Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第7章 みそらで嗤う道化師

第83話 どこにも行かないで




「……うっ……」

リアンがゆっくりと目を開けると、ひび割れた石の天井が視界に入った。
月明かりが金の糸のように天井の裂け目からいくつも差し込んでおり、彼女の周囲を薄ぼんやりと照らしている。
頬に温かな感覚。恐る恐る手を触れてみると濡れている。どうやら気付かぬうちに涙を流していたようだった。

一体自分はどうなったのだろうと記憶を手繰り寄せる。確か先程まで道化師タムラマを相手に戦っていたはずだ。
ブーメランの破片をいくつか背に受けたところまでは覚えている。そこで記憶がぷっつりと途切れていた。
あれほど感じていた痛みも感じられない。痛覚が麻痺しているのか、それともここは死後の世界なのだろうか。

……死んで天国に行けるとは微塵にも思っていない。自分は地獄に相応しい行いばかりをしてきたのだから。


目覚めたばかりの回転の鈍い頭でそんなことを考えていたリアンは、ふと手に温もりを感じて視線を移動させる。
艶のある栗色の長い髪。彼女の手を握り締めながら、ティエルが付き添うようにしてぐっすりと眠っていたのだ。
顔や手足に細かい傷が見受けられるが、命に別状はなさそうだ。連れ去られていなくて本当によかった。
ヴェリオルは大変危険な男である。ティエルを欲する理由は定かではないが、恐らく彼女を不幸にするだけだ。

ふっと表情を和らげたリアンがティエルの頭を優しく撫でていると、闇に溶け込むような青い影が視界に入った。
顔を向けなくともクウォーツなのだと分かる。気配が感じられない。彼は完全に人形を演じることができるのだ。
リアンが目覚めても彼は一言も声を発することもなく、石壁に身体を預けながら座り込んでいるだけだった。


カーネリアンの瞳と、氷のような薄青の瞳が見合う。
瞳孔の透けている特徴的な瞳にリアンを映しても、何も言わない。どうして彼は何も言ってくれないのだろうか。
こんなにも近くにいるはずなのに、クウォーツがとても遠くに感じた。リアンの胸は不安ばかりが増していく。
ほんの一言だけでもいい。今は彼の声が無性に聞きたかった。どこにも行かないでと手を伸ばして縋りたかった。


「悪い夢を見ていたのか」


彼女の心境に気付くこともなく、不意にクウォーツが口を開いた。無駄な感情を一切省いた淡々とした声である。
漸く彼の声を聞くことができて安堵したリアンだったが、悪い夢を見ていたとは一体どういう意味なのだろう。
流れていた涙を見られてしまったのだろうか。しかし夢の内容を思い起こそうとしても、何も思い出せなかった。

「……笑えない冗談ですわね。幸せで満たされている私が、悪い夢なんて」
「魘されていたから」
「え?」
「ひたすら懺悔を繰り返していた。ラサという相手に」


さっと月が雲に隠れ、一瞬の間だけ辺りを闇が包み込む。
雲が切れて、次に照らされたリアンの顔色は蒼白であった。カーネリアンの瞳を見開いて小刻みに震えている。
長い沈黙が辺りを包み込む。こちらを見つめるクウォーツからは、僅かな感情すら読み取ることができなかった。

「あまり無理をするな」

暫くの沈黙の後。一言だけ口にしたクウォーツは立ち上がり、彼女の言葉も待たずに扉に向かって歩き始める。
昔は高貴な身分の者が使用していた部屋なのだろう。半ば朽ちかけてはいるが、その面影を僅かに覗かせていた。
クウォーツが廊下に向けて一歩足を踏み出したところで、水の入ったバケツを手にしたジハードと出くわした。


「あれ、クウォーツまだ起きてたの? 少しは休んだ方がいいよ、いくらあなたでも今日は疲れただろ」
「……」

それを言うならばジハードも同じだろう。
クウォーツは黙ったまま首を振っただけで視線を静かに移動させた。視線の先は意識を取り戻したリアンである。
漸くそこで彼女の姿を瞳に映したジハードは、ほっと安堵の表情を浮かべながら部屋の中へと足を踏み入れた。
その一方でクウォーツはジハードと入れ替わりになるようにして、薄暗い廊下の向こうへと姿を消してしまう。


「よかった、気が付いたんだねリアン。まだ動かない方がいい。あなたの傷は決して浅くはなかったのだからね」
「私……怪我をしたところまでは覚えているんですけど、その後のことは覚えていないんですのよ。
 ジハード達は階下へ落ちていったじゃない。よく無事でしたわね。あれからトロルはどうなったんですの?」
「死んでいたよ」

あれほどの崩壊に巻き込まれた割には、ジハードも先程のクウォーツも擦り傷すら負っていなかったのだ。
じっと訝しげに見つめてくるリアンに向けて苦笑を浮かべたジハードは、彼女の側にゆっくりと腰を下ろした。
勿論軽傷はみんな負っていたよ、と彼は口を開いた。トロルは瓦礫が直撃して息絶えていたことも付け加える。

「擦り傷程度なら数分もあれば跡形もなく治せるからね。……けど、あなたの背の傷は時間がかかるだろうなぁ」
「……それはそれは、稀代の天才癒術師様のお手を煩わせて悪うございましたわね」
「ぼくが天才なのは全くもってその通りなんだけど、女の子がそんな可愛くない言い方をするのは良くないなー」


悪意のない笑顔のジハードは、頬を膨らませて完全に拗ねた表情のリアンの頭をよしよしと撫でる。
女性扱いというよりは、完全に子供扱いだ。だがこんな風に触れられれば、勘違いをしてしまう者もいるはずだ。
ジハードは割とスキンシップが多い方だ。同性ならばともかく、異性ならば勘違いをしてもおかしな話ではない。
恐らくジハード本人は全く他意はないのだろう。だからこそ、なかなか厄介な青年である。


「可愛くなくて悪かったですわね。助けていただいて大変感謝していますわぁ」
「うーん……治療をしたのは確かにぼくだけど、最初の応急処置がなければ危険な状態だったんだよ」
「応急処置って?」

リアンの問い掛けにジハードはほんの少しだけ口を閉ざし、眠り続けるティエルへと視線を移す。


「ぼくらが求めていた満月草は、高い治癒効果がある薬草だっただろう?」
「ええ」
「ティエルはそのことを思い出してあなたに飲ませたんだ。タムラマが一輪だけ持っていたのを覚えてるかい?」

満月草は全てタムラマによって焼き払われていた。最後の一輪をタムラマが懐に隠し持っていたことを思い出す。
だがそれでは試験をクリアしたことにならないのではないか。満月草を持って帰ることが条件だったはずだ。
そんな大切なものをどうして私に、とリアンは思わず眉を顰める。封魔石に近付く機会を逃してしまったのだ。

「試験にクリアできないんじゃ、振り出しに戻っちゃったじゃない。……何故そんな大切なものを使ったのよ」
「リアン」
「……なによ」

「たとえ試験をクリアしたとしても、あなたが死んでしまったら意味なんかないんだよ。それを忘れないでくれ」

初めて聞くような厳しいジハードの声であった。
はっと思わず顔を上げたリアンの瞳を、反論を許さず言い聞かせるかのような空色の瞳がじっと見つめている。
そんな瞳で見つめられると心が痛くなってくる。己の失言に気付いた彼女は、ごめんなさい、と小さく呟いた。







月鏡の城。大きく崩れた二階部分で、既に形を保っていない窓枠にサキョウが腰掛けていた。
崩壊の衝撃で一階の壁には大きな穴が開いており、ピアノの仕掛けを発動しなくとも外に出ることができそうだ。
夜空にはぽっかりと大きな満月が浮かんでいる。改めて眺めてみると、月とはなんて神秘的なものなのだろう。

特に何をするわけでもなく、ぼうっと満月を眺めていたサキョウの背後で、砂利を踏みしめる小さな音が響いた。
静かに振り返ると、背後にはクウォーツの姿があった。相変わらずビスクドールのような姿をした青年である。

だが、この人形めいた姿を好む収集家も少なからず存在しているという。
捕らえた悪魔族の内臓を生きたまま取り出し、死体に防腐処理を施しているという恐ろしい話を何度か聞いた。
そんな者達から彼を守らなければと思う。そもそも自分以上に強いクウォーツを守るなど、おかしな話であるが。


「どうした、クウォーツ。リアンの側についていたのではなかったのか?」
「意識を取り戻した。今はジハードがついている」
「そうか良かった。……治療のために服を脱がせるからと言われて、ワシは部屋から追い出されてしまったのだ」

しかし治療をするジハードはともかくとして、何故クウォーツは追い出されなかったのだろうか。差別である。
男だからという理由で追い出されたのではなく、サキョウだからという理由で追い出されたのでは酷い仕打ちだ。
仲間の身を案じる心は誰にも負けないというのに。もしやこの野獣のような外見が原因なのだろうか。


「なぁ……クウォーツ」
「?」
「ワシはそんなにもおなごに危機感を抱かせてしまうような、スケベな野獣に見えるのだろうか」
「でも童貞なんだろ」
「どっ……!?」

さらりと事も無げに、とんでもないことを言われたような気がする。
隣の悪魔族である青年を恐る恐る眺めてみるサキョウ。いつもどおりの無表情だ。やはり聞き間違いなのだろう。
だが、聞き間違いではなかったようだ。美しい顔に似合わぬ下世話な台詞がクウォーツの口から続けられる。


「顔を赤くするような話題か。気にしているのなら、どこかで適当に男でも女でも見繕って抱いてくればいい」
「お前なぁ、男でも女でもって……いや、第一そういう行為は適当な相手ではなく、愛し合った者同士でないと」
「? 意味が分からない」

全く表情を変えることもなく、ぱちりと硝子の瞳を瞬くクウォーツ。
愛情を理解することのできない彼に、これ以上訴えかけても徒労に終わるだけだ。なによりこちらが照れくさい。

先程ジハードに吐露したクウォーツに対する複雑な思いは、気付けば既にどこかへ消え去っていた。
答えの出ないことをいつまでも考え続けても仕方ないではないか。思い悩むのはサキョウの性格上苦手であった。
急に口元に笑みを浮かべたサキョウに、クウォーツは少しだけ首を傾げるが、それ以上何も言うことはなかった。





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