Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第9章 焔の王国ゾルディス
第97話 A vague sense of fear
黒騎士達に連れられたティエル達が足を止めたのは、ずらりと並ぶ地下牢の前であった。
あちこちに燃え盛る松明が掲げられてはいるが、暖房器具など設置されているわけでもなく酷く冷え切っていた。
雑居房は見当たらず全てが独房のようだ。しかし独房にしては若干広い。
中では死んだように……いや、死んでいるのかもしれないが、横たわっている罪人達の姿が何名か見受けられた。
罪人といっても、謂れのない疑いをかけられ無実の罪を着せられた者達も多いだろう。この国はそんな国なのだ。
「お前達の処遇は焔の魔女殿がお決めになる。大変お忙しい方だからな、処遇が決まるまで数日は要するだろう。
それまでに獄中死せんように精々健康には気を付けるんだな。そこに置いているぼろ毛布は自由に使ってくれ」
重く鳴り響く鉄格子の扉をがしゃんと閉めながら、黒騎士の一人はティエル達に向かって無機質な声を発する。
精鋭と謳われる黒騎士団とは、こうも人間味のない者達ばかりなのだろうか。ただ命令を聞く人形のようだ。
しかし彼らのトップはあのヴェリオルだ。彼にとっては命令に背く自我のある部下は不要ということなのだろう。
「ぼくらが生きるか死ぬか、全ては焔の魔女次第というわけかい?」
「逃げ出そうという考えは捨てることだな。この地下牢に捕まって、逃げ出すことのできた罪人など存在しない」
ティエル達に顔すら向けずに黒騎士達は足音を鳴り響かせながら去っていく。
だがその中の一人が不意に足を止める。くるりと振り返った黒騎士は、ジハードと歳の変わらぬ青年であった。
黒騎士の青年は何かを迷っているかのように視線を下に向けていたが、やがて意を決したように拳を握り締める。
「……今回の一件、あまりにも納得の行かないことが多すぎる」
「え?」
「罪なき幼い少女を恐怖で縛り付け、ましてや無理矢理花嫁にしようだなんて……決して許されることではない。
確かにオレ達は、今まで多くの汚い仕事も遂行してきた。敗戦国に蔓延する暴動や強姦も見ぬ振りをしていた」
黒騎士の青年は静かに鉄格子へと歩み寄り、完全に脅えて憔悴しきっているティエルの背丈まで腰を屈めた。
彼は心優しい青年だったのだろう。黒騎士団の一人として恥じない行動を取るために心を殺し続けてきたのだ。
だが非情にはなりきれなかった。……凄惨な光景を前にして、青年は常に心を痛めていたのだった。
「オレ、あんたと同じ年頃の妹がいるんだ。どうしてもあんたと妹の姿が重なってしまって」
「妹さんが?」
「ああ。いつまで経っても兄離れできない甘ったれの妹だけど……オレにとっては可愛い妹なんだ。
……あんた達にできるだけ寛大な措置をと、焔の魔女殿やヴェリオル閣下に嘆願書を提出しようと思ってる」
ティエルを安心させるように優しく言葉を発した青年は、鉄格子から身を離すと振り返りもせずに去っていった。
・
・
・
苦しげな呻き声があちこちから鳴り響く、通称『汚物収容所』。病魔に侵された罪人達が収容される独房である。
錆びたベッドやぼろぼろに朽ちた毛布。ティエル達の連れられた地下牢よりも更に劣悪な環境であった。
周囲は汚物や死臭に塗れており、鉄格子から変色した痩せ細った手が投げ出されていた。まさにこの世の地獄だ。
そんな場所に不釣合いなほど高価なガウンを羽織り肥えた人影が、こそこそと一つの独房へ訪れていた。
牢の前には周囲に目を光らせた二人の兵を立たせており、彼が人目を忍んでこの場所へやって来たのだと分かる。
禿げ上がった頭に、でっぷりと肥えた身体。……醜い顔を好色そうに歪ませた、ブノワ大臣である。
「ヴェリオルの奴が格安で売ってやるなどと言うから、一体どんな悪魔族かと思えば……なんと美しい……」
驚きを隠せない表情でブノワ大臣が覗き込んでいるのは、無造作に地面へ転がされているクウォーツであった。
手に持ったカンテラを彼の顔に近付けて、悪魔族を性奴隷としか思っていない大臣ですら暫く目が離せなかった。
繰り返される荒い呼吸と、苦しげに顰められる眉。その姿はどこか扇情的であり、大臣の喉がごくりと鳴った。
「可哀想に、さぞかし辛いだろう。後で解毒剤を与えて、いつまでもワシが可愛がってやるから安心するのだ」
クウォーツを気遣うような台詞を口にしているが、言っている内容は永遠に奴隷にしてやるという意味である。
大臣は発情した獣の如く息を荒くさせながら、彼のリボンタイをするりと解き、シャツのボタンに手を掛けた。
露わになっていく汗に濡れた白い裸身はカンテラの光に照らされて、大臣の更なる劣情を煽っていくようだった。
「おぉ、これは……華奢な身体ながら、薄っすらと付いた美しい筋肉……。まるで完成された芸術品のようだ」
悪魔族は種族柄、男女問わず細身の体格の者が多い。その中でも取り分けクウォーツは華奢な部類に入るだろう。
虫も殺せぬほど儚げな容姿である彼が、剣の一振りで敵の首を次々と落とすためには相当の腕力が必要であった。
体格のハンデをものともせず、ただ強くなるためだけに、ひたすら彼が努力を続けていたことを知る者はいない。
「こんな上玉を一万リンで手放すとは、ヴェリオルも愚か者じゃ。たとえ数億リンでも買い取ってやったのに」
「……お取り込み中悪いけどさぁ。それ以上脱がしちまうと、オレがティエルちゃん達にぶっ殺されるんだけど」
「なっ、誰だ!?」
周囲が見えなくなるほど没頭していた大臣の背後に向けて、若干気まずそうな若い男の声が投げ掛けられる。
人払いをしているはずなのに。慌てて振り返った大臣の目に映った人物は、緑の帽子を被ったアリエスであった。
見張りに立たせていた兵士二人は、大臣と同等の地位を持っているアリエスを止めることができなかったのだ。
「ブノワ大臣の趣味に口出しする気はねぇけどさ、その悪魔族の兄ちゃんからは手ぇ引いてくんねぇ?」
「……アリエス博士。ワシが金で買った奴隷をどう扱おうが、ワシの自由だろう? おぬしには全く関係がない」
「残念だけど、関係あんの。その兄ちゃんは焔の魔女さんが買い取ったのよ。信じられねぇんなら、これが証拠」
そう言ってからからと笑みを浮かべたアリエスは、胸元から一枚の羊皮紙を取り出してみせる。
特徴的なサインの横に、魔術で付けられた印がぼんやりと輝いている。まさしく焔の魔女のサインで間違いない。
一体何故、焔の魔女が買い取ったのだろうか。大臣のような悪魔族趣味を持っているとは聞いたことがなかった。
この悪魔族は滅多にお目にかかれないような上玉だ。非常に惜しかったが、焔の魔女に逆らえば命はない。
「……ワシも命が惜しい。焔の魔女殿が相手ならば、潔く諦めるしかない」
「一応言っとくけど……本来その兄ちゃんは滅茶苦茶怖ぇからな。意識があったら、今頃あんた殺されてるぜ?」
「おいおい博士よ、いくらなんでもそんなあからさまな冗談を信じると思っているのかね?」
大臣は癇に障る笑みを口元に浮かべながら、名残惜しそうに背を向けて歩き始めた。
その背に対してアリエスは一つ大きな溜息をつき、知らないってことは幸せだねぇ、と小さく呟いたのだった。
・
・
・
「ワシの力でも曲げることはできぬ……か。焔の魔女とやらは、ワシらに一体どんな用があるというのだ」
鉄格子を両手で掴んでいたサキョウが、諦めたように振り返った。
彼は先程から緩んでいる鉄格子はないか、そして力任せに曲げることのできる部分はないかと調べ続けていた。
だが徒労に終わってしまったようだ。それでもサキョウは深刻な表情を浮かべないように努めていたのだった。
最年長である自分が不安な表情を見せれば、ティエルやジハードの不安が更に増幅してしまうだろうと思った。
「……クウォーツとリアン、無事でいるかな」
「ティエル?」
「酷いこと、されてないよね? きっと、無事でいるよね?」
ぼそりと。普段の明るいティエルからは想像もつかないような暗く淀んだ声が響き渡った。
湿ったカビだらけのベッドの上で膝を抱え込み、底知れぬ恐怖と寒さのために彼女は小刻みに震え続けていた。
その隣では依然として厳しい表情を浮かべたジハードが、宥めるようにティエルの小さな肩を抱いている。
「どうしてこんなことになっちゃったんだろう。わたしが悪い子だから、神様が怒っちゃったのかな。
おばあさま達に迷惑をかけ続けていたから、神様はきっとわたしを見捨てて、手を差し伸べてくれないのかな」
「ティエル、それは」
「また何もかも全てを失ってしまうのかな。……ねぇ、怖いよ。怖いよ、もう嫌だよ! 家に帰りたいよ……!」
帰る家など、既にどこにもない。待っていてくれる家族もいない。自分は世界で一人ぼっちなのだ。
何度も折れそうになったティエルの心をずっと支え続けていたのは、ただヴェリオルに対する復讐心のみだった。
だが、それもそろそろ限界だ。あんなにも簡単にヴェリオルに負けてしまった。仇を討つことなど不可能なのだ。
一体何のために旅を続けていたのだろう。鬼神のようなヴェリオルに勝てるわけがない。復讐など夢のまた夢だ。
ぼろぼろと涙を流し続けるティエルの肩を、ジハードは何も言わずに更に強く抱き寄せる。
彼もまた不安であるのだ。けれど彼女の前では不安な表情を浮かべるわけにはいかないと、気を張り続けていた。
サキョウはそんな彼の様子に気付いていた。気付いてはいたが、あえて気付かない振りをしていたのだ。
いくら飄々とした大人びた青年であろうと、サキョウにとってジハードは単なる歳若い青年でしかないのだから。
「……本当に……誰も手を差し伸べてはくれなかったの?」
「え?」
「神様っていう存在はよく分からないけど、今まであなたに手を差し伸べてくれた人は本当にいなかったのかな」
ティエルの肩を抱きながら、黙ったまま鉄格子の外を見つめていたジハードが不意に口を開く。静かな声だった。
彼が口を開いた弾みで、額に貼り付けられている青い呪札がひらひらと揺れていた。
ティエルは思わず目を見開いてジハードを振り返る。……彼が何を問い掛けているのかが分からなかったのだ。
こんなにも絶望のどん底に突き落とされている自分に、手を差し伸べてくれた者が果たして存在しただろうか?
「襲撃された日。城に火を放たれ、周囲は敵だらけ。決してあなたは助かるような状況ではなかったはずだ」
「うん……」
「それでもあなたはこうして生きている。助かるはずのない絶望的な状況だったのに、あなたは生き残ったんだ」
「……」
「それに、誰の手も借りずに旅を続けてきたと思っているようだけど、リアン達がいなければ行き倒れていたよ」
「……!」
「サキョウが倒れた時、クウォーツが刺された時、リアンが連れて行かれた時。
今回ティエルの取り乱し方を見ていて確信したよ。あなたにとって彼らの存在が全てで、生きる理由なのだと。
彼らと出会えたから、絶望していたあなたは生きる喜びを手に入れることができたんじゃないのかい……?」
……ジハードの言うとおりだった。あまりにも自然に身近な存在になりすぎていて、彼女は気付かなかったのだ。
全てを失い、絶望と不安で押しつぶされそうだったティエルを今日までずっと支えてくれたのはリアンだった。
兄を喪っても尚ティエルを責めることもせず、父親のような包み込む優しさを教えてくれたのはサキョウだった。
悪魔族だから、人間だから。そんな垣根を越えて守りたいと、側にいてほしいと思った存在はクウォーツである。
癒すことも守ることだと。己が身を省みずして、他人を癒し守ろうとするジハードの姿が頭から離れなかった。
彼らが隣にいるのは当たり前だと思っていた。……今頃になって漸く気付くなんて、なんて馬鹿なんだろう。
一人でここまでやってこれたわけじゃない。一人ぼっちなどではなかった。
神が自分を見捨てて誰も手を差し伸べてくれなかったなどと、ジハードやサキョウの目の前でよく言えたものだ。
「……わたし、馬鹿だ。そんなことに気付きもしなかったなんて。だから、罰が当たったんだ……」
「お前は身も心も疲れているのだ。今は、全てを忘れてゆっくりと休め」
「サキョウ」
「ワシは気の利いた言葉一つ思い浮かばぬが、こうしてお前の側にずっと寄り添ってやることだけはできる」
ぼろぼろに朽ちた毛布を手繰り寄せたサキョウは、それを小刻みに震え続けるティエルの肩へ優しくかけてやる。
饐えた悪臭のするぼろ毛布であったが、ないよりはずっといい。少なくとも、僅かに寒さは凌げる。
ありがとう、と鼻の詰まった涙声で呟いたティエルは、サキョウの大きな身体に寄り掛かりながら目を閉じた。
相当疲労しきっていたのだろう。すぐに静かな寝息が聞こえ始める。
「疲れていたんだね。今回の敗因は極度の疲労だよ。……そうでなければ、あんな奴らに負けるはずがなかった」
安らかな表情で眠るティエルの顔をじっと見つめながら、重苦しくジハードが口を開いた。
バアトリは相当の強敵であった。少しでも手を抜けば、瞬時に殺られていただろう。皆全力で戦い続けていた。
ヴェリオルの力は未知数だが、万全のクウォーツならば完膚無きまでに叩きのめされることはなかったはずだ。
「ぼくだってもっと上手く立ち回れたかもしれない。あんなドジを踏まなければ、みんなをフォローできたのに」
「おい」
「何が稀代の癒術師だ。そう呼ばれていい気になっていても、肝心な時に役に立たないんじゃ……ただの馬鹿だ」
「あのな、ジハード」
「ぼくとリアンが檻に閉じ込められていなければ、クウォーツにあれほどの負担をかけることもなかった。
もしも彼が毒のために命を落とすようなことになれば、全てぼくが悪い。ぼくがあいつを死なせてしまっ……」
「ジハード!」
膝を抱えたままぶつぶつと己を追い詰め始めたジハードの頬を、サキョウは力を入れずに窘めるように叩いた。
ティエルの前で気丈な振りをし続ける必要がなくなったためだろう。ジハードは歳相応の青年の姿に戻っていた。
頬を叩かれ彼は、はっとした表情でサキョウを振り返る。我に返ったのだ。
「ジハード、お前はそれでもよくやってくれたじゃないか。お前がいなければ全員死んでいた場面も多くあった」
「……」
「大丈夫。必ず生きてここから抜け出そう。そのためには、ティエルだけでなくお前にも休息は十分に必要だ」
ああ、と力なく頷いたジハードの身体をサキョウは己に引き寄せ、眠るティエルと共に二人を強く抱きしめる。
穏やかなサキョウの声を聞いて安心してしまったのか、ジハードの身体から段々と力が抜けていくのが分かった。
己に寄り掛かりながら眠る二人を見つめ、サキョウは必ず守り抜いてみせる、と心に誓ったのだった。
+ Back or Next +