Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第5章 君が、微笑んだ夜

第48話 君が、微笑んだ夜 -2-




「……そうはさせないよ、愚かな人間どもが! あたしの留守中によくも好き勝手してくれたねぇ」

突如響いた老婆の声。
驚いたティエルや男達が振り返ると、従者を大勢引き連れたギョロイアが怒りの形相を浮かべながら立っていた。
既に外へ出るための通路は全て従者達に封鎖されており、人間達を一人たりとも生きて逃さぬつもりである。


「ああ、クウォーツ様……あたしがあなたのお力を封じたばかりにこんな恐ろしい目に遭われて……。
 我が君のお身体に傷を付けた無礼な人間どもは、全てここで皆殺しじゃ。己の愚かさを死んで詫びるがいい!」


崩壊の黒魔術を発動させたのだろうか。
ギョロイアがぶつぶつと低音で呪詛を呟くと同時に、大広間の壁や天井が激しい爆音と共に崩れ始めたのだ。
砕け散った大理石や木の欠片が、ティエルや自警団達を明らかに目掛けて次々と降り注いでいく。

「うわあぁぁ、急に天井が崩れ始めたぞ!?」
「このままじゃ生き埋めになっちまう、早く逃げるんだー!」

男達は激しく狼狽し、悲鳴を上げながら逃げ惑う。悪魔狩りどころではなく、最早自分達が狩られる側だった。
あちこちに彼らの投げ捨てた血塗れた武器が転がり、ばらばらと降り注ぐ石の破片に埋もれていく。
その騒ぎの隙を突いて、ギョロイアは倒れたままのクウォーツへと障害物を避けながら駆け寄っていった。


「クウォーツ様、もう大丈夫ですよ。怖い人間達は全員このあたしが追い払ってあげますからね」


クウォーツの上半身を抱え起こし、ギョロイアはあちこち殴られて青く腫れ上がった彼の顔を覗き込む。
口の周囲は己の吐き出した血で汚れ、左の瞳は内出血を起こしたのか真っ赤に染まっている。酷い状態だった。

凄まじいほどの剣の腕と溢れんばかりの魔力を持っているクウォーツが、人間達に何一つ抵抗ができなかった。
手枷一つで彼を、戦う力を持たない無力な悪魔族へと変えてしまうことができるのだ。
逆に言えばこの手枷さえあれば、恐ろしい強さを持つ彼を飼い慣らすことが可能だとギョロイアは知っている。


「せっかくクウォーツと会えたのに、ここまできて……!」

大量に降り注ぐ木片を避けながら、ティエルはクウォーツの元まで駆け寄ろうとするが。
右往左往しながら逃げ惑う男達がティエルの行く手を塞ぎ、彼の元まで真っ直ぐに辿り着くことができなかった。


「うわあぁぁん、怖いよ! 痛いよぉー!」

男達の悲鳴に混じって、幼い子供の叫び声が響く。
父親のアザレグを見失ってしまい、シンという名の少年は逃げることもせずに座り込んだまま泣き叫んでいる。
あちこちに見受けられる擦り剥いた傷痕は、転んだ時に負ってしまったものだろうか。

「父ちゃんどこだよぉー! ボクを置いていかないでよぉ、うわああぁ……どこだよぉぉ……!」


父親の姿を求めて泣き叫ぶことしかできない幼い少年の姿を、自警団の男達は誰一人として目に留めていない。
ただ自分だけが助かりたいために夢中で逃げている男達。自分さえ助かればそれでいいのだ。
少年の手を引いて一緒に逃げてやろうとする者などいない。そんな光景を、クウォーツは虚ろな瞳で眺めていた。

一際大きな爆発音が鳴り響き、天井に飾られていた巨大なシャンデリアがその衝撃でぐらりと大きく傾いている。
丁度その真下では泣き叫んでいるシンという少年の姿。細かい硝子の破片が降り注ぐが、少年は気付かない。
クウォーツは周囲を見渡すが、実の親であるアザレグでさえも逃げることに必死で我が子を全く見ていなかった。


とうとうシャンデリアを支えていた太い鎖が弾け飛び、支えを失った巨大な硝子の塊が一直線に落下する。
その瞬間。ギョロイアを押し退けて地面を蹴ったクウォーツは、片手でシンを己の下に抱え込むと地に伏せた。
がしゃぁん、という大音量と共に二人の真上に落下したシャンデリアの硝子や金属が四方へ飛び散っていく。

「クウォーツ様、何を!?」
慌てて後を追うために駆け出したギョロイアの道を塞ぐかのように、倒れてきた太い柱が大広間を二分した。


「シン、まさか……あのシャンデリアの下に?」

漸く我が子の姿が見えないことに気付いたアザレグが、崩れたシャンデリアに駆け寄り狂ったように喚き散らす。
泣き腫らしながら太い金属の支柱を引っくり返すと、運良く隙間に挟まっていたクウォーツとシンの姿があった。
ぼろぼろと涙を流してはいるが、シンは擦り傷しか負ってはいないようだ。

「……父ちゃああぁん!」
「シン、ああ……シン! よかった、無事だったか!」


アザレグは心から安堵の笑顔を浮かべると、シンを引っ張り上げて強く抱きしめる。
しかしシンは首を横に振って父親から離れると、既に立ち上がる気力すら残っていないクウォーツに駆け寄った。
直撃を隙間で免れたとはいえ、鋭い硝子の破片は容赦なく彼の背中を傷付けていた。シャツが赤く染まっている。

「ボクは大丈夫だよ。おにいちゃんがずっと抱きしめていてくれたから……!」
「なんだと?」
「……ねえお願い父ちゃん、おにいちゃんをもういじめないで。助けてあげてよ!」

「いやでも、こいつは悪魔族なんだぞ……」


動かないクウォーツの身体に縋って泣き続ける我が子を呆然とした表情で眺め、アザレグは言葉を失ってしまう。
そんなまさか、悪魔族だぞ。ずっと抱きしめて守ってくれた? いや、きっと何かの偶然だろう。
けれど……こいつは先程も、カーテンの陰に隠れていた人間の若造を守ろうとしていなかったか? いやまさか。

そこまで考えて、アザレグは返答を求めるように残っていた男達に顔を向ける。
だが誰もが困惑した様子で、逃げることも忘れて立ち止まっていた。その間にも逃げ道は瓦礫で塞がれていく。


「……助けたのではない。勘違いを、するな」

縋って泣き続けていたシンの手を乱暴に振り払い、クウォーツは一語ずつ、静かに。低く擦れた声を発した。
突如冷たく突き放されたシンは大きな瞳に涙を溜めて彼を見上げる。

「おにいちゃん?」
「近寄るな。ただ貴様の血を頂戴しようと襲ったところ、偶然上からシャンデリアが落ちてきただけのこと」
「えっ……?」

「この私を誰だと思っている? 悪魔の貴族と謳われるヴァンパイアだぞ。助けてもらったとでも思ったか」


覚束ない様子で立ち上がったクウォーツの周囲には、枷で封じられているはずの赤い妖気が渦巻いている。
血でべったりと貼り付いた青い前髪、白目までもが赤く染まった瞳、火傷を負った身体に、折れ曲がった右腕。
思わず目を背けてしまう凄惨な姿であったが、それでも王者としての貫禄と美しさを彼は未だ保ち続けていた。

「やはりあの男は間違いなく化け物だ。シン、お前はあいつにもう少しで殺されてしまうところだったんだぞ!」
「違うよ、おにいちゃんは本当にボクを助けてくれたんだ!」

クウォーツから引き離そうとする父親の手を振り払い、涙を溢れさせたシンは僅かな恐れもなく前に飛び出した。


「おにいちゃんの嘘つき! ボクを抱きしめながら、耳元で大丈夫だよって言ってくれたじゃないか!」
「……」
「どうして、どうして嘘なんかつくんだよ!!」


シンの子供ゆえに純粋な黒い瞳が、真っ直ぐにクウォーツの薄青の瞳を見つめてくる。
一瞬だけクウォーツの周囲の妖気が弱まったが、無表情のまま左手を振り上げるとシンを力一杯に張り飛ばした。
ばしん、と乾いた音が鳴り響く。目を見開いたまま座り込むシンに向けて、彼は更に突き放すように口を開く。

「それも全て貴様を油断させるために口に出したこと。あぁ……惜しい、もう少しで血を奪えたのに。
 さて愚かな人間諸君よ、早く逃げなくていいのかね。悪魔族の恐ろしさ、私がとくと味わわせてやろうか!」

「嘘つき! この、化け物……!!」


正に悪魔の貴族たる妖気を備えながら口元を歪めるクウォーツに、シンは泣きながら足元の石を彼に投げ付けた。
シンの投げた石はクウォーツの額に強く当たり、皮膚が裂けたのかじわりと赤い血が滲む。
はっと我に返ったアザレグは泣き続けるシンの身体を抱え、残った自警団の男達を連れて大広間から逃げていく。

「……それでいいんだよ。私は悪魔族で、人間とは永遠に交じり合うことのない存在なのだから」


小さくなっていく男達の背を見つめながら微かに呟いた彼の声を、果たして耳にした者はいるのだろうか。
太い柱が幾重にも倒れて大広間を綺麗に二分しており、ギョロイアや他の従者達はあの向こうなのかもしれない。
既に立ち続けているのも限界であった。ゆっくりと目を閉じた彼は、そのまま身体の力を失い倒れていく。
しかし、その身体を優しく受け止める力強い腕があった。


「おぬしのように無茶ばかりする男は、悪魔族だろうが僧侶として見過ごすわけにはいかんよ」


力を失ったクウォーツの身体を背後からしっかりと支えていたのは、柔らかな笑みを浮かべたサキョウであった。
彼の黒い瞳には、悪魔族に対する憎悪は既に消え失せていた。同じ『人間』を見つめる瞳である。

「逃げ……なかったのか?」
「……馬鹿ね」

大きなカーネリアンの瞳を潤ませながら、クウォーツの前まで歩み寄ったリアンは震える声でそれだけ口にした。
きょとんとした顔をしている彼に手を伸ばすと、口元を汚している血をそっと拭ってやる。


「クウォーツ」

落下した木材の破片で擦り剥いたのだろうか。立ち止まったティエルの頬には血が滲んでいた。
クウォーツに伝えたいことが沢山あったはずなのに言葉が出てこない。やっと彼と向かい合うことができたのに。
彼を前にすると色々な思いがティエルの胸を支配する。伝えたい言葉が分からなくなってしまうのだ。

「せっかくクウォーツのこと、町の人達も分かってくれそうだったのに。どうしてあんなことを言ったの……?」


……そんなの、彼に聞かなくても分かっている。
クウォーツがあの場面で男達を脅さなければ、彼らは逃げもせず倒れた柱の下敷きになっていたのかもしれない。

仕方がなかったことなのだと心では分かっていても、それでもティエルは悔しかったのだ。
大粒の涙がぼろぼろと溢れて止まらなかった。こんな涙と鼻水で汚れた顔を彼に見せたかったわけではないのに。


「私のために泣いてくれるのか」

黙ったまま泣き続けているティエルの瞳から溢れる涙を、クウォーツは指で優しくなぞっていく。
泣くことのできない彼が、感情を殆ど失っている彼が、果たしてティエルの涙の意味を理解していたのだろうか。
涙には悲しさや嬉しさだけではなく、色々な感情が込められていることを知っているのだろうか。

「……ありがとう……」

彼の心は誰にも窺い知ることはできなかったけれど。
ゆっくりとティエル達に顔を向けたクウォーツは、誰もが目を奪われてしまうほど優しい笑顔を見せたのだった。





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