Lord of lords RAYJEND 第一幕「旅の幕開け」 第9章 焔の王国ゾルディス

第99話 Lady Rienalotte




古びた燭台の上に乗った蝋燭の頼りなげな明かりが、風もないのにゆらゆらと揺れている。

その揺らめく橙色の光を、微動だにせずただ頬杖をつきながらぼんやりと無表情で見つめている人影が……一つ。
まるで少年のような幼い顔立ちに、若葉色の丸い瞳。乱雑に切り揃えられただけの茶色の髪。アリエスである。
そんな彼の傍らには、古びて草臥れてしまった大きな緑色の帽子が無造作に置かれていた。

蝋燭の炎を瞳に映しながら、アリエスは本日何度目かになる深い溜息をつく。幸せが逃げていく? 知るものか。
しかし溜息を何度ついたからといっても、彼の頭を数日前から悩ませている物事が解決するわけではない。
その当たり前の事実に今更ながら気付いたアリエスは更に落胆し、自室の書斎机に突っ伏してしまうのであった。

表の顔は考古学者アリエス=ファレル博士。魔物考古学の界隈では、少しばかり名の知れた存在である。
そして裏の顔は、焔の王国ゾルディスの宮廷魔術師だ。
魔術師団に所属しない一介の魔術師だが、アリエスは過去の功績からブノワ大臣と同等の地位を与えられている。


アリエスに与えられたゾルディス国の一室。
普段は荒野でテント暮らしを好んでいるアリエスにとっては、あまり寄り付かない第二邸宅のようなものだった。
古びた本がぎっしりと詰め込まれた本棚が立ち並び、古本独特の臭いとカビの臭いが部屋中に充満している。
この分では殆ど換気などしないのだろう。本来窓がある場所には本が積み上げられ、窓の役割を果たしていない。

「どうすっかなぁ……これ以上の肩入れは明らかに反逆罪だよな。ヴェリオルの旦那に絶対殺されるよな、オレ」

ブノワ大臣からクウォーツを買い取ったのは焔の魔女だ。彼女の思惑は知る由もないが、ここまではまぁいい。
しかし解毒剤を渡したのは、完全にアリエスの独断である。
ヴェリオルの隙を見て逃げ出してきたリアンと落ち合い、彼女に解毒剤を渡した。正直肩入れしすぎてしまった。


その時である。……彼の部屋の扉が小さくノックされたのだ。
基本的にアリエスは、誰であろうと己の部屋への来訪を快くは思わない。掃除の召使いすら入室を許さなかった。
しかも時刻は既に深夜である。随分と非常識な夜の来訪者に、アリエスは不機嫌を隠そうともせずに口を開いた。

「こんな時間に誰だよ……良い子は寝る時間だぜ?」
「アリエス博士、夜分遅く申し訳ございません。ですがお嬢様がどうしても今すぐに会いたい、と仰られたので」
「ああん?」

扉の外側から聞こえてきた召使いの声。
こんな夜分にアリエスを訪ねてくる『非常識なお嬢様』に該当する人物は、彼の知る限り一人しか存在しない。
やれやれうちのお嬢様には敵わねぇな、とアリエスは漸く普段の笑みを浮かべながら口を開いた。


「リナだろ? 入ってこいよ」
「アリエスおじうえ、こんな夜更けにすまんのう。おじうえは多忙の身ゆえ、なかなか話ができなかったのじゃ」
「話ができなかったって……昼間、中庭で会って雑談しただろぉ?」
「あの時はダフネもいたではないか。あやつのいる前では、込み入った話が全くできなかったのじゃよ」

若い女の声にしては些か低い、そして凛とした声である。
頭を下げて去っていく召使いに軽く手を振った人物は、ずかずかと遠慮なくアリエスの書斎へ足を踏み入れた。
蝋燭の炎に照らし出されたのは一人の女だった。癖の強い茶髪を背後で束ね、すらりとした長身の若い娘である。

凛々しく吊りあがった眉に、涼しげな目元は勝気な印象が強い。そして彼女はアリエスにとてもよく似ていた。


「それにしても……いつ訪れても辛気臭い部屋じゃな。やはりおじうえには召使いのヨシノさんが必要じゃのう」
「おいおいリナちゃんよ、まさかお小言のために来たんじゃねーだろうなぁ? 伯父さん落ち込んじまうぜ」
「そうじゃ」
「え、マジかよ!?」
「……というのは勿論冗談じゃよ。このリーナロッテが、そんな用事で深夜にわざわざ来訪するはずなかろう」

リーナロッテと名乗った娘は、ふふふと笑みを浮かべてから、本の積み上がったベッドの上に勢いよく腰掛けた。
その途端に細かい埃が舞い上がる。やはり少しくらい掃除をしろと、思わず彼女は小言を口にしたくなったが。


「漸く長い遠征から戻ってきたというのに、城の中が普段よりも慌しくて落ち着かぬわ」
「そ……そうかね? オレには普段と変わらないように思えるぜ。リナちゃんも普段と変わらず可愛いし」
「誤魔化すな、おじうえ。……あのヴェリオルが自ら出向き、全員生かしたまま捕らえた者達がいるようじゃな」

「いたような……いないような? オレは知らねぇなー」
「ヴェリオルが動くほどの相手とは一体何者なのじゃ? しかも捕らえる際、黒騎士も何名か殺られたと聞く」

さすがアリエスの姪である。
必死に誤魔化そうとしているアリエスの態度など軽やかに受け流し、ぐいぐいと容赦なく鋭い追求を続けている。
勿論彼も話題を逸らそうと負けてはいないが、姦計に長けたアリエスにしては誤魔化しきれていなかった。


「熊みてぇなおっさんに、顔は良いけど腹黒男と人形みてぇな兄ちゃんだったぜ? リナの好みじゃねぇだろ」
「ほう、確かにわらわの好みではないが……ダフネが聞いたら喜ぶタイプの男達じゃな」
「そうそうリナちゃんの大好きなワイルドで渋い男は一人もいねぇから、どうでもいいじゃんよ。ほっとけって」

「それは残念だのう……って、わらわはそのようなことを聞いているのではないのじゃ!」
「えぇ? じゃあ何が聞きたいってんだよー」
「……何か隠しておるのか? おじうえが誤魔化す時は、いつも危険なことに首を突っ込んでいる時だからのう」


じっと真剣な眼差しでアリエスを見つめるリーナロッテ。
巷では姦計の古狸と呼ばれるアリエスでも、さすがに血の繋がった姪であるリーナロッテには勝てないようだ。
彼女の性根と同じく真っ直ぐすぎる突き刺さるような視線を受けて、彼はどこかばつが悪そうな笑みを浮かべた。

「リナちゃん、ひどいなー。もしかしてオレを信用していないのかい?」
「別に信用していないというわけではないのじゃよ。おじうえのことは誰よりも信用しておるし、信頼しておる」
「そりゃありがてぇな」
「信頼はしておるが……」

己の髪の先端を弄びながら、リーナロッテは涼しげな印象の強い瞳をすっと細くさせる。

「わらわはおじうえが心配なのじゃ」
「へ?」
「おじうえのことはずっと昔から父だと思っておる。……頼むから、このリナに黙って危険なことはせんでくれ」
「……リナ」

リーナロッテは父親の顔を知らない。彼女が赤子の頃からアリエスが引き取って育ててきたのだ。
彼女にとって父といえる存在は、顔も知らない実の父よりも、ずっと愛情を注いで育ててくれたアリエスなのだ。

そして勿論アリエスもリーナロッテを実の娘のように思っている。……少々過保護で溺愛している部分もあるが。
彼女を傷付けた邪教・サバトの福音を、封魔石イデアと引き換えにしても必ず壊滅させてやろうと誓うくらいに。
だからこそ、彼女を危険に巻き込みたくないと思うからこそ、アリエスは彼女に対して秘密を多く抱えている。


「少しでもおじうえの力になりたくて、わらわがここにいることを……くれぐれも忘れないでほしいのじゃ」
「……オレには、リナのその気持ちだけで十分なんだけどな」
「何か言ったかおじうえ?」
「いーや、何でもねぇよ。リナはオレに似ず、性根の真っ直ぐとした親思いのいい子に育ってくれたなぁってね」

リーナロッテには聞き取れぬほど小さな声で呟いたアリエスは、内心を悟られぬようにからからと明るく笑った。
普段と変わらぬ伯父の笑顔に、リーナロッテは訝しく思いながらも笑みを浮かべる。
大切な相手には笑顔でいてほしいと思うものだ。傍目からは伯父と姪ではなく、弟と姉に見える二人であっても。


アリエスがこれから行おうとしていることは、危険なことはするなと心配する姪を裏切ってしまう行為になる。
ティエル達に対してこれ以上の肩入れは、明らかにヴェリオルに対する反逆であり彼に殺される可能性もあった。
ほんの少しの間行動を共にしただけで情が移るなんて、普段のアリエスらしからぬことであった。

……正直に言えば、彼らと共にいて楽しかった。久々に冒険者時代に戻った気がした。理由はただそれだけだ。
二度と出会うことのないはずであったジハードと再び出会うことになったのも、ただの偶然ではない気がした。
運命という言葉はあまり好きではないが、偶然ではない何かを感じた。己の状況を変えてくれるような何かを。

「おじうえは己を卑下するが、わらわを性根の真っ直ぐとした親思いの娘に育ててくれたのはおじうえ自身じゃ」
「ん、まぁそうだけど」
「子は親を映す鏡というじゃろう? だからもっと自信を持ってほしい」
「反面教師という言葉も世の中にはありましてね……」
「おじうえ!」

リーナロッテは思わず鋭い瞳で伯父を睨み付けるが、やはりアリエスは彼女の視線を軽やかに受け流していた。
これ以上は伯父に何を言っても恐らく無駄であろう。そして彼は大切なことは何も話してはくれない。
根負けしたリーナロッテは静かにベッドから立ち上がると扉に向かって歩き始め、それから一度だけ振り返った。

「死ぬなよ、おじうえ」
「……あいよ」

緊張の欠片もない台詞と表情のまま、アリエスは彼女にひらひらと手を振ってみせる。
深く溜息をついて目を伏せたリーナロッテは、もう二度と振り返るようなことはせずに伯父の部屋を後にした。





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