Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第8章 考古学者アリエス

第92話 漆黒たる悪魔の夜会 -3-




「はぁ、そうでしたか。ですがそれが一体どうしたのですか? たかが人間一人が死んだだけではないですか」
「なんだと……?」
「恐らくあなたの母とやらは、わたくしに失礼なことをしたのではないでしょうか。ならば殺されて当然ですよ」

どうでもいい人間をわざわざ殺すほどわたくしも暇ではないですし、とバアトリは言葉の後に付け加えた。
その言葉が、浮かべる笑みが、わざとらしい仕草が、嫌味な表情が、何もかも全てがサキョウにとって癇に障る。
だがバアトリはサキョウを逆上させる気などなく、彼が怒っている理由が本気で理解できていないようであった。


「エルキドは美しい山々や紅葉で有名ですね。そして、悪魔族に対する差別が非常に厳しい島国でもあります。
 ああ、少し思い出しました。わたくしを口汚く罵った雌豚がいましたよ、もしやそれがあなたの母親では?」
「これ以上母上を愚弄するなぁ!!」

明るく茶目っ気のあるサキョウからは想像もつかぬほど怒りで顔を歪ませ、憎悪の表情で駆け出した。
彼の顔を横で目にしたティエルの背筋に悪寒が走る。血走った目に浮き出る血管。まるで修羅のようだった。


「頭に血が上った状態で突っ込んでいけば、格好の標的になる」
「クウォーツ」
「あのバアトリとやらは私が相手をする。お前はサキョウをサポートしつつ、私のフォロー。……できるか?」
「任せて!」

いつの間にか隣に立っていたクウォーツが、感情のない薄青の瞳でティエルを見下ろしていた。
頭に血が上っているサキョウをサポート。そしてクウォーツのフォロー。常に周囲に気を配らなければならない。
それだけ重要な役を彼が任せてくれた。信頼してくれているのだ。……その信頼を裏切るわけにはいかなかった。

背中の傷は相変わらず、ずきずきと痛み続けている。だがそんなことを気にしている場合ではない。
妖刀幻夢を掴んで地面を蹴るクウォーツに遅れを取らぬように、慌ててティエルもサキョウの元へと駆け出した。


「おやおや……すぐ頭に血が上るのは、人間の悪い癖ですよ。少しは感情をコントロールできないんですかねぇ」


大げさに溜息をついたバアトリは、クウォーツによって切断されて短くなったサタネスビュートを一振りする。
すると鞭が波打ちながら隆起して禍々しい変化を遂げていく。血管のように脈打ち、強度を増しているようだ。
斬られた断面からは赤い液体と共に新たな鞭が生み出され、完全に再生してしまっていた。

悪魔族しか扱うことのできない武具。人間が扱えば精神を徐々に蝕まれていくという、呪われた武具だ。

肥大したサタネスビュートを手繰り寄せ、地面を蹴り上げたバアトリはサキョウに向けて思い切り振り下ろす。
生き物のように意思を持って蠢く鞭は、怒りに任せて猛進するサキョウの胴体へと絡み付いた。
その途端、耐え難い激痛。刃のように鋭く皮膚を引き裂き、肉を抉るような一撃にサキョウから悲鳴が上がる。


「うああああっ!」

辺りに飛び散る赤い鮮血。
ともすれば真紅の花弁が儚く散り行くようにも見えるその光景を、バアトリは恍惚の表情を浮かべて眺めていた。
激痛のために身体の力を失って膝を突くサキョウを、漸く追いついたクウォーツが背後から支える。

ぬるぬると纏わり付く血液。背筋を粟立たせる甘美な匂い。そういえば、最後に吸血したのは一体いつだったか。
無防備なサキョウの首筋に背後から牙を立てれば、この疼きが癒せるだろうか……。
だがクウォーツは頭を振って邪念を振り払うと、ぐったりとしているサキョウの身体を静かに地面へと横たえた。


「危ない!」

彼の背に向けて振り下ろされた鞭を、ティエルが竜鱗の剣で切断する。しかしすぐに再生してしまうようだった。
突っ込んだ勢いのままバアトリに向けて剣を突き出そうとするが、彼女の腕ごと剣に鞭が絡み付く。

「あ……うっ……!」

絡み付かれた剣と共に容赦なくあちこちに鞭で引きずり回され、向かいの壁まで飛ばされて背を強打してしまう。
先程負った背中の傷に追い撃ちをかけるような形となり、しゃくり上げるような声が洩れて呼吸ができなくなる。
痛い。熱い。双方が入り混じった感情に意識が完全に支配され、地に崩れたティエルはそのまま動かなくなった。

「おいクウォーツ、大丈夫か!?」
「……」

横目でティエルに視線を走らせ、剣を握って立ち上がったクウォーツに向かってジハードが駆け寄ってくる。
彼の元まで辿り着いたジハードは、ティエルとサキョウの様子を目にすると眉間に皺を寄せた。
恐らく二人の傷は相当深いのだろう。早く止血処置をしなければ、このままでは失血死してしまうかもしれない。

「二人を頼んだ。傷を治す時間くらい稼いでやる」
「分かった。でもクウォーツ、バアトリを倒すことは決して考えるなよ。ただ時間稼ぎをしてくれるだけでいい」
「何故」
「バアトリは恐らく……あなたより、強いから」

「ふふふ、わたくしを前にして楽しくお喋りですか? おや、白髪のあなたもなかなかの美青年ではないですか。
 今宵は素敵な出会いばかりで、わたくし柄にもなく緊張してしまいますねぇ。さぁ、仲良くいたしましょう!」


黒いコートを蝙蝠のように広げながら、超跳躍で飛び上がったバアトリが上空から二人へと突っ込んでくる。
咄嗟に身構えたジハードだったが、それよりも早くクウォーツが己も強く地面を蹴ってバアトリに掴み掛かった。
空中で取っ組み合った二人は、そのままジハードから離れた地面へごろごろと転がって行く。

「……ったく。クウォーツのやつ、接近戦は苦手なくせに! みんな無茶ばかりしやがって……!」

頭を振りながらやけっぱちのように言葉を発したジハードは、仰向けに倒れているサキョウの傷に片手で触れた。
大きく息を吸い込んでから目を閉じると、彼の手から淡い緑の光が溢れ、見る見るうちに傷を癒していく。
一刻も早く二人の血を止めなければ。傷を完全に治すのはその後だ。


「おやおや……まさかあなたの方から、このような熱い抱擁をして下さるとは。あなたの髪、いい香りですねぇ」

取っ組み合って床に転がったクウォーツは、バアトリの胸倉を掴んだまま身動きが取れぬよう地面に押し付ける。
そんな劣勢の状態にも拘らず、薄笑いを浮かべたバアトリはクウォーツの青い髪を手で掬って匂いを嗅いでいた。
傍から見れば寒気のするような行為をされているクウォーツであったが、無感情な彼は表情すら変わらない。

無言のまま胸元から見事な細工が施された短剣を取り出し、バアトリの首筋に向けて躊躇いもなく振り下ろした。
クウォーツが護身用のために、常に身に着けている短剣である。接近戦の際には妖刀幻夢よりも扱いやすいのだ。
しかし短剣はバアトリに振り下ろされる直前でぴたりと動きを止めた。正しくは止められた、のである。


「……サタネスビュートは単なる鞭ではございません。わたくしの手から離れても、自由自在に操れるのですよ」


背後から鞭がクウォーツの身体中に絡み付いていた。さすがの彼も、鞭が自在に動くとは思わなかったのだろう。
手足や身体は勿論、延いては服の中にすら鞭が侵入し、内外から彼の自由を完全に奪っていたのだ。
コートに付着した砂を軽く叩き落としたバアトリは立ち上がり、全く身動きの取れないクウォーツを見下ろした。

「随分と扇情的ですよぉ。ふふふ……服の中でおいたをしている鞭は、わたくしの意思ではないですからね?」
「……」
「あぁっ、その虫けらを見るような目が実に素晴らしい! これ以上わたくしを煽らないで下さいな……!」

服の中で必要以上に蠢いている鞭に、まるで身体中を弄られているようだった。言いようのない不快感しかない。
明らかにバアトリの意思で操っているはずだが、笑みを浮かべながら白々しい台詞を口にしている。


「最後にもう一度だけ聞きましょうか。あなたがわたくしの愛人になることを承諾すれば、命は取りませんよ?」
「……」
「もしも断れば、このまま鞭であなたの手足を切り落とします。最後はお仲間の前で犯して差し上げましょうか」


思ったよりも時間が稼げなかった。ティエルとサキョウはどうなったのだろう、治癒魔法は間に合ったのか。
先程ジハードが言ったように、恐らくバアトリは己よりも少し強いのだろうとクウォーツは漠然と感じていた。
問い掛けの答えなど既に決まりきっているが、感情が抜け落ちているために死への恐怖は全く感じることがない。

依然として口を閉ざしたままのクウォーツを、バアトリは先程の問い掛けの否定の態度と受け取ったのだろう。
残念です、と溜息と共に口にすると、サタネスビュートを強く握り直した。手足を切り落とす気である。


「……さようなら。けれどご安心下さいな、その美しい顔には傷一つ付けずに殺して差し上げましょう!」

「失せろこの変態野郎が、極陣発動!」
「でやぁぁぁあっ!」

バアトリが鞭を引き寄せようとした瞬間。彼の周囲を虹色の魔法陣が取り囲み、同時に激しい大爆発を起こす。
爆風で一瞬だけ視界を奪われたバアトリが次に見た光景は、剣を振り上げながら突っ込んでくるティエルである。
背中の傷の出血は完全に止まっており、完治とまではいかないが自由に動き回れる程度には回復したようだ。

彼女達の奇襲にバアトリが怯んだ隙を見逃さず、クウォーツは鞭から逃れて背後に飛び退いた。







「な、なんということだ……あのバアトリ卿が苦戦されているなんて……!」

黒フードを引き連れた大司教ゲマは、青ざめた顔でがたがたと震えながら戦いの様子を教壇の影から眺めていた。
ティエル、クウォーツ、ジハードの三人を相手にして、さしものバアトリも若干苦戦しているように見える。
負けるはずなど決してないと思っていた。今まで何名もの異教徒達を、一瞬で葬り去ってきたあのバアトリが。

護衛の黒フード達は数名を残すだけで皆やられてしまった。
大聖堂の信者達はいつの間にか殆ど逃げ出しており、残った者は一心不乱に祈り続ける役に立たない老人達のみ。
万が一バアトリが倒れてしまえば、また新たな悪魔族を象徴として祭り上げればいい。代わりはいくらでもいる。

大司教の己さえ生きていれば何度でもやり直せる。封魔石イデアを手にする大司教として、カリスマ性は絶大だ。
イデアの効果は知らない。ただ破壊の力とカリスマを持つ至高の宝玉とだけしか知らないが、それで十分である。
封魔石イデアの名前だけで、心が弱く愚かな人間を簡単に騙すことができる。サバトの福音は永遠に不滅だ。


にやりと笑みを浮かべたゲマは戦い続けるバアトリに背を向け、彼を置いて逃亡するために一歩足を踏み出した。
だが、その表情が凍り付く。背後から押し潰されてしまいそうな気配を感じたからだ。……誰か、いる。
背中がじりじりとゆっくり焼け爛れていくような、燃え盛る焔の気配がいつの間にか背後に立っているのだ。

周囲の黒フード達も動かない。皆、自分達の大切な役目であるゲマを守ることも忘れ、呆然と立ち尽くしている。
長い間油が注されなかったブリキの人形のように、ゲマは不自然なほど緩やかな動作で背後を振り返った。


そこには、波打つハニーシアンの髪をした美しい女が一人立っていた。

一見するとただの弱い女だ。普段のゲマならば、下卑た笑みを浮かべながら寝所に連れ込むであろう上玉である。
女は妖艶な微笑みを口元に浮かべながら、炎のように揺らめくカーネリアンの瞳でじっとこちらを見つめている。
思わず、ひっと呻いてしまったゲマは、その場に硬直したまま動けなくなった。吸い込まれるような焔の色。


「……イデア、いただけるかしら?」

完全に腰を抜かしたゲマは、ただ首を上下に振りながら彼女に封魔石を差し出すことしかできなかった。
ペンダントに嵌った薔薇色の宝玉。封魔石イデアと呼ばれる破壊の魔石であったが、これは単なる器でしかない。
本来の力を発揮するためには、五つに分割された全てのジェムを集めなくてはならないのだ。

「ありがとう、感謝いたしますわ。大司教さん」
「は、はひぃ……」

可愛らしく極上の笑みを浮かべた女だが、ゲマにとってはその笑顔が途方もなく恐ろしいものに見えたのだった。







先程ゲマが評したとおり、確かにバアトリは徐々に押され始めていた。
ティエルのがむしゃらな剣技、クウォーツの煽るような戦法、そしてジハードの彼らをサポートする魔術。
個々を相手にすればバアトリが苦戦する相手ではなかったはずだが、何分恐ろしいほど連携が取れているのだ。

読めないティエルの攻撃に怯んだ隙に、示し合わせたようにクウォーツが致命傷を与えようと突っ込んでくる。
彼らの攻撃をかわせば、着地点には既にジハードが魔法陣を描いて罠を張っていた。


「罠にかかったね、バアトリ」
「人間のくせに小賢しい真似をして下さいますねぇ……わたくし、ここまで馬鹿にされたのは初めてですよ」
「愛人にならないと殺すとか言ってうちの仲間を脅していたくせに、馬鹿にしてるのは一体どっちの方なんだか」

ぱらぱらとリグ・ヴェーダのページを弄びながら、呆れたようにジハードが口を開く。しかし目は笑っていない。
慣れた手付きで極陣魔法を発動させると虹色の魔法陣の中で氷塊が次々と生まれ、バアトリに直撃する。


「うっ……ぐ……! 少々痛かったですが、この程度の魔法でわたくしを負かそうなど片腹痛いですねぇ……」

氷塊の直撃によって裂けた額から溢れ出る血。忌々しそうにそれを拭いながら鞭を握って足を踏み出すバアトリ。
そんな彼の前には、ティエルによって身体を支えられたサキョウの姿があった。
彼の傷は深かった。肉が抉れ骨が覗いている部分すら存在し、ジハードの治癒魔法でも治しきれなかったのだ。

「……バアトリよ。ワシはお前をこの手で殺すために、悪魔族を殲滅させるためにモンク僧として生きてきた!
 悪戯に殺された母の絶望、残された父の無念、そして兄とワシの憎しみをその身で全て受けるがいい……!」


吼えるように怒号を発したサキョウは服の埃を叩いているバアトリへと単身突っ込んで行った。
いくらバアトリが重傷だったとしても、彼は回復力の高い悪魔族である。返り討ちに遭ってしまうかもしれない。
サキョウを追うために続いて飛び出そうとしたジハードだったが、その肩をクウォーツが無言で掴んだのだ。

行くな、というクウォーツの意を察したジハードはゆっくりと足を止め、不安な表情を浮かべながら振り返った。


「わたくしも舐められたものですね、人間一人の些細な力でわたくしをどうにかできると思っているのですか?」
「黙れえええぇっ!」
「えっ?」

しかしサキョウの動きはバアトリが予想していたよりも速く、渾身の力を込めた彼の拳がバアトリを殴り飛ばす。
悲鳴を上げる間もなく頭から壁に激突し、地に落ちたバアトリの手足の関節がありえない方向へと曲がっている。
暫く痙攣を続けていたバアトリであったが、やがて力尽きたように動かなくなった。

白目を剥いたまま、泡を吹いているバアトリ。完全に気を失っているようだ。早く止めを刺さなければならない。
その姿をどこか物悲しげな眼差しで見つめたサキョウは、殴り飛ばした己の拳へ視線を落とした。
あまりにも強い力で殴ったために、強靭なサキョウの拳でさえも中指の骨が折れており、赤く腫れ上がっていた。

(母上、ワシはあなたの仇を取ります。兄上と共に見守っていて下さい……!)





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