Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第6章 遠い国から来た青年

第68話 遠い国から来た青年 -2-




物心ついた時には、既にオレは見世物小屋でこき使われていた。


父や母の顔など覚えてはいない。団長曰く、父母もまたこの見世物小屋で生まれ、生涯を閉じたのだという。
人間の数倍の速さで成長する魚人族が奴らには珍しかったのだろう。そんなものを眺めて一体何が楽しいのか。
この地上を我が物顔で支配する人間という生き物は、本当に傲慢で愚かな生き物だと思った。

オレはいつの日か、魚人による魚人のためだけの王国を作り上げてやる。そこでは人間が見世物にされるのだ。
毎日鞭打たれながら、その思いだけを心の支えにしながら過ごしていた。


……ある夜。酔った団長がいつものように鞭を手にしながら檻までやってきた。
こいつはいつもそうだ。自分の気に入らないことがあると、オレ達に八つ当たりをする。もう我慢の限界だ。
仲間の魚人達に目配せをして、奴が檻を開けた瞬間に数人で体当たりを食らわせるとあいつは呆気なく転がった。

恐ろしい追っ手に一人捕まり、そしてまた一人捕まっていく。
棘のついた大きなハンマーで頭を木っ端微塵に壊された仲間もいた。頭の中身が飛び散り、オレに降りかかった。
左腕と右足。ハンマーで砕かれた傷が痛むが、今は立ち止まっている場合ではない。
無我夢中でオレは生きるために逃げ続けた。川を越え、谷を越え、数日間歩みを止めることなく進み続けた。


とある森の奥深くまで迷い込んだ時、オレはもうここまでだと思った。
これ以上は歩けなかった。足の裏は血でぐちゃぐちゃで、既に麻痺していたのか痛みすら感じていなかったのだ。
ここで死ぬわけにはいかないのに。魚人王国を作り上げるまでは、絶対に死ぬわけにはいかないのに。

意思とは裏腹に段々と意識が薄れていく。
……そんなオレの頬に、温かな手が触れた。その手が触れた場所から、不思議と痛みが引いていくのが分かった。
閉じかけた瞳を薄っすらと開くと、目の前には一人の人間が微笑みを浮かべながらしゃがみ込んでいた。

光に照らされて輝く白い髪。青い衣装。整った顔をした、まだ若い人間の男だ。少年らしさが抜けきっていない。
その優しい微笑みを目にしたオレは、生まれて初めて向けられた微笑みにオレは、天使が現れたのだと錯覚した。
柔らかな微笑みを浮かべたまま青年は手を伸ばし、オレの身体を軽々と抱き上げる。

張り詰めていた緊張が、青年の微笑みで解きほぐされたのだろう。そこでオレの意識は闇へと誘われていった。


次に目が覚めたのは柔らかな寝床の中であった。
身体中の傷に手当てがしてあった。……そしてあれほど痛みを発していた足の傷が、すっかり治っているのだ。
あの青年は一体何者なのだ。傷を一瞬にして癒してしまう、奇跡の力を持つ本物の天使だというのか。


「あれ、気が付いた? あんな酷い怪我をした足で、よくここまで歩いてこれたな。偉い偉い、頑張ったね」

傍らに寄り添ってくれていた白髪の青年が、あの優しい笑顔と共にオレの頭を撫でる。
ぼろぼろと大粒の涙が溢れて止まらなかった。こんなにも温かな気持ちを向けられたのは初めてだったのだ。
嬉しくて、切なくて。心が救われたような気がした。

「あなたは魚人族だよね。名前は? お父さんとお母さんはどこにいるの? 一緒に探してあげるよ」
「……いない……」
「いない?」

「名前なんかない。お父さんも、お母さんもいない。顔も分からない。……オレ、ずっと見世物小屋にいたから。
 お願い、何でもするから見世物小屋に戻さないで! 怪我が治るまでの間だけでも、ここにいさせて……!」

「わ、ちょっと」
「靴磨きも畑仕事も家畜の世話も何でもする! 芸だってできるよ。火の輪を潜ったり、剣山の上でダンスも!」
「そんなことを……やっていたのか」

涙と鼻水を溢れさせながら詰め寄るオレの姿に、白髪の青年は少し驚いたようにスカイブルーの瞳を瞬いていた。
それからやれやれと苦笑を浮かべて傍らの鼻紙を手にすると、オレの涙と鼻水を拭き取ってくれた。


「火の輪を潜ったり、剣山の上でダンスなんかしなくてもいいよ。子供の仕事は外で元気に遊ぶことなんだから」
「もう……痛いことはしなくてもいいの? ほんとにしなくてもいいの……?」
「本当だよ。だから早く怪我を治すんだ」
「……うん!」

「元気が良くてよろしい。……ぼくはジハード。よろしくね、小さな魚人族くん」

ジハードと名乗った青年は、再びオレの頭をぐりぐりと無遠慮に撫で付ける。だが全く嫌な気はしなかったのだ。
たった一ヶ月という短い時間だったが、この日からオレはジハードと共に過ごすことになった。


……共に過ごしていくうちに、少しずつ彼のことが分かってくる。

「ジハードって料理上手いんだ。オレ、こんな美味しい雑炊って初めて食べた」
「そうかな? これといって特別なものは入れてないけどね。兄嫁が料理苦手だから、ぼくが作るしかないし」
「ふぅん」

歳の離れた兄達と暮らしていること。料理は全てジハードが作っていること。そしてどれも絶品であること。


「……どうしたの?」
「なんでも、ない」

「泣いてるだろ」
「泣いてなんか、ないよ」

「こっちへおいで」

見世物小屋時代の悪夢を見て、寝床の中で泣いていたオレを……抱きしめながら夜を明かしてくれたこと。
あの温かさを決して忘れることはないだろう。思えばこの頃がオレの生の中で最も幸せだと感じた時だったのだ。

見ず知らずのオレに何故こんなにも優しくしてくれるのかと、一度ジハードに尋ねたことがあった。
しかし彼は困ったような曖昧な笑顔を浮かべただけで、何も答えてはくれなかったが。


「……オレ、いつか王様になるのが夢なんだ。魚人達が安心して暮らせる国を作って、オレが王様になってやる」
「うん」
「水晶で出来た大きな神殿を作って、ジハードと一緒に住むんだ。その時はお前を二番目の王様にしてやるよ!」
「あはは、王様が二人もいたら大変じゃないかな。一人で十分だよ」

「じゃあ、オレの右腕にしてやる! 一緒に魚人王国を作るんだ。人間だけど、ジハードだけは特別だからな?」
「それはありがたいな」
「オレ強くなって、必ずジハードを迎えに来るから。……だから待ってて」
「待ってるよ」


ジハードにとっては、単なる微笑ましい子供の戯言に聞こえたのだろう。
彼はただ笑っていただけだったが、オレは本気だった。本気で魚人達が暮らせる王国を作ろうと思っていた。

同時にジハードに対する執着も大きく膨れ上がっていた。最初は彼を兄のように慕っているだけだったのに。
いつしかその幼い思いは、この青年をオレ一人だけのものにしたいという歪んだ執着へと変化していったのだ。
ジハードはオレ一人だけに優しくしてくれればいい。そして、オレ一人だけに笑いかけてくれればいい。

その日の夜、オレは黙ってジハードの前から姿を消した。
全てを手に入れるためには、強くなければならない。……だからオレは死ぬ物狂いで強さを求め始めたのだ。

手段など選んでいる場合ではない。強くなるために散々汚い手も使った。
羅刹女の宝珠を得て、とうとうオレの前に敵は存在しなくなった。誰もがオレを王と賛美し、恐怖し、平伏した。
オレは海王カリュブディスと名乗り、その名を海底に轟かせた。強大な力とはなんて素晴らしいものなのだろう。


ジハードと別れてから、気付けば五年の歳月が流れていた。

魚人族の成長速度は人間の数倍である。あの頃はほんの小さな子供だったオレは、既に壮年の域に達していた。
強靭な肉体も、地位も、美しい神殿も手に入れた。あと一つ、足りないものはジハードだけであった。
あの頃は見上げる存在だったジハードと、漸く肩を並べることができる。彼に相応しい大人の男になったのだ。


「……海王ってのはあんたかい? あんたが最も欲しがっているものを永遠に手に入れる方法、教えてやろうか」


そんな時にあの男が現れた。緑の帽子を目深に被った、まるで魔物のような目をした中年の男。
協力さえすれば、永遠にジハードを手に入れる方法を教えてやると男は言った。本当にそんな方法があるのか。
オレがあの時の魚人族の子供だとジハードに名乗れば、大きくなったね、とあいつは笑顔を向けてくれるだろう。

だが、それで終わりなのだ。オレはあいつにとっては大勢の中の一人。その笑顔はまた違う人物に向けられる。


「誰にも渡したくないんなら、そうすればいいんだ。あんたはそれを実行できる十分すぎる力があるんだからさ。
 パンドラの箱だっけ? オレがジハードくんに契約させてやるよ。この神殿に永遠に縛り付けておけばいい」

「契約……」
「箱の鍵である契約者は、このホエールズシュラインから出ることを許されない。……永遠にあんたのものだ」


……最初は、ただオレだけに笑いかけてくれればいいと思っていた。
だがいつの間にか、汚い手を使ってでも彼を手に入れたいと思い始めていた。たとえ二度と笑ってくれなくても。
だからオレはこの男の提案を呑んだ。……あの時の魚人族の子供だと、ジハードに名乗ることもしなかったのだ。

確かにジハードを永遠に手に入れることができた。
あの頃向けてくれていた笑顔など欠片もなく、ただ軽蔑と冷めた眼差しを向けられ続けていてもそれでよかった。
オレは……決して間違ってなどいない。満足だった。欲しいものは全て手に入れたのだ。

それなのに。この胸にぽっかりと穴が開いたような虚しい感覚は一体何なのだろう。
オレがあの時の子供だと、ジハードに気付かれぬまま死んでいくのか。単なる卑怯な海王として死んでいくのか。

ジハード、オレはただ……お前に側にいてほしかったんだ……。







からん、と。

海王の証である金色に輝くサークレットの拉げた破片が、乾いた音を立てながらジハードの足元へ転がってきた。
カリュブディスが身体を預けていた王座の周辺は、宝珠の爆発に巻き込まれて全てが消し飛んでしまっている。
ジハードはゆっくりと膝を折り、金色の欠片を手に取った。

「……気付いていたよ。小さな魚人族くん」

王座の周囲だけが、まるで刳り貫かれたように消滅している。カリュブディスの亡骸すらも残ってはいなかった。
飴細工の如く溶けたサークレット。それを強く握り締めてから、ジハードは搾り出すような小さな声で呟いた。
王の間に降り注ぐのは輝く宝珠の細かい破片。光に反射して、虹の雨のようだ。


「王として全てを手に入れていたのなら、違う方法を選ぶことができただろうに。どうしてこんな方法でぼくを」


「……カリュブディスはどんな手を使ってでも、ジハードに側にいてほしかったんだよ」
「ティエル」
「魚人王国を作って人間達を支配することも、カリュブディスにとって本当はどうでもよかったんじゃないかな」
「そう……かもね」

静かに歩み寄ってきたティエルに顔を向けてから、ジハードは少し困ったような笑顔を浮かべた。


「ぼくとの契約を破棄するように、あの時パンドラの箱に願ってくれたんだろう?
 あなた達には別の願いがあったのに。そのためにここまで来たのに。ぼくのために願いを使わせてしまった」

そう口に出してから、ジハードは顔を伏せる。
しかしティエル達の願いが、既に途中から別の願いに変わっていたことを彼は知らない。
ジハードと一緒に、この神殿を出る。……それがティエルは勿論、リアンやサキョウも抱いていた願いであった。
言葉には出さずともそれを察していたからこそ、クウォーツもあの瞬間パンドラの箱をティエルへと投げたのだ。


「あなた達の力になりたい。ぼくの力はほんの些細なものだけど……それでも、あなた達の力になりたいんだ」

「それって」
「ぼくは胸を張れるほど強くはないけど、これからもぼくなりにあなた達を守らせてもらっても……いいかな」
「わたし達と一緒に来てくれるんだ、ジハード!」

全身で喜びを表したティエルは思わずジハードに飛び付き、ぎゅっと力一杯に抱きしめた。
彼の青い衣装から微かに香る、心安らぐ不思議なお香の匂い。意外にも力強い腕が彼女を受け止めてくれる。
ティエルの行動に一瞬だけ面食らったような表情が過ぎるジハードだったが、やがて満面の笑みを浮かべた。


「……また変な人が増えましたわね、まぁ一人や二人増えても変わりありませんけど。ねぇクウォーツさん」
「貴様は一応自分が変だという自覚はあるのか」
「私のことじゃありませんわ、あなたのことですわよ!」
「これ二人とも、喧嘩はやめい」

長い巻き毛をくるくると指に絡めていたリアンは、戦いによって乱れた髪を整え始める。
そんな彼女の背後から、ドレスコートに付着した水晶の欠片を叩き落としながらクウォーツが歩み寄ってきた。
早速不機嫌そうに頬を膨らませるリアンを、苦笑を浮かべたサキョウが普段のように仲裁に入る。

生き残った魚人兵士達がこちらを眺めていたが、海王が死んだ今、これ以上危害を加える気はないようである。
ジハードの癒しの力で一命を取り留めた魚人族もおり、彼に対して僅かな恩を感じているのかもしれない。


「それじゃあ、帰ろ」
転がっている竜鱗の剣を拾い、鞘に収める。それからティエルはジハードを振り返った。

「……地上へ!」





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