Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第5章 君が、微笑んだ夜

第50話 白い花の咲く丘 -1-




静かに目を開けると、ほんの少しだけ開かれていたカーテンの隙間から眩しい朝日が差し込んでいる。

……きっと今日も、いい天気だろう。こんな穏やかな朝を迎えられることを、ティエルは心から幸せに思った。
あまりにも当たり前すぎて普段は気付かないけれど。
身を起こし、寝ぼけた目を擦りながら彼女は大きく伸びをした。隣のベッドではリアンが寝息を立てている。


寝起きのために、頭がまだ働いていないようだ。ぼんやりとした表情でティエルは周囲を見渡してみる。
どこにでもあるような簡素な宿屋の二人部屋であった。ベッドが二つ並び、その間には木製の小さなテーブル。
ぱちりと大きな茶色の瞳を瞬く。段々と思い出してきた。ここはメドフォード関所にある宿屋の一室だった。


二つしかベッドがないということは、恐らくサキョウは隣の部屋だろう。
そこまで思考を巡らせて、ティエルは弾かれたようにベッドから飛び降りる。衝撃で床がぎしりと音を立てた。
スリッパも履かず裸足のままでも構わずに彼女は扉を開けて廊下を走り、隣の部屋へ勢いよく飛び込んだ。

どうか、全てが夢でありませんように。そう願いながらティエルは足を止め、恐る恐る顔を上げて前を向く。


半分ほど開かれた薄緑色のカーテン。差し込む朝日に照らされて、美しくきらきらと輝く青い髪。
忙しない足音に、ベッドの上で上半身を起こしていたクウォーツはゆっくりと振り返り、小首を傾げてみせた。

「早いな」

朝の光で見る白皙の肌は、まるで透き通るようであった。だが殴られたときの内出血の痕が多く残っている。
腫れた左瞼と頬、身体の火傷には薬草を染み込ませたガーゼ、折られた右腕は添え木と共に包帯が巻かれていた。
そして彼の左手の薬指には、ティエルによって嵌められたメビウスの指輪。


「本当に……クウォーツがいる……」


彼の姿を視界に収めた途端、ティエルは全身の力が抜けたようにその場に崩れ落ちる。
そんな様子にクウォーツは相変わらず表情も変えぬまま、私がいては悪いのか、と抑揚のない低い声で呟いた。
ティエルの言葉に隠された意味を理解したのかしていないのか、やがてクウォーツは彼女へ顔を向ける。

「……おはよう、いい朝だな」
「うん。おはよう、クウォーツ!」

挨拶を交わす二人を、いつの間に目が覚めたのか、優しく微笑みながらサキョウが隣のベッドで見守っていた。







ここはメドフォードの関所の中に位置する小さな宿屋だった。
悪夢のようなハイブルグの森の中を暫く進んでいくと、長らく使われた形跡のないワープゲートを発見したのだ。
早速リアンが己の魔力を供給し、一度旅の予定を仕切り直すためにメドフォード関所へ彼女は座標を設定した。

リアン曰くこのワープゲートは、術者が行ったことのある場所にしか転移できない仕組みになっているそうだ。
何故メドフォード関所を選んだのかとティエルが訊ねると、この近辺に大きな港町があるからだと彼女は言った。
本来ティエル達の目的は封魔石を手に入れることだ。より詳しく探るために、船に乗らなくてはならないという。


……しかし自警団の男達から延々と暴行を受けていたクウォーツには、まず暫くの安静が必要だった。
悪魔族は人間よりも自然治癒力が高い。
人間ならば歩けるまでに一ヶ月ほど時間を要する怪我も、悪魔族ならば一週間で歩くまで回復できるというのだ。

幸いにもこの関所には、訪れる旅人のために小さな宿屋と簡易な売店があった。しかし閑散として人気がない。
メドフォード国が平和だった頃はこの関所を訪れる旅人達の姿も多く、もっと賑わっていたのだという。
城が左大臣ゲードルの手に渡ってからは、関所を管理するメドフォード兵士の姿さえ忽然といなくなってしまった。


ティエル達がこの関所の宿に辿り着いてから、早くも七日が過ぎた。
七日前は歩くことすら難しかったクウォーツだが、目に見える速度で回復している。流石悪魔族というところか。

「どうだクウォーツ、身体の調子は」
「右腕は当分使い物にならないが、歩くことは可能だ。明日にでもここを発っても構わない」
「ワシの選んだ薬草の効果は抜群だろう? ……だからといってあまり無理をしてはいかんぞ」


サキョウに問い掛けられ、顔中に貼られているガーゼをべり、と剥がすクウォーツ。
あんなにも痛々しく腫れ上がっていた瞼や頬がすっかり元に戻っているようだ。傷痕一つ残ってはいなかった。
これもサキョウの用意した薬草のお陰だろうか。モンク僧というものは、薬草の知識も深いのかもしれない。

世の中には傷を癒す魔術である、治癒魔法を扱える人物も存在するという。
魔法を扱うためには、生まれ持った魔力と努力が必要だ。更に治癒魔法となると素質が大きく関わってくる。
残念ながらティエルやサキョウは素質どころか魔力すら持っていなかった。


「いよいよ封魔石を探す旅の始まりですわね。とりあえず『サバトの福音』とやらを追ってみましょう」

簡単な朝食を終え、ティエルとリアンはサキョウ達の部屋に集まった。
ベッドに軽く腰掛けたリアンは、ベムジン大僧正であるシグンから入手した封魔石に関する情報を整理する。
悪魔族を神と崇め、信仰する邪教サバトの福音。その大司教ゲマという男の手に封魔石イデアがあるというのだ。


「サバトの福音か……ワシも何回か耳にしたことがある。象徴である地下神殿が海の向こうにあったはずだ」
「胡散臭そうな雰囲気がいたしますわね。とにかく船に乗らなくては始まりませんわ、ねぇティエル?」
「う、うん……」

突然リアンに話を振られ、何かを考え込むような表情を浮かべていたティエルは驚いたように目を瞬いていたが。
やがて意を決して口を開いた。

「あのさ……船に乗る前に、少しだけ行きたい場所があるんだ」
「何だそんなことですの。別に構いませんわよ、どこに行きたいんですの?」


「当分このメドフォードには戻ってこれないと思うし、それなら離れる前にお墓参りに行っておきたいの。
 おばあさまやゴドー達のお墓を国を出る時にこの近くに作ったんだ。勿論中には遺体も何も入っていないけど」

「そうだったのか、ならば早速行こうか。ワシもゴドー兄上に挨拶をしておきたいしなぁ」
「……ごめんなさい、サキョウ。無理を承知で言うんだけどお墓参り……わたし一人で行ってもいいかな」
「一人で!?」

思いもよらぬティエルの発言に、リアンとサキョウは今度こそ驚いた顔で彼女に詰め寄った。

「お前、それは本気で言っているのか?」
「何を言っているんですの、ティエル!?」

「だって今メドフォードの近くは、わたしと一緒にいたらとても危険なんだ。みんなに迷惑掛けたくないの。
 わたしの所為でみんなを危険な目に遭わせたくないの。だからお願い、わたし一人で行かせてほしいんだ」


「一人で行かせるわけにはいきませんわよ。……ティエルは私達の強さを知っているでしょう?
 一緒に行ってたとえ何があろうと、危険なことなんてありませんわ。むしろ一人で行く方が余程危険なのよ」
「リアン」

「私達……そんなに信用ないの?」
「違うのリアン! 信用していないとか、そんな意味じゃなくて……わたしはただ」

カーネリアンの瞳に明らかに寂しげな色を浮かべて、リアンはゆっくりとティエルに歩み寄る。
ふわりと香るいい匂いは、リアンが好んでいる香水の匂いだろうか。彼女にとてもよく似合う柔らかな匂い。
一人で行くと言ったティエルの言葉を完全に誤解してしまったリアンに、彼女は慌てて首を横に振ったが。


「本人がここまで行くと言っているのだから、行かせてやったらどうだ」
一連のやり取りを我関せずといった顔で黙ったままベッドの上で聞いていたクウォーツが、突然口を開いた。

「そこまで止めることもあるまい」


「無責任なことを言わないで下さいな、クウォーツさんは何も事情を知らないからそんな事が言えるんですのよ」
「……無責任とは人聞きが悪い」
「ティエルは一応メドフォードのお姫様だけど、今は追われる身なんですの。どれほど危険か分かるでしょう?」

「大人数でぞろぞろと行く方が目立つのでは」
「そっ……それは……」


感情の浮かばぬ薄い色の瞳に見つめられ、リアンは思わず言葉に詰まった。
そんな彼女からふいと視線を外したクウォーツは、俯いたままスカートの裾を握り締めるティエルへ顔を向ける。

「気を付けてな。護衛用に、私の使い魔を一匹貸してやる」

軽い口笛のようなものを吹いた彼の指先に、小さな蝙蝠が姿を現す。恐らくただの蝙蝠ではないのだろう。
羽を広げてぱたぱたとティエルの元へ飛んでいった蝙蝠は、彼女を守るように周囲を飛び回る。


「小さな蝙蝠って結構可愛いんだね。ありがとう、クウォーツ」
「可愛がってくれよ」

「ううむ……気が進まぬが、ティエルがそこまで言うのならば仕方あるまい。必ず無事に戻ってくるのだぞ?」


無表情で顔を向けるクウォーツと、やれやれと溜息をつくサキョウ。そして未だに納得がいかない顔のリアン。
三人にとびきりの笑顔を向けたティエルは、大きく手を振った。

「それじゃあ行ってきます!」







「……ティエルが行ってしまいましたわ」

彼女が進んで行った道のりを宿の窓から身を乗り出して眺めていたリアンだったが、力なく肩を落とした。
もうここからではティエルの後ろ姿すら確認できなかった。
メドフォードを支配する元大臣ゲードルとやらは、ティエルが生きていることを決して良しとはしないだろう。
捕らえられ、最悪殺されてしまうかもしれない。彼女の強さを信じているが、リアンの不安は拭えなかった。


「信じて待ってやれ。ティエルが戻ってきたとき、お前が笑顔で迎えてやらんでどうするのだ?」
「そうですけど……」

サキョウに優しく肩を叩かれ、リアンは力なく返事を口にする。
このメドフォード関所からならば、ティエルの目的地である石楠花の丘まで一時間もかからないと言っていた。
近いからこそ、ついて行くことのできない現状をリアンは歯痒く思っているのだ。

「……そもそもこんな事態になったのは、クウォーツさんが無責任の上に余計なことを言ったからですわよ」
「私か」
「そうですわ。何もティエルのことを知らないくせに、あなたが後押しするようなことを言ったからじゃない!」


怒りに満ちた表情を隠すこともなくリアンはベッド上のクウォーツまで歩み寄り、ぐっと顔を近付ける。
しかし彼はリアンとは対照的に無表情のまま首を傾げて見せた。


「貴様が怒っている理由が分からない。……ただ私は、ティエルの意志を尊重しただけだ」
「だからそれが無責任だって言っているんですの!」
「彼女には私の使い魔を預けている。何かあれば、そいつが力になってくれるはず」

「なってくれるはず、って……聞き捨てならないですわね。まさか力になってくれないこともあるんですの?」
「いちいちうるさいな」
「うるさい? 今あなた、私のことをうるさいって言いましたわね!?」


「これリアン、いい加減にせんか。怪我人にこれ以上負担をかけてはいかん」
終わる兆しの見えないリアンの一方的な口論に、苦笑を浮かべて見守っていたサキョウが漸く止めに入る。

「うるさいだなんて私に言うような失礼な男は初めてよ。この私の色気が通用しないなんて信じられませんわ」
「……お前の色気とやらは、クウォーツには通用せんと思うぞ。むしろ彼の方が色気があるのではないか……」
「えっ、私は負けたんですの? しかも男に?」


リアンの声とサキョウの笑い声が、宿の一室に響き渡る。
彼らを一瞥したクウォーツは、それから目を細めて窓の外へと視線を向ける。空は、雲一つない天気であった。





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