Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第9章 焔の王国ゾルディス
第98話 Quartz and Leann
辺りに充満する、耐え難い死臭と腐臭。
間違いなく人間が腐敗した、強烈な悪臭が漂う『汚物収容所』。病魔に侵された罪人達が収容される場所だった。
汚物の撒き散らされた狭い通路を挟んで、左右に同じような独房が延々と続く。まさにこの世の地獄である。
呻き声、呪いの声、響き渡る奇声。どうか殺してくれと叫ぶ悲痛な声が、いつまでも鳴り止まずに反響していた。
その地獄の門の入口で、二人の人物が向かい合っていた。
一人は完璧な肢体と長いハニーシアンの髪を持った美しい女。もう一人は大きな緑の帽子を被った青年であった。
リアンとアリエスの二人である。アリエスは懐からごそごそと小さな瓶を取り出すと、彼女に差し出した。
「これが牢の鍵で、こっちが解毒剤だ。効果は薬師の折り紙つきだけど、効くまでに少なくとも一日はかかるぜ」
「……感謝いたしますわ、アリエス博士」
「あんたのためにやってるんじゃねーし、礼を言われる筋合いはねぇ。でも変な気だけは起こさないでくれよ?」
「分かっていますわよ」
炎の宿った燃えるカーネリアンの瞳をアリエスに向け、リアンは彼から解毒剤を引っ手繰るようにして奪い取る。
そして振り返りもせず彼女は地獄へ続く通路を迷いもなく進んでいく。
普通の神経の持ち主ならば一日も持たずに気が触れてしまう場所。ゾルディスの闇の部分が集約した場所だった。
紫に変色した腕が左右の牢から伸びて彼女の髪をぐいと掴むが、振り返った彼女の瞳に恐れ戦き腕を引っ込める。
邪魔をするな。お前達に構っている時間は一秒たりとも存在しない。そんな凄まじい気迫が感じられる瞳だった。
長い通路を中ほどまで進んだ頃だろうか、やがてリアンは一つの独房の前で立ち止まった。
灯されている松明のために独房の中はぼんやりと照らされており、中で死んだように横たわる青年が瞳に映った。
彼の姿を目にした途端に、リアンの感情を焦りが支配する。震える手で鍵を差し込むが、なかなか開かない。
「クウォーツ!」
解錠を知らせる音が鳴り響くと同時に、感情を抑えることのできなくなったリアンは牢の中へと飛び込んだ。
彼女が駆け寄ってもクウォーツは反応を見せない。随分と着衣が乱されているのは、まさかブノワ大臣の仕業か。
汚い手でよくも彼に触れたなと腸が煮えくり返るが、事に及ぶ寸前で阻止できたとアリエスは言っていた。
そんなことよりも、まずは彼の容態が優先だ。高熱で上気した顔に、発汗のために脱水症状を引き起こしている。
「もう大丈夫、大丈夫だから。あなたは助かるの。助かるから……!」
アリエスから受け取った解毒剤の蓋を開け、彼女はクウォーツの背に手を回して上半身をゆっくりと起こした。
だがいくらクウォーツが細身の体格といえども、非力なリアンが男の身体を支え続けるのはかなり苦しい。
それでも力を振り絞って支え続け、小さく開かれていた口へ薬を流し込むが、彼は咳き込んで吐き出してしまう。
解毒剤を異物と認識してしまったようだ。薬を手に入れても、彼が飲み込んでくれなければ全く意味がなかった。
……どうしたら、どうすればいい。飲み込ませるためには、吐き出させないようにするには一体どうすればいい。
焦りのために思考が纏まらない。こうしている間にも、死は確実にクウォーツを蝕み始めているというのに。
暫く解毒剤の入った瓶を睨み付けていたリアンだが、やがて彼女は瓶に口を付けてその中身を一気に含んだ。
そしてそのまま口に含んだ解毒剤を彼の口へと流し込んだのだ。
やはり反射的に薬を吐き出そうとするクウォーツだったが、リアンは彼の唇を塞いだままそれを許さなかった。
塞がれた口の脇から僅かに溢れ出した解毒剤が、彼の首筋を伝って冷たい石の床に小さな水滴を落としていく。
……こくり、と微かにクウォーツの喉が鳴った。
どうやら彼の口内に解毒薬は残っていないようだ。飲み込ませることができた。これで彼は助かる。助かるのだ。
クウォーツから恐る恐る唇を離したリアンは、全身の力が抜けたかのように思わずその場に座り込んでしまった。
解毒剤を飲んだからといっても、まだ安心はできない。効果が出るまでに一日はかかるとアリエスが言っていた。
後は待つしかない。……ただじっと、彼が意識を取り戻すまで側にいて、いつまでも待ち続けるしかなかった。
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どのくらいの時間が経ったのだろう。
一日、またはそれ以上経過したのか。リアンにとっては恐ろしいほどに長く、気の休まることのない時間である。
己の膝の上にクウォーツの頭を乗せて、彼の手を握り続けながら在るはずのない神にひたすら祈るだけであった。
同じ体勢を続けていたために身体の至る所に痛みが発している。それでも彼が目覚めるまでただ待ち続けていた。
その時。握り締めていたクウォーツの手が、僅かに動いたのだ。
ゆっくりと彼の目が開いていく。まるで硝子のように透き通った薄青の瞳は虚ろで、焦点が全く定まっていない。
リアンを映しているようで、何も映してはいない虚ろな瞳。恐らく自分の状況すら理解していないのだろう。
「クウォーツ?」
小さな声で、できる限り優しさを込めた声で。呼び慣れた彼の愛称をそっと口に出してみる。
虚ろな瞳が彼女に再び向けられた。口を小さく開き、彼が何かを伝えようとした瞬間に激しく咳き込んでしまう。
猛毒の後遺症なのか、上手く声が出せずにいるようだ。リアンはそっと水差しの中身を彼の口に含ませてやった。
「……う……ぁ……」
「大丈夫。ゆっくり、焦らずに一語ずつでいいの、クウォーツ。必ず声は出るから」
「こ……」
「そう、そのまま力を入れずに。小さく息を吐くようにして、声を出すの」
「……こ、こ……は……」
たどたどしくやっとのことでクウォーツが搾り出した言葉は、ここはどこだという意味の込められた言葉である。
無表情ながらも毅然とした普段の彼からは想像もつかぬほど弱々しくか細い声だった。
「ここは焔の王国ゾルディスの地下牢ですわ。私達はヴェリオルに負けて、無理矢理連れて行かれてしまったの」
「……か、の」
「他のみんなは全員無事よ、別の牢に捕まっているの。……もう、馬鹿ね。まずは自分の状況を確認するでしょ」
やはりこの青年は、自分自身に関心がないのだとリアンは改めて思い知らされた。
幸せになることを完全に諦めてしまっている。幸せになるために足掻こうともしない。それがとても哀しかった。
もう一度だけ小さく、馬鹿ね、と呟いたリアンに向かって、クウォーツは震える手を伸ばして彼女の頬に触れる。
『無事で、よかった』と。彼は何一つ声に出してはいないが、そんな意味が込められているような気がした。
じっとりと汗ばんだ、熱の感触。その彼の手に優しく触れるように、愛しむように、リアンは自分の手を重ねる。
クウォーツが毒の短剣で刺された時、確かな恐怖を覚えた。彼を失ってしまうのではないかと心底恐怖を覚えた。
こうして手を握っていなければクウォーツを永遠に失ってしまいそうで、彼女の心は不安で張り裂けそうだった。
「あなた、あの時本当は体力なんて殆ど残っていなかったんでしょう。それなのに敵を一人で引き受けちゃって」
「……」
「大して強くもないくせに。……格好つけていつも無理を重ねてばかりいるから、こんなことになるんですのよ」
呆れたように大きな溜息をついたリアンであったが、その表情は優しく穏やかだった。
彼女に何かを伝えようと口を開きかけたクウォーツに、身体に障るからもう話さないで、と彼の唇に指で触れた。
途端に先程の行動がリアンの脳裏に蘇る。咄嗟とはいえ、随分と大胆な行動を取ってしまったような気がする。
……思い返しただけでも、彼女の意思とは裏腹に顔が赤くなる。男を知らぬ無垢な少女でもないというのに。
たかが口移しで彼に薬を飲ませたというだけで、まるで生娘のように顔を紅潮させてしまうとは滑稽な話だった。
この美貌と身体で多くの男達を手玉に取り、意のままに操り続けてきたリアンとは思えぬ初心な反応である。
クウォーツを前にすると調子が狂う。こんなにも胸が締め付けられるような苦しい感情を抱いたことはなかった。
彼女がイデアを探し求める発端となった『あの方』にも、今までの恋人達にも抱いたことがない感情である。
この感情の正体が一体何というものなのか、今のリアンにはまだ分からなかった。そして知ろうともしなかった。
知ってしまうのが怖かった。……己の目的の一番大切な部分を覆してしまいそうで、知るのがただ怖かったのだ。
「でも……あの時」
「……」
「もしも窮地に立たされたのがティエルではなくて、私だったら……あなたは同じように守ってくれたかしら」
ぼそり、と。果たしてクウォーツに問い掛けたのか、それとも単なる独り言だったのか。
乱れた彼の青い髪を優しく梳かすように手櫛を入れながらリアンは口を開いた。元より返事など期待していない。
それでも知らぬ間に口が勝手に言葉を紡ぎ出していた。そしてきっと、彼は何も言葉を返すことはないだろう。
そう、思っていたのに。
「……ま……」
「えっ?」
「……守って……やるよ」
残る力を全て振り絞ってリアンに応えようとしたのだろう。
次の瞬間。張り詰めていた緊張の糸が切れたようにクウォーツの身体から力が抜け、彼は意識を手放していた。
リアンの背に思わず冷たい汗が流れ落ちるが、どうやら意識を保つ力すら使い果たしてしまっただけのようだ。
「本当は口を開くのも辛かったくせに。……あなたってほんと、どうしようもないくらい強がりなんだから……」
滲んでしまった涙を誤魔化すように、リアンは力を失ったクウォーツの身体を強く抱きしめた。
本当は離れたくない。このまま彼の側にいたい。だがアリエスは言った。『変な気だけは起こさないでくれ』と。
……そろそろ行かなければならない。傍らの毛布を手繰り寄せたリアンは、その上に彼の身体を静かに横たえる。
暫くの間は彼の身に危険が迫るようなことはないはずだ。……だから、今だけはゆっくりと眠っていてほしい。
感情が欠落しているために大きく誤解されやすいが、決してクウォーツは疲れを知らぬ人形ではないのだから。
哀しげな笑顔を浮かべ、リアンは別れを惜しむかのようにクウォーツの閉じられた瞼にそっと口付けたのだった。
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