Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第6章 遠い国から来た青年

第60話 カリュブディス神殿 -1-




「ぼくはこのホエールズシュライン海域の底に沈む、カリュブディス神殿から来たんだよ」


緊張感がまるでない表情のまま、彼は事も無げに信じられないようなことを言った。
海の底に沈む古の神殿。そういった神話に思いを馳せてみるのも、冒険者にとっては大変ロマンがあるだろう。
しかし現実に存在していると信じきっているわけではない。所詮は人々の作り上げた単なる絵空事であった。

そんな人々の絵空事を、この目の前に立っている白い髪の青年は恰も現実であるかのように言ってみせたのだ。
本来であれば、何を言っているんだ、正気か、と皆に笑い飛ばされていただろう。
だがこの青年は確かに突然姿を現した。彼の持つどこかミステリアスな雰囲気が、その言葉を真実だと思わせる。

触手から解放された船員やハンター達は皆揃って緊迫した表情を崩さず、誰一人笑い出す者はいなかった。
ダゴンから命を救ってくれた人物とはいえ、彼は謎めいた部分が多すぎる。異国の死神のようにも思えてしまう。


「あれ、やだなー。皆の視線が怖いなぁ。ぼくってそんなに怪しい人物に見える?」


やけに明るく間延びした声が、静かな甲板に響き渡った。乗客達はその場で固まったかのように動こうとしない。
さあダゴンの次はあなた達の死ぬ番だよと、いつ彼の口から飛び出すのか気が気でないのだ。
警戒するような皆の視線を受け止めて青年は苦笑を浮かべる。とても魅力的な笑顔だが、やはりどこか恐ろしい。


「信用してもらわなくても結構だけどね。信用されるのも面倒くさいし、第一それで何が得られるのって話だし」

穏やかで優しげな口調に反して、随分と辛辣な言葉であった。
にこにこと悪びれもなく笑顔を浮かべたままであるがゆえに、どうしても彼に対して恐怖を抱いてしまうのだ。


「そもそもぼくはあなた達を助けたわけではないよ。ダゴンに昼寝を邪魔されて、少し腹が立っただけなんだ」
「うわぁ……なかなかいい性格をしていますわねぇ」
「そこのあなた、聞こえているよ」

思わず口に出してしまったリアンの呟きに、青年は笑顔を崩さぬまま振り返る。
彼の耳に入るほどそこまで大きな声を出していなかったのにと、リアンの表情がぎくりと凍り付いた。


「まぁどう思われようと全く構わないけど。……それじゃあ、ぼくはこれで。遠慮なく航海を続けてくれたまえ」
「……待って!」


興味など微塵もなさそうにくるりと乗客達を見回してから、彼は穏やかな笑みを口元に浮かべながら歩き始める。
そんな青年の背に向けて、突如少女の高い声が投げ掛けられた。
ゆっくりと立ち止まり、それから実に面倒くさそうに振り返る白髪の青年。視線の先にはティエルが立っていた。


「何か用かい? できるだけ用件は手短にお願いするよ。あまり長居をしているとカリュブディスがうるさいから」
「パンドラの箱って本当にあるの?」

突如ざわめく周囲。ティエルの台詞を耳にした一部の乗客達が、顔を見合わせながら何かを呟いているようだ。
聞き覚えのない単語にサキョウは首を傾げているが、隣のリアンは、思い出したようにああと手を打つ。


「パンドラの箱のお話なら私も聞きましたわ。このホエールズシュライン海域の底に眠る秘宝のことですわよね」
「ほう、そんなものがあるのか」
「言い伝えでは確か箱を開けた者の願いを一つだけ叶えてくれるという……まぁ単なるおとぎ話でしょうけれど」


航海初日に声を掛けてきた(ナンパとも言うが)若い男性二人組から聞いた、この海域にまつわる伝承である。
好奇心旺盛なティエルは興味深そうに話に聞き入っていたが、リアンは半ば聞き流していた。
伝承は時間が経過していくにつれて尾ひれが付いていく。願いを一つだけ叶えてくれるなど、話がうますぎるのだ。


「えっと、もう一度言ってほしいな。……聞き間違いかなぁ。パンドラの箱って聞こえたけど」
「聞き間違いじゃないよ。願いを一つ叶えてくれるパンドラの箱について、あなた知っているんじゃないかって」
「……」

半ば強引に誤魔化そうとしていた青年であったが、ティエルは一歩も引かなかった。
彼からすっと笑みが消え、晴れ渡った青空のような色をした瞳でティエルを見つめる。それでも彼女は怯まない。
もしも一つだけ願いを叶えてくれる伝承が真実なのだとしたら、何が何でも手に入れたい。そんな気迫があった。

祖国を奪ったヴェリオル達への復讐や、殺された祖母達を生き返らせることも可能なのかもしれないのだ。


「……知らないわけじゃないよ」
「本当!?」
「確かにパンドラの箱は、神殿に存在している。箱を開けた者の願いを一つだけ叶えてくれる秘宝だ」
「わたし、どうしてもそれが必要なの! 図々しいお願いだって分かっているけど、そこまで連れて行って!」


「図々しいお願いだとあなたは自分でも理解しているじゃないか。それってぼくには何の得もないお願いだよね」
「……命が惜しければ、言うとおりにした方が身のためだ」

はは、と軽く笑った青年は片手を上げながらティエルに背を向けようとするが、その喉元に赤い刃が向けられる。
表情がすとんと抜け落ちた、人形を連想させる顔で前に立ちはだかっていたのはクウォーツであった。
クウォーツに剣を向けられても彼は動じることもなく、貼り付いたような笑顔を浮かべたまま目を細めてみせた。


「もしかして脅してる? ……おや、随分と美しい容姿をしたエルフ族の青年だね。本当にエルフ族なのかな?」


その先を続けることはせずに、彼は瞳を瞬きながらティエルとクウォーツを交互に見比べていた。
クウォーツが悪魔族だと明らかに気付いている。人間と悪魔族が共に行動していることに興味を引かれたようだ。
黙ったまま暫く青年は思案する表情を浮かべていたが、やがて静かに口を開いた。


「珍しい組み合わせもあるものだね、少しだけあなた達に興味が湧いてきたよ。けど、案内するには条件がある」
「条件!? わたしの力でできることなら、何でもやるよ!」

「それなら遠慮なく言うね。……神殿の王であるカリュブディスを、ぼくと一緒に倒してほしいんだ」


事も無げに、大層な条件を出されたような気がする。
条件の重大性を理解できないでいるティエルは思わず頷きそうになるが、慌ててリアンとサキョウが間に入った。

「え? えっ?」
「ティエルは黙っているのだ!」
「王様を倒せって……あまりにも無茶苦茶な条件じゃないですの! むしろあなたが倒せばいいんじゃない?」
「おぬしはダゴンを一撃で倒せるほど強いではないか。おぬしが倒せない相手ならば、ワシらには無理だぞ……」


口々に捲くし立てながら詰め寄ってくるリアンとサキョウの姿に半ば気圧され、苦笑を浮かべる白髪の青年。

「……うん、そうは言ってもさ。海王カリュブディスは先程のダゴンのようなペットを何匹も飼っているんだ。
 相手は複数だし、ぼく一人であいつを相手にするのはなかなか難しい。だから協力してほしいと思ってる」


「おい、どうするのだ? そのパンドラの箱とやらを手に入れるためには、海王を倒さねばならんらしいぞ」
「けれどこんなチャンスは二度とないですわよ。秘宝の中にはもっと役立つものが沢山あるかもしれませんし!」
「ありえない話ではないな……お前の探している封魔石の代わりになるような、強大な宝があるかもしれぬ」


「答えは出たのかい? まぁ無理にとは言わないよ、あなた達の自由に決めてくれ」
「……白髪のおにいさん」
「おや、決まったのかな」

のんびりと口にした白髪の青年の前に、唇を噛み締めたティエルが歩み寄って行った。
声を潜めて相談を続けていたリアンとサキョウは、そこで漸く青年に歩み寄って行く彼女の姿に気付いたようだ。


「分かった、一緒に海王を倒そう。わたしじゃ役には立たないかもしれないけど、精一杯頑張るから」


じっと真剣にこちらを見つめてくるティエルの瞳を、青年は試すようにして静かに見つめ返す。
先程までの彼の雰囲気からは一変して厳しい瞳だ。一瞬でも瞳を逸らせば、連れて行くのを断るつもりであった。
しかしティエルは目を逸らさない。決して揺らがない意志のようなものが彼女の瞳には色付いていた。

少女が持つにはあまりにも不釣合いな決意の色。それを感じ取った青年は、厳しい表情をふっと和らげる。


「……あなたの決意、確かに受け取ったよ。あなた達をカリュブディス神殿へと案内しよう」
「ほんと!? ありがとう、白髪のおにいさん!」

それは貼り付けたような笑顔ではなく、青年が心から浮かべた笑顔であった。
男にも女にも決して浮かべることのできない、きっと彼にしか浮かべることのできない不思議な笑顔であった。
暫くその笑顔をぼうっと眺めていたティエルであったが、慌てて我に返ると青年に頭を下げる。


「わたし、足手まといにならないように頑張るから! ……あ、そういえば」
「なんだい?」
「あなたのお名前、まだ聞いていなかった。いつまでも白髪のおにいさんって呼ぶのも何だか失礼な気がするし」

ティエルに問い掛けられて青年はほんの少しだけ目を瞬き、ああそうだったね、と口にした。
彼が動くたびに、からんと軽やかに鳴る鈴。よく見ると身に着けている青の衣装には細かい刺繍が施されていた。
笑顔はどこか幼く見えるが、大人びた穏やかな表情を浮かべる瞬間もある、とても心惹かれるような青年である。


「ぼくの名前はジハード。少しの間だけど、よろしくね」


「こちらこそよろしくね、わたしはティエル!」
「私はリアンですわ。変な人ですけど、見た目はなかなか美青年ですし……海王退治、付き合ってあげますわ」
「そしてワシはサキョウだ。あの青い髪の若者はクウォーツというが、いつもあのような態度だから気にするな」

ジハードと名乗った青年に簡単な自己紹介をする面々であったが、やはり一人クウォーツは素知らぬ顔であった。
その様子を目にしたサキョウは、やれやれとした様子でフォローを入れる。
顔すら向けないクウォーツの無関心さにもジハードは気に留めることもなく、手すりに向かって進んで行った。


「それじゃ、カリュブディス神殿へのゲートを作るから。覚悟が決まったら飛び込んでおいで」

彼が虚空に向けて指を走らせると、虹色の魔法陣が姿を現す。魔法陣の向こうはカリュブディス神殿なのだろうか。
薄いヴェールのような膜が張っており、残念ながら様子を窺い知ることができない。
ぽん、と軽快に地面を蹴ったジハードは手すりの上に着地すると、そのまま魔法陣の向こうへと姿を消した。


「待って、わたしも行くよ!」
「この魔法陣、飛び込んだらすり抜けて海に落ちないでしょうね……」

慌ててジハードの後を追って魔法陣に飛び込んだティエルと、恐々覗き込むようにして足を踏み入れるリアン。
幸いにもすり抜けている様子はない。しかし三人が消えた魔法陣を眺め、サキョウは青い顔で震えていた。
手すりに捕まったまま、なかなか柵を越えることができないでいるようだ。


「行かないのか」
「……あのなクウォーツ、実はワシは泳げないのだ。もしも魔法陣をすり抜けてしまったらどうしようかと……」
「いいからさっさと行け」

「うおっ!? のわああぁぁぁぁ……」

いつまでも巨体を丸めて手すりにしがみ付くサキョウを、クウォーツは魔法陣に向かってあっさりと蹴り落とす。
そのまま彼も魔法陣の向こうへと消え、残ったのは状況を飲み込めないまま唖然としている乗客達だけであった。





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