徨い続けていた。
入口付近に咲くのは白と桃色の薔薇。少し奥に進むとオレンジと黄色の薔薇。そして最奥には赤い薔薇の庭園。

……誰もいないと思っていた。こんな庭園の最奥に、人がいるなんて思わなかった。
青い髪に透けるような白い肌。神の寵愛を一身に受けた神話の登場人物も斯くやと思わせる程の美青年である。
彼はトキオの育てた薔薇の前に立っており、ただ一言だけこう口にした。


——綺麗だな、と。


この青年が一体誰なのか、そんなことは最早どうでもよかった。
自分の育てた薔薇を綺麗だと言ってくれた。そのたった一言だけで十分すぎるほどトキオの心は救われたのだ。
何一つできないわけじゃない。自分は綺麗な薔薇を育てることができるのだと、自信を持ってもいいのだと。
その夜トキオはベッドで思い切り泣いたのだった。

この日からトキオは少し変わった。自信を持って己の仕事を全うし、罵声も段々と聞き流せるようになった。
未だに召使い長から仕事を押し付けられることもあったが、嫌がらせじみた行為は今では完全に収まっている。

自分に自信が持てるようになったのは、全てはあの一言のお陰である。
もう一度彼に会って礼を言いたい、と。日々青い髪をした青年の姿を探したが、それきり出会うことはなかった。
当然である。青い髪をした彼は、あのハイブルグ伯爵だったのだ。


「あの言葉はクウォルツェルト様にとって何気ない一言だったでしょう。けれどオレはあなたに救われたんです」

全てを話し終えたトキオは満足そうに笑った。お世話役はどうせ今日で最後なのだ。
もう二度と伯爵と二人きりで話す機会などないのかもしれない。返事はなくとも聞いてくれるだけで十分だった。
だがその瞬間。気が緩んでしまったのか、両の瞳からぽろりと涙が零れ落ちる。

「オレが今日まで自信を失わずにいられたのも、あなたのお陰です。あなたがいなかったらオレは……今頃……」


「……泣いているのか」
そのトキオの涙を目にすると、今まで一切口を開かなかった伯爵——クウォーツ——から小さな声が発せられた。

「涙は悲しい時に流すものだと聞いた」


硝子によく似たアイスブルーの瞳をトキオに初めて向ける。
予想外であった伯爵の行動に、溢れる涙を拭うことも忘れてトキオは呆然とした顔付きで彼を見つめていたが。
先程まで涙を流していたかと思えば、全身で喜びを表現する。まるでトキオは幼い少年のようだった。

「伯爵様。どうしようもなく嬉しい時や、幸せな時にだって涙を流すんですよ。悲しい時だけじゃないんです」
「嬉しい時?」
「オレは今とても嬉しいんです、あなたにまた会うことができて。あなたの声を再び聞くことができて」

声を聞くだけで嬉しい気持ちになるのだろうか、と。
残念ながらトキオの零した涙の意味をクウォーツに理解してもらうことはできなかったが、それでもよかった。


「オレ……今大切に育てている薔薇の苗があるんです」

幸せそうな笑顔を浮かべていたトキオだったが、急に真剣な表情を浮かべてからクウォーツをじっと見つめた。
感情の全く浮かんでいない瞳。ともすると、この硝子の瞳に飲み込まれて負けてしまいそうになる。
この瞳の奥に延々と広がる闇に飲み込まれてしまえば、もう戻ってこれなくなる。そんな魔性の瞳であった。

「花を咲かせたら、一番最初にクウォルツェルト様に見ていただきたいんです。きっと綺麗な赤い薔薇ですよ!」

……確証のない約束を交わす価値などない。
クウォーツは返事をすることもなくトキオに向けていた視線を再びふいと天井に戻し、目を細めただけであった。







「オレ達が神に代わって、悪魔族どもに天罰を与えるのだ!」
「悪魔族に加担する奴らは人間だろうが容赦はしねぇよ。あの城の奴らは悪魔の下僕だ、縛り首にしてやる!」

一方、ハイブルグ城下町では。

夜空に不気味に浮かび上がる城を背にして、町人達は噴水広場にて武器を片手に城へ乗り込む作戦を立てていた。
渦巻く熱気。最早尋常ではない鬼のような表情。正に集団の狂気に取り憑かれてしまった人々を止める術はない。
彼らはハイブルグ城の住人全てを天罰と銘打って皆殺しにしようというのだ。


「ちょっと待って、落ち着いてよ! 天罰を与えるとかじゃなくて、城の人達とちゃんと話し合いをしなくちゃ。
 もしかしたらいい解決方法が見つかるかもしれないし……話し合う前に殺すとか、それはいくらなんでも……」

「……甘いなぁ、お嬢ちゃん」
ティエルの言葉に伐採用の大きな斧を肩に担いだ大男が振り返り、唇を噛みしめている彼女の肩を突き飛ばした。

「噂によると伯爵は青い髪をした男だっていう話だ。青い髪は忌み子の証。奴らは忌み事を呼び寄せる」
「しかも醜いババアの愛人やってる男娼上がりという噂だ」
「なんて穢らわしい。淫欲に塗れた悪魔族なんざ殺せ、殺しちまえ!」
「このままじゃどんな恐ろしい災いが町に降りかかるか……いや、現に災いを呼び寄せているじゃないか!」

「肉塊になるまで、伯爵を町中に引きずり回せー!」
「きっと神様が怒ってらっしゃるんだ。一刻も早く、我々は悪魔族には屈服しないと神に弁明をしなければ……」

町人達の士気はどんどんと高まっていき、彼らはティエル達の言葉を聞き入れてくれるような状態ではなかった。
この尋常ではない空間に不安を覚え、彼女は懐に忍ばせていたメビウスの指輪を握り締める。
……怖い。同じ人間なのに彼らが怖い。だからお願い、ほんの少しでいいから勇気をくださいと。指輪に願った。


「アザレグ父ちゃんは強いんだぞ。悪魔族なんか、父ちゃんにかかればあっという間にやっつけちゃうよ!」

男達の声の中に混じって一際目立つ、高い子供の声。
驚いたティエルが振り返ると、そこには小さな棒を握り締めた少年が自慢げに胸を反らしながら立っていたのだ。
年齢は十二歳前後。先程の台詞から察するに、アザレグの息子なのだろう。

「ボクも将来父ちゃんみたいな強い戦士になるために、一緒に悪魔族をやっつけるんだ!」


「……アザレグさん、あなた一体何を考えているんですの。こんなに小さな子まで城に連れて行くつもり?」
「あぁん? 文句あんのか」
「そんな危険な場所に自分の子供を連れて行くなんて、親としての自覚が少しばかり足りないんじゃなくて?」

じろりとリアンの鋭いカーネリアンの瞳に睨み付けられても、アザレグは気にする様子を見せなかった。


「ははは! 心配はいらねぇよ。こいつは五歳の頃からずっとオレが武術を叩き込んでいるんだ。
 オレは町に侵入したモンスターを何度か退治したことがある。こいつもオレのように強くなってもらわねぇと」

「そうだそうだ、アザレグさんは町の英雄なんだぞ!」
「さぁ皆、城に向けて出発だー!」


うおおぉぉ、と耳が張り裂けんばかりの歓声とともに武器を携えた男達はゆっくりと城に向けて進み始めた。
総勢五十名ばかりの男達は腕に自信のある自警団だろうか。町人達に見送られ、その背が段々と小さくなっていく。
女や子供は雨戸をしっかりと閉め、家の中に閉じこもっているのだろう。

遠ざかっていく自警団達の姿を呆然と見つめていたティエルだったが、はっと我に返るとリアン達を振り返る。
この状況は非常にまずい。


「どうしよう、このままじゃクウォーツも……!」
「無事では済まないでしょうね。私達も一緒に城に乗り込んで彼を助け出すしか方法は残っていないわ」

蒼白にさせた顔で小刻みに震えているティエルにゆっくりと歩み寄り、リアンは彼女の両肩に優しく手を触れる。
そして、凛とした口調で言った。

「もしかしたら、私達も町人達に殺されるかもしれない。命の保障はできませんわ。それでも……よろしくて?」


「まさに命を懸けて、あの悪魔族の青年を救いに行くということか。だが果たしてそれは正しい選択だろうか。
 お前は封魔石を探すという大切な目的を放っておいて、たった一人の悪魔族のために命を懸けるというのか?」

「サキョウ」

腕を組んだサキョウが厳しい口調でティエルの前に立ちはだかる。まるでここは通さぬと言わんばかりであった。
巨大な体躯に阻まれてはどうすることもできず、ティエルは彼を見上げる。
普段は優しげな眼差しのサキョウの瞳は、見たこともないような厳しい瞳。彼は本気でここを通さないつもりだ。


「第一、ほんの数時間接しただけのクウォルツェルトのことを……ティエル、お前はどれほど知っているのだ。
 彼を救い出したところで、その先は? 人間と悪魔族が手を取り合って生きていけると本気で思っているのか?
 ならばいっそのこと人間の世界に連れ出すより、彼はハイブルグ城と運命を共にする方が幸せなのではないか」

「ちょっとサキョウ、そこまで言わなくても。ティエルだって生半可な覚悟じゃ……」
「リアンは黙っているのだ」

何時になく厳しくも譲らぬ様子のサキョウに、思わずリアンが眉を顰めるが。それをぴしゃりと彼は制した。

「僧侶としてはっきり言うが、彼は救う価値のない者だ。……ワシはあの悪魔族の青年を人とは認めたくはない」
「……!!」


森の奥深く閉ざされた城の中で出会った、青い髪をした青年。
半ば幽閉されているような印象を受けたその青年は、ティエルの旅の話を相槌を打ちながら聞いてくれていた。
彼は誰にも愛されたことがないと言った。ティエルの手を取ろうとし、太陽の光が見たいと、生きたいと言った。

『私のことを、もっと知りたいと……友達になろうと言ってくれたんだ。おかしいだろ、この私にだぞ』

彼の伸ばした手を掴めなかったことを、心底後悔した。どうしてあの時、無理矢理にでも掴めなかったのだろう。
青い髪で、悪魔族で。虐げられたことも数多くあっただろう。それなのに、ティエルを信じてくれようとした。
その手をティエルが掴まず、一体誰が掴むというのか。


「救う価値がないって……一体どういう意味? サキョウが言う救う価値のある人って一体どんな人なの?
 王様? お金持ち? それとも皆に好かれている人? ……悪魔族の彼を、大切に思うのは許されないの?」

先程まで心細さを帯びていたティエルの瞳に、もう迷いはなかった。
真っ直ぐすぎる茶の瞳でしっかりとサキョウを見据える。大の大人である彼が一瞬たじろぐほどの眼差しである。


「……誰かを大切に思う心に、助けたいと思う心に、種族や価値なんて関係ない!」


暫く彼女の瞳を逸らさずに見つめていたサキョウであったが、それから包み込むような優しい笑顔を浮かべた。
普段の彼が浮かべる、両親を知らぬティエルが父のようだと感じた笑顔であった。

「ああ、そうだな。誰かを大切に思う心に価値など関係ない。それがたとえ、人間ではなく悪魔族だとしても。
 本来であれば、それを教えてやるのは僧侶であるワシの役目であったのに……ワシがお前に教えられるとはな」


サキョウの母親は悪魔族に惨殺された。
その日を境に、武闘家を目指していた兄ゴドーは流れの教師への道を歩み、弟サキョウは僧兵の道を歩み始める。
戦う力を完全に捨て去ったゴドーとは違い、サキョウは悪魔族へ復讐を果たすことを己の目的とした。

父や兄の反対を振り切って、ベムジンへと単身やってきた。
全ての悪魔族を殲滅させる日を仲間達と共に誓い、モンク僧としてただひたすら修行の日々を送っていたのだ。
それを今更。ひとりの悪魔族の青年を人として認めるなどと、サキョウにとっては許されることではなかった。

しかし、この少女の言葉に心を動かされたこともまた事実であった。
人間と悪魔族が手を取り合うことは本当に不可能なのか。それをこの目で確かめてみるのも僧侶の役目だろう。


「けれど、サキョウは今まで悪魔族と戦ってきた僧侶だ。一緒について来てほしいだなんて言わない」
サキョウの力強く大きな拳を、ティエルはそっと両手で包み込む。ごつごつとした、大人の男の手であった。

「だからわたしは、一人で行く。わたし一人で、クウォーツを助けに行く」


「ちょっと、この私を忘れないで下さいな。……何のために一緒に指輪を手に入れたと思っているんですの?」
「全く……ここまでワシを関わらせておいて、今更お前一人で行かせるわけにはいかんぞ? ティエルよ」
「リアン、サキョウ」

しっかりと頷いて魔法のロッドを握り締めるリアンと、やれやれとした表情を浮かべているサキョウ。
分厚い手の平でティエルの肩をぽんと叩く。

「ワシらが命を懸けて手に入れた指輪なんだぞ。……それをクウォルツェルトに渡してやらんでどうするのだ」





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