Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第6章 遠い国から来た青年
第63話 怪魚ペグパウラー
「……カリュブディス様、お楽しみの最中失礼いたします」
神殿の最奥。赤く分厚い緞帳を捲り上げると、そこは神殿を統べる海王カリュブディスの寝室である。
警備担当の一人だと思われる腰に剣を携えた一人の魚人が、先程の台詞を焦りと共に口にしながら恭しく跪いた。
部屋中に敷き詰められる青みを帯びた美しい布は、数年前にとある商船を襲った時に入手した珍しい織物だった。
明らかに人間と分かる女達を侍らせ、柔らかな織物の上で寝そべっているのは一人の男。
深い茶の髪に太い眉。他人を小ばかにしたような薄い唇。がっちりとした巨体を包んでいるのは青い鱗だった。
耳のあるべき場所には魚の鰭。そして形よく整えられた口髭の下からは、生臭い息が絶えず吐き出されていた。
……この者こそ、海王カリュブディスである。
カリュブディスが空のグラスを差し出すと、怯えきった表情を浮かべた女が震える手付きで緑色の液体を注ぐ。
海底で百五十年もの間寝かせ続けたとびきり上等なワインである。カリュブディスのお気に入りの酒の一つだ。
上機嫌でワインを眺めていたカリュブディスであったが、部下の来訪に太い眉を不機嫌そうに顰めてみせた。
「騒々しいな。オレが寝室で休んでいる時は報告などいらぬと言っていただろうが」
「……ですが、カリュブディス様のお耳に入れないわけにはいきませんので」
「何だ? 報告しろ」
「ジハードが人間達を数名カリュブディス神殿に連れ込んで、好からぬ事を企てている様子です。
向かった見張りが既に何名か始末されており、奴らはどうやら……真っ直ぐにこちらへ向かって来ています」
「ほほう、これは面白い。オレに牙を向けるかジハードよ」
魚人兵士の報告を聞き、さも嬉しくてたまらないと言わんばかりに口元を醜く歪めるカリュブディス。
傍らの木箱から葉巻を取り出して口に咥える。この葉巻は機嫌がすこぶる良い時に吸っているものであった。
彼は種族を問わず、美しく強い者が好きだ。カリュブディス好みの端正な容姿の上に惚れ惚れするほど類稀なる
魔力の持ち主であるジハードは、特に目を掛けている存在である。
カリュブディスの願いは不死身の身体を手に入れることだ。不死身の身体を手に入れ、陸に魚人王国を建国する。
そこでは人間達は奴隷のように扱い、魚人による魚人のためだけの理想の王国を作り上げるのだ。
ジハードさえ首を縦に振ってくれれば、自分の右腕として魚人王国を共に作り上げていってもいいと思っている。
「まぁ放っておけ。ジハードの目的はオレを殺すことなんだろうが、その人間達を見せしめに全員殺してやろう。
圧倒的な力の差をあいつにとくと見せ付けてやれば、流石のあいつも観念して素直になってくれるかもしれん」
「は、はい」
「よし……わざわざ海底にまで足を運んでいただいた人間達に、オレの可愛いペットを見せてやろうじゃないか」
「ペグパウラーをお使いになるのですか?」
「くくく、ジハード。オレのペットは少々乱暴だぞ? さて狡賢いお前はどんな方法で突破してくるかな……?」
紫色に染まった煙を心地よさそうに吐き出し、目を細めたカリュブディスはゆっくりと身体を横たえたのだった。
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「誰もいないなぁ」
透き通った水晶の長い廊下を用心深く歩きながら、ティエルは思わず首を傾げた。
彼女達をまるで待ち受けるかのように次々と襲ってきた魚人達の姿が、ぱったりと現れなくなってしまったのだ。
いやに静か過ぎるのだ。……それもわざとらしいほど。
このまま何事もなくカリュブディスの元へと辿り着くことが何よりも望ましいが、そう簡単にはいかないだろう。
相手はこのカリュブディス神殿を統べる海王である。何事もなく辿り着ける方がおかしな話なのだ。
あまりにも不自然な静けさに、ティエルは不安を隠しきれなかった。もしや嵐の前の静けさなのではないかと。
答えを求めるように隣を歩くジハードに顔を向けたティエルであったが、突然彼はくるりと背後を振り返った。
「先程からずっとあなたの視線を感じるんだけど、何か用かい? ぼくの顔なんか見てても面白くないと思うよ」
ジハードの振り返った先には最後尾を歩くクウォーツの姿があった。
硝子玉によく似た彼の瞳で見つめられては、普通の神経の持ち主ならば数分も経たずに根を上げてしまうだろう。
隠すこともなく無遠慮にクウォーツから視線を投げ掛けられていた割には、ジハードは耐え続けていた方だった。
「もしかしてぼくに興味があるのかな? 実はぼくも、人間と行動を共にする悪魔族のあなたに興味があるんだ」
「……」
「今まで同い年くらいの友人ってなかなかいなかったからさ、あなたと知り合えて実は嬉しかったりするんだよ」
「……」
「最初はあなたのことエルフ族なのかなって思ったんだ。だって、あまりにも自然に人間と一緒にいるんだもの」
「……」
このジハードという青年は、相当肝が据わっているようだ。
無言を貫いているクウォーツに対して、物怖じなく話しかけている。しかも半ば無理矢理に会話を続けていた。
一気に崩れ去った周囲の緊張感に、ティエルは思わずほっと胸を撫で下ろす。
「ねぇ、リアン……クウォーツはずっと黙ったままなのに、会話が続いているのが凄いよね。……リアン?」
「勿体無いですわ……」
「え? 何が?」
「あの二人が並ぶと、見た目だけはとても良いから絵になるのに……性格が揃って問題ありなのが勿体無いですわ」
大げさに溜息をついているリアン。
しかしティエルには、クウォーツとジハードの二人の性格がそこまで言うほど問題ありとは思えずに首を傾げた。
そんな和やかな雰囲気が漂う周囲に苦笑を浮かべていたサキョウだったが、背後から殺気を感じて目を細める。
「皆、気を付けるのだ。凄まじい殺気を放っている者が近付いてくる。見張りの魚人兵達かもしれぬ」
「殺気を放っている? サキョウの気のせいじゃないんですの? 私には誰もいないように見えるんですけど……」
「危ない、後ろだ!」
誰もいないじゃない、と半信半疑でサキョウを振り返ったリアンの背後に向けて、突如巨大な影が飛び掛った。
咄嗟に彼女を突き飛ばしたジハードは、自身も意外なほど身軽な動作で地面を蹴ってその場から素早く離れる。
魔法使いと己を称している割には、武闘家の如く隙のない鮮やかな身のこなしである。
リアンを襲った影は、まるで獅子と魚が融合したかのようなモンスターだった。
全身を覆う黄土色の鱗に、耳まで裂けた真っ赤な口からは粘液に塗れた長い舌がだらりと垂れ下がっている。
筋肉で隆起した四本の足には鋭い爪。息荒く肩を上下させながら、濁った黄色の瞳でこちらを睨み付けていた。
「こいつは……ああ、非常にまずいね。カリュブディスの飼っている凶悪なモンスター、怪魚ペグパウラーだよ」
「ペグパウラー?」
この世のものとは思えぬ醜悪な怪物を目にして、硬直をしているティエルの前に立ちはだかったのはジハード。
彼は見せたこともないような険しい表情を浮かべており、目にしたティエルの不安が更に増していく。
それだけこのペグパウラーという魔物が手強いことをジハードは知っているのだろう。
「飼い主のカリュブディスですら持て余すほど凶暴な奴だ。こいつを相手にしてはいけない、早く逃げるんだ!」
ジハードの言葉に反応したリアンが別の道を探すために足を踏み出すが、突如現れた透明な壁に弾かれてしまう。
どうやら四方の廊下を透明なシールドで塞がれてしまっているようだ。これでは進むことも戻ることもできない。
突破する方法はただ一つ。……目の前のペグパウラーを倒すことだった。
「ジハード、駄目だよ! 道を塞がれていて逃げられない!」
「恐らくこれもカリュブディスの仕業だ。とうとう本気でぼくらを始末しようと刺客を送り込んできたようだね。
どうかあなた達は無茶をせずに、危険だと感じたらすぐに後ろに下がるんだ。ぼくが必ず倒すから」
厳しい表情を浮かべながら虹色に輝くリグ・ヴェーダを捲り始めるジハード。
覚悟を決めたティエルは彼の隣で大剣を抜くと、ペグパウラーに向けてガリオンから習った基本の構えを取った。
リアンはいつでも発動できるように呪文の詠唱を済ませており、サキョウは拳を握り締めながら隙のない体勢だ。
強敵の出現に、さすがのクウォーツも戦闘に参加する気が起きたのか、彼の左手には妖刀幻夢が握られていた。
耳を劈くような咆哮と共に唾液を滴り落としながらこちらに向かってくるペグパウラー。
きっと誰もが足を竦ませてしまうであろう迫力だったが、恐怖という感情を持たないクウォーツには通用しない。
表情一つ動かすこともないまま剣を振るえば、斬り飛ばされたペグパウラーの後足が勢いよく壁に跳ね返った。
だが足を一本失っても怯むこともなく、ペグパウラーは牙の生えた大きな口を開けてティエルへ飛び掛ったのだ。
「……うぅっ!」
両手で剣を握り締めたティエルはペグパウラーの巨体を受け止めようと立ち向かうが、力の差が圧倒的である。
突進を防ぎきることができず、太い前足によって彼女は勢いよく腹部を殴り飛ばされてしまう。
「よくもやってくれましたわね!? こんがりと焼けておしまいなさい……メギドフレア!」
ジハードに介抱されているティエルを目にしたリアンは、怒りに燃える瞳で火炎の呪文を発動させる。
火炎は無防備であったペグパウラーの巨体を包み込むが炎はすぐに消え、鱗をほんの少し焦がしただけであった。
その隙を突いて死角から掴みかかるサキョウの身体を、ペグパウラーはいとも簡単に殴り飛ばした。
「……ティエル、大丈夫かい。あいつは動く者全てを殺戮し続ける奴なんだ。殺らなければ、こちらが殺られる」
「ジハード」
「ここまで連れてきたぼくが言う台詞じゃないけど、関係のないあなた達を危険に巻き込んでしまってすまない」
「何言ってるの? ジハードは全然悪くないよ。……元はといえば、わたしが無理矢理に頼んだからだし」
自分を心配そうに覗き込む白髪の青年に、ティエルは慌てて両手を振りながら立ち上がった。
彼が責任を感じる必要はない。責任があると言うのなら、リアン達をここまで付き合わせてしまった自分の方だ。
「ジハードが謝る理由なんか全くないんだからね」
「きゃあぁーっ!」
「!」
リアンの悲鳴と共に、ペグパウラーから殴り飛ばされた彼女が勢いよく突っ込んでくる。
この速さで壁に激突すれば、無事では済まないだろう。その悲鳴に誰よりも早く動いたのはクウォーツだった。
激突する寸前でリアンを抱き上げると壁を蹴って着地をするが、それと同時に彼女から両手を離して駆け出した。
抱えられていた両手を突然ぱっと離されてしまったリアンは、地面にしこたま尻を打ち付ける羽目になったが。
「ちょっと痛いじゃないの、クウォーツさんのばかぁっ!」
「おいおい大丈夫かリアン」
「大丈夫ですわ。それにしてもあのモミアゲ伯爵、女の子をもう少し優しく助けることができないんですの?
ここまで雑な扱いをされたのは初めてですわよ! こんな目に遭ったのも、全てはあの怪魚の所為ですわぁ!」
尻をさすりながら立ち上がったリアンは、愛用のロッドを回転させると灼熱の炎の魔法を即座に完成させた。
サキョウは彼女に手を貸しつつ、怒りの矛先がクウォーツからペグパウラーに変わったことに胸を撫で下ろす。
怪魚に向かっていく火炎を虹色の魔法陣が包み込み、更にジハードの炎の魔法が加わって灼熱の塊へと変化した。
まるで大砲のような熱の塊は、直撃したペグパウラーの動きを鈍らせるのに十分な威力である。
その隙を見逃さず、サキョウの拳とクウォーツの剣戟が更なる追い討ちをかけた。周囲に響き渡る怪魚の雄叫び。
「ごめんね、わたしはどうしても先に進まなければならないんだ!」
最後にティエルは床でのた打ち回るペグパウラーの喉元に、渾身の力を込めて竜鱗の剣を突き刺した。
ぐえっと押しつぶされたような呻き声を最後に、怪魚は動かなくなった。じわじわと広がっていく緑色の血池。
それを目にしたティエルは、頬に付着した緑の返り血を手の甲で拭ったのだった。
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