Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第6章 遠い国から来た青年

第70話 戦い終わって -2-




特に大きいわけでもない古びたベッドが二つ。端の欠けた大きな姿見が一つ。そして簡易バスルーム。

ティエルやサキョウ達が使用する部屋は、テレジア号の船室の中でも高額に分類されるであろう部屋であった。
専用バスルームがなければ嫌だと、リアンがそこだけは譲らなかったのだ。おかげでなかなかの出費である。
バスルームにて戦いの汚れを洗い落としてきたジハードは、ベッドの上でぼんやりと足を抱えて座り込んでいた。

二つのベッドのうち片方は、まるで台風が過ぎ去ったかのように色々なものがぐちゃぐちゃと散乱している。
丸められた掛け布団、捲れたシーツ。枕など遠く離れた床に落ちていた。これはダゴンの襲撃の所為ではない。
そしてジハードが現在座り込んでいるもう片方のベッドは、人が使用した形跡すら感じさせられなかった。
サキョウとクウォーツ。まさに対極ともいえる二人の性格が、ベッドの使い方にも面白いほど表れているのだ。


「なんだジハード、まだ起きておったのか」

鼻歌交じりにバスルームの古びた木の扉が開かれ、肩にタオルを掛けたサキョウがひょいと顔を覗かせた。
汚れたままの身体でベッドに横になろうとするサキョウを、ジハードが無理矢理バスルームに押し込んだのだ。
蝋燭の火も消さずにベッドの上でぼんやりと座り込んでいる彼の姿に、サキョウは驚いているようだった。


「先に寝てくれて構わぬと言っていたではないか。……お前も今日までずっと海底で色々あって疲れただろう?」
「今までのことを思い返していたら、眠れなくなっちゃってさ」
「カリュブディスのことか? 彼の最期はあの者が自ら望んだ結末だ。お前がこれ以上気に病むことではない」


果たしてそうだろうか。と、ジハードは目を閉じた。
自分がカリュブディスと出会ってさえいなければ、彼はあんな結末を迎えなくて済んだのではないだろうかと。
カリュブディスがあれほど歪んだ考えを持つようになってしまったのは、己にも責任があるのではないのかと。

彼が海底の王になると夢を語った時、必ず迎えに来ると言った時。ほんの少しでも本気で聞いてあげていれば。
可愛らしい子供の夢だと思い、『待ってるよ』などと軽々しく無責任な発言をしてしまったのだ。
カリュブディスはその言葉を完全に信じてしまった。約束を実現させるために、一体何人の命が失われたのか。

……しかしジハードが何を言っても、既にカリュブディスには届くことがなかった。
あの頃の純粋な魚人族の少年は、臆病で寂しがり屋だった魚人族の少年は、たった五年の間に変わってしまった。
カリュブディスを止めるためには、たとえ刺し違えたとしても彼を倒すしかなかったのだ。


「気にするなといっても無理な話であろうが、今はゆっくりと休んだ方がいい」
「サキョウ……」
「そうだ、お前が眠れるまで話をしてやろう! ワシらが何故旅を続けているか、お前に話していなかったな」

どこか父親を連想させる穏やかな笑みを浮かべたサキョウは、大きな手を伸ばすとジハードの頭にぽんと乗せる。

温かな手。子供扱いしないでよ、とジハードは些か不満そうな声を発したが、表情を見る限り嫌がってはいない。
決して広いとはいえない二つのベッドに挟まれている木箱のようなテーブル。その上には太い蝋燭が灯っていた。
ゆらゆらと頼りなく揺れ動く炎は、サキョウとジハードの二つの影を壁に映し出している。


「あなた達はパンドラの箱を求めていたよね。箱を手に入れて、本当は何を願うつもりだったんだい?」


最終的にティエル達がパンドラの箱に叶えてもらった願いは、『ジハードを契約から解放すること』であった。
だがその願いは本来彼らが叶えたかった願いではないのだ。それなのに申し訳ないことをしたとジハードは思う。
もっと大切な願いを叶えるために、彼らは危険を承知でカリュブディス神殿までやって来たのに。

「そうだな。恐らく強大な力を……願っていたであろうなぁ」
「強大な力?」

なにやら想像以上に物騒な言葉が飛び込んできたな、とジハードは眉を顰めた。
言われてみれば、最初から確かに穏やかな望みではないだろうと思わせる片鱗はあったような気がする。
海底に連れて行ってほしいと詰め寄ってきたティエルの瞳は、少女が抱くには悲痛すぎる決意が込められていた。


「ジハード、お前はメドフォードという国を知っているか? 意外だろうが、ティエルはその王国の姫君なのだ」
「ごめん、知らないなぁ……って、驚いた。お姫様なのかい。まぁ確かに箱入り娘のようだとは思ったけど……」
「メドフォードとは四方を美しい森と湖に囲まれた緑豊かな王国で、まさに平和そのものだった」

あの事件が起きるまでは。
左大臣ゲードルと手を組んだヴェリオルと名乗る男が現れ、女王ミランダを殺害し、国を乗っ取ってしまった。
サキョウの兄ゴドーもその戦いで命を落としたのだ。ティエルの仇であるヴェリオルは、サキョウの仇でもある。


「……なるほど。国を取り戻し、復讐を達成するために旅を続けているんだね。あんな少女には重過ぎる話だ。
 ティエルの敵討ちはあなたの敵討ちでもあるし、リアンも別の大切な目的を持っている。それは分かったよ」
「うむ」

それは分かったけれど。そんな彼らと、あのクウォーツという名の悪魔族の青年との共通点が全く見つからない。
太陽と月のように決して相容れることのない人間と悪魔族が、何故行動を共にしているのか。それが分からない。
その上サキョウは僧侶である。長年悪魔族と対峙し続けてきた僧兵が、一体どういうつもりなのだろう。


その時。がちゃりと部屋の扉が開き、クウォーツが姿を現した。相変わらずこちらに顔すら向けようとしない。
蝋燭を挟んで互いのベッドの上で向かい合っている二人の姿も気に留めず、そのままバスルームへと姿を消した。
声を掛ける間もなかった。サキョウはこんな人物とずっと二人部屋で過ごしていて、息が詰まらないのだろうか。

「クウォーツも帰ってきたし、そろそろワシらは休むとするか」
「ねえ」
「ん、どうしたジハード」
「……クウォーツって、婚約者がいるの?」

ジハードから投げ掛けられたあまりにも唐突な質問に、サキョウはぽかんと口を開けたまま呆気にとられていた。

一体どうしたというのだろうジハードは。今までの会話の流れから、何故そのような質問が飛び出すのだろう。
そもそもクウォーツの婚約者の有無など知らない。いないだろうとは思うが、もしかしたらいるのかもしれない。
悪魔族は両性愛者だという。たとえ婚約者が存在していたとしても、女性ではなく男性の可能性も大いにある。


「さ、さあ……ワシはよく知らぬが、いないのではないか。そんな話は聞いたこともないし、したこともないが」
「ふぅん。まぁどちらでもいいけどさ」
「しかし何故急にそんな話になるのだ? お前もなかなか唐突だなぁ」

「だって彼、指輪してるだろ。左手の薬指に。少し厳ついデザインだけど、あれって婚約指輪じゃないの?」


サキョウから問い掛けられ、ジハードは閉じられたままのバスルームの扉に顔を向ける。
そのジハードの台詞を耳にして、漸くサキョウは彼が一体何を疑問に思っているのかを察することができたのだ。
クウォーツの左手の薬指に嵌っている指輪はメビウスの指輪だ。本来薬指は婚約指輪の類を嵌める慣わしがある。

……しかしこのメビウスの指輪をクウォーツに贈ったのは、何を隠そうサキョウを含めたティエル達三人であり。
彼の薬指にメビウスの指輪を嵌めたのはティエルであり、彼女は根っからの天然のために全く他意はないだろう。
そしてクウォーツも指輪の位置に意味を持つような人物ではない。だからそのまま薬指に嵌め続けているのだ。


「そんなに気になるなら、直接本人に誰から指輪を貰ったのか聞いてみればよいではないか。ほれ、出てきたぞ」
「いやだから、別に気になっているわけじゃないって……」
「ははは、いいから聞いてみろ。きっとあいつは答えてくれると思うぞ?」

にやりと含み笑いを浮かべるサキョウ。こんな表情を眺めていると、まるで悪戯好きの少年のようである。
ジハードが背後を振り返ると、丁度クウォーツが濡れた髪を拭きながらバスルームから姿を現したところだった。
急に二人から顔を向けられる形となったクウォーツは、ほんの少しだけ首を傾げてみせる。まぁ当然の反応だ。


「……何か?」
「ジハードがお前に聞きたいことがあるらしいぞ。そのメビウスの指輪を一体誰から貰ったのか気になるそうだ」
「もういいってば! ごめんクウォーツ、本当になんでもないから気にしないで」
「指輪を?」

薄い色をした青い瞳をぱちりと瞬いたクウォーツは、己の左手の薬指に嵌る銀色の指輪に視線を落とした。
太陽の下で生きることを許してくれた指輪である。ティエル達三人が命を懸けて手に入れた指輪だった。
誰から貰ったのか、そんなことを聞いてどうするのだ。タオルで髪を拭きながらクウォーツはベッドへ歩み寄る。

「この指輪は貴様達から貰ったものだろう」
「サキョウ達から?」
「……というわけだ、ジハード。薬指の指輪はワシらがクウォーツに贈ったものなのだ。黙っていてすまんな!」

悪戯が成功した子供のように無邪気に笑ったサキョウは、ジハードの頭をぽんと叩くと自分のベッドへ潜り込む。
漸く騙されていたことに気付いたジハードは言い返そうと口を開きかけたが、既にサキョウは寝息を立てていた。
彼も相当疲れていたのだろう。それでも眠れぬジハードの心を少しでも軽くしようと付き合ってくれていたのだ。
ありったけの感謝をしても感謝しきれない。


サキョウが寝入ってしまったので、途端にしんと静まり返る部屋。
一応大きな姿見の前ではクウォーツが髪を乾かしているのだが、ジハードと会話をする気は全くないようである。
さてどうしたものか、とジハードが一つあくびを漏らしたとき。こちらへ向かってクウォーツが歩いてくる。

「場所」
「えっ、なに?」
「もう少し隅に寄って寝ろ」

ベッドに寝転ぶジハードに向かって隅に寄れということは、一緒にベッドを使用しても構わないという意味か。
人の感情を読むことに長けているジハードであっても、クウォーツの無表情からは何も読み取ることができない。
彼に感情というものが存在していれば、の話だが。


「あ、ごめん。思いっ切りベッドの真ん中を占領してた。……ってことは、一緒に寝かせてもらってもいいの?」
「ご勝手に」
「ありがとう。それじゃ、お言葉に甘えさせてもらうよ。ぼくは寝相悪くないから安心して。悪かったらごめん」
「その場合は蹴り落とす」

あまりにも素っ気無さ過ぎるクウォーツの言葉であったが、彼はジハードが隣に寝ていても構わないようである。
やはりこの悪魔族の青年は感情表現があまりにも皆無のために全く分からない、とジハードは思った。
だが、もしかしたら思っているよりも無感情な人物ではないのかもしれない。これは単なるジハードの憶測だが。

当の本人であるクウォーツは、ジハードの存在など気に留めることもなく背を向けてベッドに横になっていた。
二人並ぶと確かに少々狭さを感じるが、気になるほどではない。

「おやすみ」

返事がないとは知りつつもジハードはクウォーツの背に声を掛けるが、やはり彼から言葉は返ってこなかった。
それにしても今日は本当に色々なことがあった。……まるで完全に凍り付いていた時間が動き出したようである。
ふうと大きな溜息をついたジハードは、テーブルの上の蝋燭を吹き消したのだった。





+ Back or Next +