Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第6章 遠い国から来た青年

第64話 海王カリュブディス -1-




「やあ、お見事だったね。ぼくも加勢したとはいえ、まさかあの乱暴なペグパウラーを倒してしまうなんてさ。
 この調子で進んでいけば、きっと海王カリュブディスも倒すことができるよ。……ん、どうかしたのかい?」

緑色の血池に蹲るペグパウラーの死体を一瞥し、ジハードは立ち尽くしたままのティエルへと歩み寄って行った。
しかし彼女は血池を見つめ、その場から動こうとはしない。
竜鱗の剣にどろどろと付着したペグパウラーの血を拭うことすらせずに、ただぼうっと死体を見つめ続けていた。

緑色の血に塗れた死体。怪魚は完全に息絶えており、だらしなく開いた口からは大きな舌がはみ出ている。


「ティエル?」
「……ん、なんでもないよ。ただ、可哀想なことしちゃったかなぁって」
「可哀想?」
「うん……単に動けなくするだけでも良かったかな、とか。殺すまでしなくても良かったんじゃないかな、とか」

ジハードに声を掛けられて漸く我に返ったティエルは、懐から取り出したハンカチで頬の返り血を拭い始めた。
いくら拭っても、鼻の粘膜にこびり付いた生臭い腐臭を取ることはできなかったが。


「ティエルはいつまで経っても甘いお姫様ですわねぇ。戦って生きるか死ぬか、それだけのことなんですのよ」

水晶の地面にしこたま打ちつけた尻を擦りながら、リアンが溜息と共に呟いた。
強敵との戦いは相手が死ぬか、自分が死ぬかのどちらかだ。死にたくなければ答えは一つ。相手を倒すことだ。
それは今までの経験からもティエルはよく思い知っているはずだ、とでも言いたげなリアンの口振りであった。


「本当に可哀想なのは、乱暴な伯爵様に地面に落とされた私の方ですわぁ」
「貴様があまりにも重かったからな」
「あらあら。私の軽い体重くらいで音を上げるなんて、本当に見た目どおりの女々しい伯爵様ですわねー」

「ああ、普段そこまで重いものを持たないからな」
「うっ……うるさいですわね、さっきから重い重いと連呼しすぎなんですのよあなたは!」


背後でいつものように繰り広げられているリアンとクウォーツの会話。
一人で興奮するリアンを見かねてサキョウがやれやれと止めに入るところも、いつもと変わらぬ流れであった。
そんな他愛のない彼らのやり取りを眺めていたティエルに、漸く明るい笑顔が戻る。


「……ごめん、もう大丈夫だよ。気にしないで」
「ティエルには笑顔が一番似合うんですのよ。辛気臭い暗い顔はクウォーツさん一人だけで十分ですわ、ね?」
「う、うん」

口喧嘩を終えていたリアンはにっこりと優しい笑みを浮かべると、ティエルの頭をぽんぽんと叩いた。
『辛気臭い顔』という彼女の言葉に背後でクウォーツが一瞬だけ視線を向けたが、特に何も言うことはなかった。
リアンとクウォーツを見つめてからサキョウに顔を向け、それからジハードは笑顔の戻ったティエルを振り返る。


「……参ったな、全く読めないなぁ」
「ジハード?」
「ぼくは今まで色々な者達と出会ってきたけれど、あなた達はよく分からないんだよね。
 大体は目を見れば、相手が何を考えているか分かるんだ。目には思惑を隠し切れない。勿論全員ではないけど」

寂しげな微笑と共に口に出されたジハードの呟き。
そういえば彼は他人と話すとき、痛いほどじっと目を見つめてくる。それをティエルはふと思い出したのだ。
相手の思考を読むためのその行動は、ジハードが如何に他人を信じることができないかを鮮明に物語っている。


「正直に言ってしまえば、ぼくはあまり他人を信用することができないんだよ。あなた達も例外ではなかった」


薄々とは感じていたけれど、言葉に出してはっきりと言われてしまうとティエルは寂しかった。
友達になれたと思っていたのに。と沈んだ表情を浮かべている彼女にジハードは優しげな笑みを浮かべてみせる。

「でもね、ぼくはあなた達を信じようと思う。互いに信用していない相手となんて、何も成すことができない」


「……ジハード」
「なんだい?」
「わたし、最初はパンドラの箱さえ手に入れることができればいいって思ってたの」
「うん、知ってるよ。それが目的のあなた達の弱みに付け込んで、ぼくの我が侭に協力してもらっているんだし」

言いにくそうに俯いたティエルに対して、ジハードはそれがどうかしたのかと首を傾げた。
しかし突然がばっと顔を上げた彼女は、思わず面食らった表情を浮かべるジハードの両腕を強く掴んだのだ。
先程までの弱々しい顔の彼女はもうどこにもいない。

「わたしもジハードを信じてる! わたし達もう友達だし。だから、カリュブディス神殿を出るときも一緒だよ!」

「え……?」
「知り合ったのも何かの縁ですし。あなたも一緒にこの神殿を出ることができる方法があるかもしれませんわ」
「うむ。カリュブディスを締め上げて、パンドラの箱との契約を破棄する方法を聞き出してやろうではないか!」


ぱちんと可愛らしく片目を瞑ってみせるリアンと、分厚い己の胸板を叩くサキョウ。
ジハードがこのカリュブディス神殿に縛られ続けている最大の原因は、パンドラの箱と契約しているためなのだ。
ならば箱との契約を破棄すれば、彼は自由の身になれるのではないか。海王ならば何か知っているかもしれない。

「契約を破棄……。そんなこと、考えもしなかった」

瞳を瞬いて、きょとんとした表情のジハード。
普段彼が浮かべる穏やかでどこか大人びた表情とは一変して、目をまん丸にした小さな子供のような顔である。
確かにそうだ。契約方法があるのならば、契約を破棄する方法だってあるのかもしれない。


「そうだよ、ジハード! 諦めてちゃ駄目だよ、きっと何か方法があるはず……」
「……お喋りはそこまでだ、人間諸君。敵地に乗り込んでいるというのに、楽しくお喋りとは随分と余裕だな」


その時。
突如辺りに響き渡った低い男の声にティエル達が振り返ると、身体中を青い鱗で覆われた大男の姿があった。
金の刺繍が施された赤い織物を羽織った大男の周囲には、銛を手にした魚人の兵士達がこちらを睨み付けている。

「カリュブディス……」
「おお、ジハードよ。背後で転がっているのはペグパウラーかね? やつを倒すとはなかなかの腕前の人間達だ。
 オレの望みどおりに強い人間達をよくぞここまで連れてきてくれた、ジハード。さすがは頼りになる相棒だな」

「相棒? カリュブディス、お前は一体何を言って……」
「まんまとジハードに騙されたな人間達。こいつの巧みな話術と偽りの笑顔を信用してしまったのが運の尽きだ。
 奴隷候補の強い人間達を連れてくれば解放してやってもいいと、オレはこいつと約束していたのだよ」


ティエル達の表情がぎくりと強張るのがジハードにも見て取れた。
海王はこちらの不信感を煽って仲間割れを狙っているのだ。奴隷候補の人間達を連れてくる? 冗談じゃない!
だがジハードがカリュブディスの言葉に動揺を見せれば見せるほど、彼女達の不信感は更に加速していくだろう。


「ジハード……?」

震える声でティエルはジハードへと顔を向ける。
カリュブディスの言葉は本当なのか。自分達を騙していたのか。そんな不安が表情に浮かんでいるように見える。
下手な弁明は却って逆効果だ。決して騙していたわけではないと、彼らに態度で示さなければならない。

出会ってほんの数時間程度であるジハードの言葉を、彼らが信じてくれる可能性は絶望的なほど低かったが。


「でたらめを言うのはやめてくれ、カリュブディス。海王ともあろう者がそんな姑息な手を使うのか」
「姑息な手とは心外だな。オレはただ真実を述べているのだよ? お前は計算高く全てを利用する男なのだとな」
「……」
「さあ人間達よ、選ぶがいい。海王であるオレを信じるか……それとも油断のならない白髪の男を信じるのか?」


困ったように顔を見合わせているティエル達。言葉に出さなくとも、彼らの答えなど既に分かりきっている。
その様子を眺めてからジハードは諦めたような、どこか落胆したような溜息をつく。
彼らの反応は当然である。誰も信じることのできない自分を信じてくれと言う方がおかしな話なのだ。けれど。


「……信じてくれなくてもいい。でも、これだけは言わせてくれ」
そう言って、ジハードはゆっくりと顔を上げる。

「ぼくはあなた達を、奴隷にするために連れてきたんじゃない。
 そりゃあ自由にはなりたいさ。けど……誰かを騙して犠牲にまでして、自分だけが助かろうなんて思わない!」


「言ったじゃない、ジハード」
「ティエル」
「……あなたはわたし達を信じるって言ってくれた。だから、わたしもあなたを信じる」

そのティエルの言葉に、ジハードはスカイブルーの瞳を見開く。それから何回か瞬いた後、彼女を見つめた。
目を見開いたままのジハードの隣を通り過ぎたティエルは、大剣を抜き放つとカリュブディスに向かって構える。
強い意志の宿る彼女の瞳は、ほんの一欠片もカリュブディスの言葉を信用していなかったのだ。

「わたしはジハードと約束したんだ。海王カリュブディスを討ち、彼と一緒にここから出るんだって……!」


「ほう……これは面白い冗談だ。たかが人間の分際で、海王と呼ばれるこのカリュブディスを倒せるとでも?
 いいだろう。オレも随分と身体が鈍ってきているからな。準備運動にもならんが……相手になってやろう!」

カリュブディスが言い放つと同時に、彼の周囲で銛を手にして控えていた魚人族の兵士達が一斉に向かって来た。
奇声を上げながら飛び掛ってくる兵士の一人を、サキョウがその力強い拳で殴り飛ばす。
あっけないほど軽く兵士は飛んでいき、壁に勢いよく跳ね返る。そこへ間髪入れずにリアンの魔法が叩き込まれた。

「海王だか何だか知りませんけど……あまり人間を軽く見ていると、そのうち痛い目に遭いますわよ?」





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