Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第6章 遠い国から来た青年

第57話 千足の海獣ダゴン -1-




「あんた、止めたいんだろ?」

白髪混じりの茶色の髪に、立派な顎ひげ。彼に声を掛けてきたのは、緑のローブを身に着けた中年の男であった。
自らを町から町を渡り歩く商人だと名乗っていたが、目つきや仕草などが見るからに胡散臭い男だ。
ああ、それなのに何故この男の言葉に耳を傾けてしまったんだろう。都合の良い話に乗ってしまったんだろう。
……甘い話には、必ず裏があるというのに。


「人畜無害ですよっていう偽りの笑顔で誤魔化してもオレには分かる。あんた、あの兄さん二人を止めたいはずだ」


兄さん達に逆らう気なんて思ったこともないと。男の言葉を否定しようとして、ふと否定できない自分に気付く。
男の甘い言葉に乗ってしまったのは、無意識のうちに心の奥底に封じ込めていた思いを言い当てられたからだ。
誰一人として、自分ですら気付くことのなかった思いを言い当てたこの男に僅かな興味を抱いたのかもしれない。

兄達の行動に間違いなんてあるはずがない。兄達の下した決断は、いつでも正しいと無理矢理に思い込んでいた。
お前は何もしなくていいと、ただ黙ってついて来ればいいと。目立つことは決してするなと兄達は言った。
だから彼はいつも微笑んでいるだけだった。二人の兄が、間違った方向に歩んでいくことに気付いていながら。

兄達を止める力を十分に持っていながら、二人に逆らう気を彼は持っていなかったのだから。







ティエルがぱちりと瞳を開くと、黒ずんだ板張りの天井が見えた。
軋む音と揺れ動く部屋。断片的に聞こえてくる波の音。寝ぼけた頭で、漸く船旅の途中だということを思い出す。
狭い船室には二つのベッド。隣では、寝言を口にしながらリアンが寝返りを打っているのが見えた。

変な時間に目が覚めてしまった。もう一度眠りの世界に旅立ちたくとも、冴えてしまった意識がそれを許さない。
暫くの間ごろごろとベッドの上で羊を数えたり、一人しりとりを続けていたが余計に目は冴えていく。
急に寂しさを覚えたティエルは隣のベッドのリアンに顔を向けるが、ぐっすりと深い眠りに落ちているようだ。
彼女を無理矢理に起こし、どうか話し相手になってくれなどと頼めるはずもない。


それにしても狭い部屋だ。二人部屋というより、どちらかというと広めな一人部屋といった方がしっくりとくる。
船旅に広い部屋を求める方が贅沢なのだと初日にリアンが口にしていた。
勿論ティエルに不満はなく、むしろ広すぎる寒々しい部屋よりも狭い部屋の方が落ち着いていて好きなのだ。

だがいくら狭くて好ましい部屋といえども、眠れぬ夜を過ごすのは退屈であった。
気晴らしに甲板でも歩いていれば、そのうち疲れて眠くなるだろう。夜は気温が低くなるとはいえ、まだ暖かい。
身軽な動作でベッドから飛び降りると、ティエルは椅子の背にかけていたお気に入りの赤い外套を軽く羽織った。

リアンを起こさぬようにそっと扉を開け、廊下の様子を探る。
勿論か細い明かりを発する非常灯があるだけで、誰一人歩いていない。時刻は深夜。皆寝静まっているのだろう。
長年潮風に吹かれて変色してしまった木の扉を静かに押しやると、外から涼しい風が入り込んでくる。


「……サキョウ?」


扉の向こうに広がる夜の甲板。こちらに背を向け、海を眺める頼もしくも大きな背中には見覚えがあった。
遠くからでもよく分かる特徴的な背中は間違いなくサキョウである。ティエルの声に、彼はゆっくりと振り返る。


「おお、誰かと思えばティエルか。あまり夜更かししてはいかんぞ。肌にも良くないとリアンが言っておった」

振り返ったサキョウは包み込むような優しい笑顔を浮かべる。
こんな温かい彼の笑顔を見ていると、やはりサキョウとゴドーは兄弟なんだなと、ティエルは改めて思うのだ。


「サキョウこそ、早寝早起きは修行のうちだとか言っていたのに」
「うーむ、それを言われてしまうと辛いが……ワシはお前と違って大人だから、少々の夜更かしは許されるのだ」
「調子いいこと言うんだからー!」
「はっはっは。……まぁ実を言うと、少し一人で考えごとをしたくてな」


快活な笑顔を浮かべていたサキョウであったが、段々とその笑顔がどこか困ったような顔へと変わっていく。


「考えごとって?」
「……ワシはほんのつい最近まで、悪魔族を一人残らず殲滅させるために仲間達と共に修行に励んでおったなと」
「うん……」

「それが今や悪魔族と旅をして、しかも悪魔族と普通に二人部屋で寝泊りしているのだ。
 寝言がうるさい寝相が悪いとクウォーツに言われるが……そんな些細なやり取りが、ワシは楽しいと思った」
「うん」

「逆にあいつは寝言はおろか、寝返りすらせんのだ。あまりにも静か過ぎるのも寂しいと思わんか、ティエル?」
「えー。サキョウみたいに寝言やイビキでうるさいよりも、夜は静かな方がいいよー」


全ての悪魔族を敵視していた頃の自分とは、少しずつ変わってきているのがサキョウ自身にも分かった。
人間に色々な者がいるように、悪魔族にも色々な者がいるということを理解してきたのだ。
しかし決して全ての悪魔族の存在を認めたわけではなく、今はクウォーツ以外の悪魔族を認める気はなかった。


「そういうティエルはどうしたんだ。お前が夜中に出歩くなんて、珍しいこともあるものだ」
「うーん、なんか変な時間に起きたら目が冴えちゃったの。外に出たら少しは眠くなるかなって思ったんだけど」
「慣れぬ船旅だ、眠れぬ夜もあるだろう。……だが夜更かしも程ほどにな」
「はぁい」

ぽん、とティエルの頭に大きく分厚い手を乗せるサキョウ。
彼の手はいつだって温かい。この高い体温に包まれていると、ティエルはどこか穏やかな気持ちを抱くのだ。


「サキョウ」
「ん、なんだ?」
「サキョウがわたしのお父さんだったら……よかったのにな」


ティエルの両親は、彼女がまだ幼い頃に流行り病に罹って亡くなった。そのため二人の顔すら全く覚えていない。
両親についてミランダに尋ねてみても、決まって祖母は困ったような笑顔を浮かべていたのだ。
そんな祖母の様子から、あまり話したくない内容だと幼いながらに察したティエルはそれ以上何も聞かなかった。

祖母ミランダは亡くなった両親の分を補うくらいの愛情を彼女に注いでくれていたが、やはりどこか寂しかった。


「わたしのお父さまとお母さまは、小さな頃に亡くなっているから。どんな人なのかも分からないんだよね」
「それならばこのワシを父と思ってくれて構わぬよ。……とは言っても、ワシはまだ清らかな身体であるが……」
「やったぁサキョウ大好き! ところで、清らかな身体ってどういうこと?」
「な、なんでもない。お前は知らなくてもいいことだ」

サキョウは思わず口を滑らせてしまったようだが、当然ながらティエルには真の意味が伝わらずに済んだようだ。
この場にリアンがいなくて本当に助かったと心から安堵するのであった。


「そろそろ寝るとするか。ティエルもあまり遅くまで起きていてはいかんぞ、せめてベッドには早く戻るのだ」
「はーい」
「明日は七時に食堂で落ち合おう。夜更かしをしすぎて寝坊をしないようにな、ティエル。おやすみ」
「おやすみなさぁい、寝坊なんかしないもん!」


サキョウの言葉にむすっと頬を膨らませたティエルは、笑いながら去っていく彼の後ろ姿を暫く眺めていた。
誰一人歩いていない夜の甲板に静けさが戻り、急に周囲は寂しさに包まれる。
日中はあんなにもきらきらと眩しく光り輝いていた青い海は、今では暗く淀んだ色をしていて飲み込まれそうだ。
改めて海は色々な顔を持っているのだと実感する。


「風に当たりすぎちゃったかな。部屋に戻ろ」

いくらまだ温かい気候だとはいえ、長い間夜の海風に当たり続けていれば身体が冷えてくるのも当然であった。
ぶるっと身震いをしたティエルは手すりから身を離すと船室に続く扉に向かって歩き始める。


……ぺた、ぺちゃ。ぺたん。
波が船体に打ちつける音とは全くかけ離れた、粘着質な音が辺りに響き渡った。思わずティエルの歩みが止まる。
ゆっくりと振り返るが、月の光だけでは薄暗くてよく分からない。しかし決して気のせいではない音だった。

首を傾げながらも歩み寄って行くと、先程まで彼女が握っていた手すりに何かが幾重にも巻き付いているようだ。
まるで生き物の太い触手のようにも見える。海面側から何本もそれが伸び、甲板をずるずると這っていたのだ。
助けを呼ばねばならないのに、得体の知れぬ恐怖のために身体から力が抜けて思わずその場に座り込んでしまう。


甲板に蠢くそれは吸盤のようなものが付着しており、いつか彼女が図鑑で目にした『タコ』を連想させた。
海から浮かび上がり、ティエルの前に姿を現したのは想像していたよりもずっと巨大な魔物。

「だ……誰か来てぇ!」

漸く声が出た。思うように動かない手足を必死に奮い立たせ、半ば這い蹲りながらも触手の群れから身を離す。
魔物は次々と触手を船体に絡み付けてくる。まさか、この船を海に引きずり込むつもりなのだろうか。


「おいどうした、嬢ちゃん!?」
「やっべぇ、出やがったか!」
「急いで船長に伝えるんだ、ヤツのお出ましってな!」

ティエルの悲鳴を耳にして駆けつけてきた見張りの船員達も、海に浮かぶ魔物の姿を目にすると顔色を変えた。
すぐさま松明に火を灯して警報用の鐘を鳴らす。

「今まで何隻もの船がこいつに沈められたんだ。海獣ダゴン、ギルドのハンターですらお手上げの魔物だぜ!!」





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