Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第6章 遠い国から来た青年
第58話 千足の海獣ダゴン -2-
「ダゴン!?」
完全に腰が抜けてしまい、甲板を這い蹲りながら船員達の元まで漸く辿り着いたティエルは勢いよく顔を上げる。
ダゴンとはあの魔物の名前なのだろうか。勿論彼女には聞いたことのない名前だった。
魔物生態学の授業を毎回のように抜け出してばかりいたために、海に魔物が生息していることすら知らなかった。
「巨大なタコにも見えるんだけど、あれってやっぱり魔物なの? 一体何の目的で船を襲っているの?」
「あれが単なるタコに見えるってのかい、千本以上も手足があるタコなんていねぇよ嬢ちゃん!」
「千足の海獣ダゴン……ヤツの触手に捕まったら海に引きずり込まれて、二度と浮かび上がってこれねぇぞ……」
「おい、とっとと早く武器庫からサーベル持ってこい!」
どこか暢気なティエルの声とは裏腹に、船員達の声は完全に焦りを帯びていた。
彼らはダゴンの恐ろしさをよく知っているのだろう。数名の船員が武器を確保するために船室へと戻っていく。
その場に取り残されたような形になってしまったティエルともう一人の船員を、ダゴンは獲物と認めたようだ。
吸盤の付いた数本の触手が容赦なく二人に向かって突っ込んでくる。
「うわぁっ、どうしようこっちに突っ込んできた!?」
「ぼさっとしてんな、嬢ちゃん危ねえぞ!」
慌てて船員はティエルを後方へと突き飛ばし、己もごろごろと甲板を転がっていった。
咄嗟のことで力の加減ができていなかったのだろう。積まれていた木箱に背中を思い切り打ち付けたティエル。
しかし悠長に転がっている場合ではないことくらい理解している。身を起こすと、再び数本の触手が襲ってくる。
「早く部屋に戻ってリアン達に知らせなくちゃ……!」
竜鱗の剣は船室に置いてきてしまっている。
ほぼ反射神経のみで触手の一撃を何とか避けると、ティエルは四つん這いになりながらも船室へと進んで行った。
甲板には生臭い触手がびたびたと蠢いており、それらを越えなければ船室には辿り着けそうもない。
その時。
途方に暮れるティエルの目前に、クウォーツがドレスコートの裾をはためかせながら身軽に飛び下りてきたのだ。
彼は部屋にいたのではなかったのか。それともダゴンの殺気をいち早く察知して駆けつけてくれたのだろうか。
「腰が抜けているように見えるが」
「こ……腰なんか抜けてないよ。単なるクウォーツの気のせいです! ほんの少しだけ驚いただけなんだから」
無表情で首を傾げてみせるクウォーツを目にしただけでティエルは勇気を貰い、段々と恐怖が和らいでくる。
「あのね、魔物が襲ってきてるんだ。このままじゃ船が沈められちゃうかもしれないんだって」
「海の魔物か。初めて目にする」
「うん、わたしも。ちょっとタコに似てるよねぇ……って、そんな会話をしている場合じゃないの!」
「お前は早く武器を取りに戻れ」
船室をひょいと指し示すクウォーツ。そんな彼の背に、数本の触手が突っ込んでくるのがティエルの瞳に映る。
危ないと彼女が声を上げるよりも早く、クウォーツは右腕を固定していた包帯と添え木を素早く地に投げ捨てた。
虚空に伸ばした彼の左手の先に赤い妖気が集い、それは美しい薔薇の装飾が施された長剣へと姿を変える。
背後すら振り返らず、ほぼ気配だけを頼りにクウォーツは己に向かってきた触手を一本残らず斬り落としたのだ。
療養のために暫く剣を握っていなかった彼であったが、研ぎ澄まされた剣技は全く鈍っていない。
ぼとぼとと斬り落とされた太い触手は暫く甲板の上で蠢いていたが、やがて完全に力尽きたのか動かなくなった。
「……クウォーツ、もう腕の調子は大丈夫なの?」
ティエルの問い掛けに、クウォーツは言葉を発することもなく軽く頷いて見せる。
ぼうっと突っ立ったままの彼女を急かすように、彼は再び親指で船室を指し示した。早く行けという意味だろう。
我に返ったティエルは慌てて駆け出し、落とされた触手を避けながら船室へと向かった。
突如あちこちから悲鳴が上がり、この騒ぎに漸く気付いた他の乗客達が次々と甲板へ飛び出してきているようだ。
その中でも一際目立つハニーシアンの髪と大柄な男を発見したティエルは、声を振り絞って彼女達の名を呼ぶ。
「リアン、サキョウ!」
「……ティエル、そこにいましたの!? 竜鱗の剣を持ってきましたわよ!」
ティエルの姿を瞳に映したリアンは、両腕で竜鱗の剣を重そうに抱え込みながらふらふらと駆け寄ってくる。
魔法を主力とする彼女は非力だ。竜鱗の剣は、力の強いティエルだからこそ片手で扱うことのできる大剣なのだ。
「それにしても、なかなか厄介な魔物と遭遇してしまいましたわね。本当に私って運が悪いですわぁ」
「船体に敵の触手が絡み付いていると、お前の得意な魔法も使えぬだろうしな」
「乗客達が邪魔なんですのよ。まぁ生きるか死ぬかの戦いに、他人のことなんて考える余裕はないですけどね」
冗談か本気か分からないようなことを呟いているリアン。
若干危険な目つきをしている彼女から、ひょいと竜鱗の剣を受け取ったティエルは、勢いよく鞘から抜き放った。
「とにかく早く魔物を倒さなきゃ、船ごと海に引きずり込まれちゃうよ」
「しかし相手はタコのような軟体生物だ。果たしてワシの拳が効くかどうか……よし、いっちょやってみるか!」
「うん!」
力強く両の拳を握りしめたサキョウと、竜鱗の剣を手にしたティエルは頷き合うとダゴンに向かって走り始める。
触手に捕まった乗客の何名かは、既に海の中に引きずり込まれているようだ。残念だがもう助からないだろう。
幸い乗客の中にはハンターを生業としている者達もおり、サーベルを手にした船員と共に戦いを繰り広げている。
「……さぁて、私はどうしようかしら。ぬるぬるした生物って苦手なんですのよぉ」
「口を動かす余裕があるのなら早く行け」
走っていくティエル達の後ろ姿をぼんやりと眺めていたリアンの背後から、感情の省かれた静かな声が響いた。
振り返ると、細い手すりの上に音もなく立っていたクウォーツが薄い色の瞳でこちらを見下ろしている。
せっかく良い声をしているのに無感情では勿体無いと思うが、意地っ張りなリアンがそれを伝えるはずがない。
「だったらクウォーツさんが私の分まで頑張ればいいじゃない。あなた一応戦えるんでしょう」
「私は病み上がりでね」
「都合のいい時だけそう言うんですから……ところでクウォーツさん、たこ焼きを食べたことがありまして?」
「?」
リアンの問い掛けに、クウォーツは薄青の瞳をぱちりと瞬いて首を傾げて見せる。
面白いほど予想通りの態度を返してくれる。大好物だと言われてもこちらが困惑するだけなので、それでいい。
たこ焼きが大好物のクウォーツなど……それはそれで、親しみやすくて案外良いのかもしれないとリアンは思う。
「サキョウの故郷エルキドの料理なんですのよ。ダゴンで作ったら、どれくらいたこ焼きが作れるかしらね」
「こんな時まで食い物の話か」
「緊張を解そうと言っているんですの! あなたって本当にユーモアがないんですのね、つまらない男ですわ」
クウォーツから返事は発せられなかった。
それを気に留めることもなくリアンは右往左往する乗客達をかき分けて、ダゴンの元まで注意深く進んでいく。
高く掲げたロッドの先に火炎の魔力が集っていき、ぴたりと狙いを魔物に定めた。
「想像以上に大きいですわね、私の魔法でたこ焼きにできるかしら? ……くらいなさい、メギドフレア!!」
ロッドの先から灼熱の炎が飛び出し、ダゴンの身体を包み込む。
しかし船に燃え移らないように手加減された魔法の炎は、数本の触手を焦がしただけで終わってしまったようだ。
触手に捕らえられた乗客達の悲鳴があちこちから響き渡っている。このままでは船が沈むのも時間の問題だ。
「……私の魔法が全然効いていないじゃないですの」
「ワシの拳や蹴りも効いていないようであったぞ。まるでゴムを殴りつけたような感触であった」
戦えずパニックを起こしている乗客達を船室に避難をさせてきたサキョウが、慌ててリアンの元へと駆けつける。
民間人をこの場に残しているのはあまりにも危険である。さすが常に第一線で戦い続けてきた僧兵の判断だ。
「今はティエルや船員、ハンター達が奴の触手を何とか食い止めてはいるが……非常にまずい状態だ」
「サキョウ、上から来ていますわ!」
「うおっ!?」
立ち止まって会話を続ける二人の頭上から、十数本の触手が突っ込んでくる。
その瞬間。風を切る音と共に赤い閃光が幾重にも煌き、次々と太い触手が斬り落とされて甲板に落下していった。
突然のことで目を丸くしているリアンとサキョウの横を、風の速度で駆け抜けて行ったのはクウォーツである。
……彼の目標は触手ではなく、ダゴン本体であった。
無限にある触手をいくら斬り捨てても本体にとっては致命傷にならない。それならば本体を叩きのめすのみだ。
地面を蹴った彼は凄まじいほどの跳躍で、数メートルの高さはあろうかと思われるダゴンの頭部まで跳び上がる。
そのままダゴンの眉間に妖刀幻夢を深々と突き刺し、落下の力を利用しながら頭部の三分の一ほどを斬り落とす。
飛び散る緑色の血飛沫。ダゴンの大きな肉片が、べちゃりと音を立てて甲板へ張り付いた。
声にならない唸り声を上げている魔物の様子から、効果があったようだ。しかし致命傷には至っていない。
「おおっ、効いているようだぞ!」
「頭を狙えば良かったんですのね。……クウォーツさんったら滅茶苦茶元気じゃない、何が病み上がりよ」
「うわぁっ!」
太い触手に弾かれて、ティエルは勢いよく木箱まで吹っ飛ばされる。これで一体何回目の激突になるのだろうか。
ダゴンの触手は斬り落としても斬り落としても減る様子を見せない。さすがは千足の海獣と呼ばれるだけはある。
疲れを覚えてきた彼女は、荒い息をつきながらもふらふらと立ち上がった。
サーベルを片手に苦戦を続けている船員達、剣や槍、斧を手にしたハンター達の姿が目に映る。
前方では勇敢にも直接ダゴンの本体に斬りかかっている男達の姿も見える。しかしあまり効いてはいないようだ。
ダゴンが暴れると船は大きく傾き、どっと海水が流れ込んでくる。……この状況はまずい。
竜鱗の剣を握り直して駆け出すティエルだったが、突如前方で戦っていたハンター達の姿が忽然と消えてしまう。
「えっ……?」
なかなか思うように船が沈められないことに怒りを覚えたダゴンが、ハンター達を触手で絡め取っていたのだ。
締め付けてくる触手に苦しみの声を上げる男達。彼らの落とした武器がティエルの周囲へと落下する。
「……ど、どうしよう……どうすればいいの!?」
一刻も早く彼らを救出しなければならない。
しかしあの高さに吊り上げられてしまっては、ティエルにはどうすることもできないのが現状であった。
頭上からぼたぼたと流れ落ちてくる液体は海水か。いや、赤い液体も混じっている。吊り上げられた彼らの血だ。
「このままだと吊り上げられた人達、全員絞め殺されますわよ!」
「リアン! よかった、無事だったんだ」
「ええ、けれど捕まった人達を助けるのは難しいですわ。私の魔法だと彼らも巻き添えにしてしまいますし……」
足首まで浸水してきた海水を飛ばしながら、ティエルの元へと駆け寄ってきたのはロッドを握るリアンであった。
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