Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第6章 遠い国から来た青年

第59話 千足の海獣ダゴン -3-




「ダゴンが一体何の目的でこの船を襲っているのか分からないけど……早く何とかしないと船が沈んじゃうよ!」


唇を噛み締めるティエルの瞳の先には、吊り上げられた船員やハンターを助けようとしているサキョウ達の姿。
大きな黒の帽子を被った筋骨逞しい男は船長だろうか。捕まった船員達に対して必死に呼びかけていた。
触手を掴んだサキョウはその怪力に任せて引き千切ろうとしているが、ただゴムのように長く伸びるだけである。

為すすべもなくその様子を見守っていたティエルとリアンの元にも、彼女達を絞め殺そうと触手が襲ってきた。
咄嗟にティエルを逃がすために突き飛ばしたリアンだが、彼女自身は海水に足を取られて派手に転倒してしまう。
そんな隙を触手が見逃してくれるはずがなく、数本が彼女に絡み付くと勢いよく宙へと持ち上げられた。


「きゃーっ、ぬるぬるして気持ち悪いですわぁ!」

生死が係っているというのに、どこかずれているようなリアンの悲鳴である。
触手から抜け出そうと必死に抵抗する彼女であったが、勿論びくともしない。サキョウの力でも無理だったのだ。


「リアン、動かないで。今助けるから!」
「早めにお願いしますわ……私、こういう軟体生物が苦手なんですの……」
「わたしだって得意じゃないよ!」

剣を振り上げながらリアンへ向かっていくが、そうはさせまいと前方から新たな触手が数本突っ込んでくる。
身をかがめて触手の攻撃をかわす。しかしリアンとの距離が大分開いてしまったようだ。
振り返ると、サキョウや船長も両手両足を巻き付かれている。あちこちから乗客達の苦痛の声が上がっていた。

次々と自由を奪われていく仲間達に視線を走らせていると、音もなくクウォーツが背後に降り立った。
頼れるのはもうクウォーツしかいないのだ。ごくりと固唾を飲み込み、ティエルは彼と背中合わせに剣を構える。


「クウォーツ、怪我はしてない?」
「ああ」
「わたしはどうしたらいい? どうしたらリアン達を助けられるの? どうしたらダゴンを倒すことができるの?」

「お前が望むのなら」
「え?」
「お前が望むのならば、捕まった奴等もろとも一撃で葬り去ってもいい」
「……!」

これは明らかに冗談ではない。彼は本気でそう言っている。そして、本当に皆殺しにすることが可能なのだろう。
目を見開いて振り返ったティエルを、首を傾げたクウォーツが感情のない硝子玉のような瞳で見つめていた。
魔物もろとも全員葬り去ることに対して、何の感情も抱いていないのだ。……ほんの少しだけ、彼が怖かった。


「だ、駄目だよクウォーツ。そんなことはしないで!」
「何故? ……ああ、そうか。心配するな、皆殺しといえどもあいつらだけは助けてやる」


彼がちらりと視線をやった先には、捕らえられているサキョウとリアンの姿。

周囲に毒々しい赤色をした妖気が渦巻き始める。一目で強力な、そして不吉な魔法だとティエルにも理解ができた。
クウォーツが低く呟く詠唱と共に、魔力は彼が手にした剣を包み込んでいく。
確かに彼の言うことは間違ってはいない。少数を犠牲にすれば、この船と乗客達を守り抜くことができるのだ。
けれど、できればその方法は避けたかった。

触手に巻き付かれ、苦しみの声を上げる者達。
早くに捕らえられた数人のハンター達の中には、既にぐったりと動かなくなってしまった者もいるようだった。


「クウォーツ、危ない!」


その時、ティエルとクウォーツを狙って触手が襲ってくる。……悩んでいる時間を魔物は与えてくれなかった。
彼が殺気に気付いていないはずがないのに。そのまま動かずにじっとしていれば、二人とも逃れられたのに。
それでもティエルの身体は意思とは無関係に動いていた。クウォーツを守ろうと咄嗟に前へ飛び出してしまう。

ティエルの声よりも早くに襲撃を察知していたクウォーツは、既に触手に向けて剣を振り下ろそうとしていた。
だが彼女が妖刀幻夢の剣先に飛び出してしまったために、クウォーツの動きがぴたりと止まる。

その隙を突いて彼の両腕や身体に次々と触手が絡み付いた。他の乗客達と比べて執拗な束縛の仕方であった。
己の命を脅かす最も危険な存在だと、恐らくダゴンの方もクウォーツを危険視しているのだろう。


(どうしよう、わたしのせいだ……!)

サキョウやリアン、そして頼みの綱であったクウォーツも動きを封じられてしまった。
焦ってはいけないと己を宥めつつ、ティエルは一人立ち尽くす。先に仲間を助けるべきか、倒す方法を考えるか。
しかしいい案など浮かんではこない。仲間を助ける力も、ダゴンを倒すほどの力も彼女は持ってはいなかった。


彼女が立ち尽くしている間も攻撃を緩めてくれるはずがなく、触手を手すりに絡み付けて船体へよじ登ってくる。
その衝撃で、船がぐらりと大きく傾いた。
思わずバランスを崩して甲板を転がったティエルの前に、頭部を削り取られたままのダゴンの大きな顔があった。
足元は膝近くまで浸水している。大量の海水が流れ込んできているようだ。

「まずい……っ!」

慌ててサキョウ達の元へと駆け寄ろうとするが、逆流する海水と傾いた船体で思うように前へと進めない。
水を大量に飲み込んでしまったティエルは、咳と共に海水を吐き出した。このままでは間違いなくみんな殺される。
触手によって全身の骨を砕かれ、凄惨な表情を浮かべたハンターの死体がぼたぼたと落下してくるのが映った。


「やめて……」
漸くか細い声が出た。周囲の轟音で、あっけなくかき消されてしまうほどの声であったが。

「やめてぇぇええっ!!」


「……ああ、もう。随分と派手に暴れ回ってくれるね。うるさくて昼寝の時間が台無しだよ」

この緊迫した場に到底相応しいとはいえないような、のんびりとした柔らかい声が辺りに響き渡った。
男にしては若干高く、女にしては若干低い。そんな声である。
あんなにも力の限りに叫んだティエルの声は轟音でかき消されてしまっていたのに、何故この声は響き渡るのか。

いつの間にかダゴンの周囲を、美しい虹色をした巨大な魔法陣が取り囲んでいるではないか。
魔法陣の中では身動きが取れないのか、ダゴンは苦しげな様子で蠢いている。虹色の魔法陣など見たことがない。


「一体何が起こったの……?」

状況の把握ができずにぱちぱちと目を瞬いているティエルの前に、淡くおぼろげな虹色の光が集っていく。
光の粒子は段々と人の形を作り上げ、一人の青年が姿を現した。

太陽の色を帯びた、透き通るような白い髪。晴れ渡った青空をそのまま数滴落としたようなスカイブルーの瞳。
優しげな瞳の中には、修羅と慈愛双方を抱え込んでいるようにも見えた。額には青い札。全身に彫られた刺青。
美しく整った顔立ちをしているが、見たこともない文化を漂わせた青年だ。


「あなた達のお陰で目が冴えてしまったよ。自分で言うのもなんだけど、ぼくは寝起きがあまり良くないんだ」


呆然とした皆の視線が青年に集中しているが、当の本人は何処吹く風である。かなりマイペースな性格のようだ。
一つ大きなあくびをしてから、彼は虹色に光り輝く分厚い本をぺらぺらと捲り始める。
この青年が身に着けている衣装、そして珍しい形のピアスやアンクレットは、遠い異国の民族衣装を連想させた。


「……海獣ダゴン、カリュブディスのペットだね。このまま大人しく海の底に戻るのなら、見逃してもいいよ」

実に穏やかに。
優しげな口調でそう言った彼は、ダゴンに向かってにっこりと笑ってみせた。満面の笑みなのに恐怖を感じる。
好青年の仮面の裏には恐ろしい素顔があるのではないかと、この場にいる誰もが思った。


「あら、なかなかいい男ですわね。少し変な人ですけど」
「あの青年が何者かは知らぬが、もしかしたら彼はワシらを助けてくれようとしているのかもしれぬぞ」

青年の端正な容姿を目にしたリアンが嬉しそうに呟いた。こんな状況の中で、随分と余裕である。
そんな彼女の隣では、触手に巻き付かれたままのサキョウが固唾を飲み込んで事の成り行きを見守っている。


「さぁ、海にお帰り」

青年が右手を上げると、ダゴンを拘束していた虹色の魔法陣は音もなく消え失せてしまう。
自由を取り戻した魔物は暫く白髪の青年を眺めていたが、やがて触手を引っ込めるとずぶずぶと海へ沈んでいく。
それを確認した彼は、満足そうに微笑むと虹色に輝く本を閉じた。

「もう二度とぼくの昼寝を邪魔しないでくれよ」


その時。海に戻ると見せかけて、ダゴンは数十本の触手を青年に向かって勢いよく伸ばしたのだ。
しかし彼は目を細めただけで動こうとはしなかった。あーあ、と半ば投げやりのような溜息をつくだけである。
ダゴンの伸ばした触手は全て、青年の前に突如現れた虹色の魔法陣にあっけなく弾き返されてしまったのだ。

「万が一を考えて、二つほど極陣を仕掛けておいて正解だったなぁ。一つはこの障壁陣と、もう一つは……」

困惑するダゴンの周囲に、虹の魔法陣が出現する。難解な模様の描かれたそれは光を発しながら回転を始めた。
それから彼は、まるで天使のような優しい笑顔を浮かべながら指を鳴らす。ダゴンにとって正に死の合図である。


「……残念だけど、さよなら」


巨大な風船が破裂するような凄まじい衝撃と音が鳴り響き、ティエル達は思わず目を見開く。
先程まで目の前に浮かんでいたダゴンの巨大な姿は忽然と消え失せ、その代わりに肉片が辺りに散らばっていた。
緑の液体に塗れた大小様々な形をした生臭い肉片は、間違いなくダゴンだったものの残骸である。


「すごい魔法……!」
肉片がダゴンのものだと漸く理解したティエルは、退屈そうに大きなあくびをしている白髪の青年を振り返った。

「あなたは一体誰なの? 急に現れたように見えたけど、もしかしてこの船に最初から乗っていたの……?」


「ああ、驚かせちゃってごめんね。船には乗ってないよ。ぼくはこの海域から出ることのできない身だからね」
「じゃあ一体どこから来たの?」
「どこって……まぁ強いて言うなら海の底から、かな」
「海の底!?」

爽やかな好青年の顔をした彼はティエルに柔らかく笑いかける。
老人の白髪とは大きく異なり、まるで光の糸のような見事な白い髪だ。とても不思議な雰囲気を持つ青年である。

「……うん。ぼくはこのホエールズシュライン海域の底に沈む、カリュブディス神殿から来たんだよ」





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