Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第2章 死神に捧ぐバラッド

第12話 死するもの達の誘い -2-




絞り出すようにして発せられた己の声で、ティエルは勢いよく飛び起きる。背中にじわりと広がる嫌な汗の感覚。
酷い悪夢を見ていたような気がする。内容は覚えていなかったが、恐ろしい悪夢だったことだけは確かだった。

周囲を見渡しても眠る前と何も変わった部分は見受けられない。
玄関ホールから向かって右の応接間。細々と燃え続ける暖炉の火。吊るされた衣服。L字型の大きなソファー。
斜め向かいでは、ジハードが全く変わらぬ体勢のまま熟睡している。奇妙なほど静まり返り、雨音も聞こえない。

雨は既に止んでいるのだろうか。所々ひびの入った窓ガラスは汚れで黒ずんでおり、外の様子は分からなかった。
この館に辿り着いてから一体どのくらいの時間が過ぎ去ったのだろうか。まだ夜が明けていないことは確かだ。
古めかしい壁掛け時計は完全に止まっており、二十二時過ぎでその針を止めている。


悪夢によって汗をかいてしまったため、できれば水場で洗い流してから再び眠りにつきたい。
幸いにもこの館の洗面所の場所は分かっている。水瓶の中に、先程衣服を絞った雨水が大量に残っているはずだ。
ゆっくりとソファーから身を起こしたティエルは一歩足を踏み出した。埃っぽいが、ふかふかとした絨毯である。

暗い屋敷の中を一人で進むには少々勇気が必要だったが、近くにはジハードがいるのだ。何も怖いことなどない。
万が一何かが起こったとしても、大声を上げれば来てくれる。……彼がすぐに目覚めてくれたらの話であるが。
ジハードの寝起きは悪い。その上雷鳴が響いていても平然と眠り続けることができる図太い神経の持ち主だった。
寝起きから常に元気が満ち溢れているティエルにとって、信じられない話である。


……かたん。


微かに音が鳴った。思わずぎくりと歩みを止めたティエルは、油の切れたブリキ人形のように背後を振り返る。
暖炉のか細い火によって、ソファーで眠り続けるジハードの姿が照らされている。吊るされた服もそのままだ。
音の鳴った位置からすると、この応接間ではなく少し離れた場所だろう。どうやら正面玄関でもなさそうだ。

洗面所の位置する左側の廊下の奥か、それとも二階か。どちらにしてもティエルに確かめる気は毛頭もない。
そして洗面所へ一人で向かう気力すらも打ち砕かれてしまった。
一人で起きていることに耐えられなくなったティエルは、少々気が引けたがジハードを起こすことに決めたのだ。


「ジハード、起きて。ねえ、お願いだから起きてってば」
「……」
「さっき物音がしたの。もしかしたら魔物かもしれないし、強盗かもしれない。無防備に寝てる場合じゃないよ」

「なに、もう朝……?」
「朝じゃないけど、ちょっと起きてほしいの。物音がしたから一緒に様子を見に行こうってば」
「……朝じゃないならどうでもいいよ……」

凄まじく寝ぼけた声である。目を開けることすらせずに、いやいやをしているかの如く首を振っているだけだ。
これが残念な美青年と呼ばれる最大の理由である。この姿を、彼のファンだと豪語する侍女達に見せてやりたい。
再び深い眠りに入ろうとするジハードを、何がなんでも止めなければならなかった。


「どうでもよくないの! 異常がないか確認してから、安心して眠ろうよ。このままじゃ気になって眠れないよ」
「んー……」
「服も乾いてるみたいだし一応着ておこうよ。もし襲われたとしても、すぐに戦えるようにしておかないと!」
「……なんだよ……異常の確認くらい一人でもできるだろ? 泥棒だったらついでに倒しておいてくれよ……」

漸く根負けしたのか寝ぼけ眼のままジハードは面倒くさそうに身を起こし、寝癖でぼさぼさの髪に手櫛を入れた。
ティエルから押し付けられた衣服に、のろのろとした動作で袖を通す。確かにすっかり乾いているようだ。


「もしかして怖いのかい? 幼い子供じゃないんだから、これも試練だと思って一人で行ってきたらどうだい」
「幼い子供じゃなくても怖いものは怖いの! こういう時は、できるだけばらばらに行動しない方がいいよ」
「確かにそうだけど……なんだか上手く言いくるめられた気がしなくもないけど、分かったよ。一緒に行こう」


紺の腰帯をきゅっと結び、ジハードは静かに立ち上がる。
穏やかな雰囲気を纏ってはいるが、全く隙のない動作だ。常に周囲の様子を探っている普段の彼に戻っている。
その時ジハードにも感じたのだ。こちらの様子をそっと窺っているような、纏わり付くような誰かの視線を。

応接間を後にして、正面ホールまで戻る。左側の廊下の先には洗面所、バスルーム、そして食堂が続いていた。
洗面所は先程使用したまま変わった様子は見られない。その奥のバスルームも、蜘蛛の巣が張っている状態だ。
一際荒れ果てた食堂に、食器類が散らばっているキッチン。誰かが潜んでいる様子はなさそうだ。

一階部分に異常は見当たらない。だとすれば、残るは二階だ。正面ホールの中央には二階へ続く大階段があった。


「音がしたって言っていたけどさ、それはどんな音だったんだい? 単なる風の音かもしれないだろ」
「風の音っていうか……ものが倒れたような音だった気がするんだけどなぁ」
「窓ガラスが完全に割れている部屋があって、雨風が吹き込んで部屋の中のものが落ちたとかも考えられるよ」
「それならそれでいいんだけど」


大階段をゆっくりと上がっていく。相当古い家なのか、一段上がるごとにぎしぎしと軋んだ音が辺りに鳴り響く。
雨は更に激しくなってきているようだ。先程までは聞こえなかった雨音や雷鳴も軋んだ音に混じり聞こえてくる。

二階に辿り着くと、階段を中心として左右に長い廊下が続いていた。
その中で一つだけ半開きの扉があった。左側の廊下の奥の部屋だ。きいきいと音を鳴らしながら扉が揺れている。
どうやら音の原因はこの部屋で間違いがなさそうだ。原因が分かれば、ティエルの胸に安堵が押し寄せてくる。


「なーんだ! やっぱりジハードの言ってたとおり、この部屋の窓ガラスが割れて風が入っていただけなんだね」
「人を叩き起こしておいて、原因が分かった途端に元気になるんだから……」
「一応窓ガラスの様子を見ておいた方がいいよね。ほらジハード、立ち止まっていないで早く行こうってば」
「おいおい押すなって」

ぐいと背中を押してくるティエルに、ジハードは半ば呆れたような溜息をついた。
確かに不気味な雰囲気が漂う屋敷ではあるが、単なる廃屋に過ぎない。アンデッド兵が潜んでいるわけでもない。
かつてはそれ以上の恐怖を味わっているはずなのに、何故この屋敷を怖がるのかとジハードは首を傾げていた。

ティエルに押されながら渋々と廊下を進んでいったジハードは、半開きの扉にゆっくりと手を伸ばした。その時。


「……あら、珍しい。こんな時間にお客様?」
「!!」

突然背後から声が聞こえたのだ。それもティエル達を怪しむような声ではなく、まるで客を歓迎するような声だ。
気配はない。さすがのジハードも凍り付いたように動きを止め、背後のティエルは彼の腕にぎゅっとしがみ付く。
恐る恐る二人が振り返ると、いつの間にか背後には燭台を手にした女が立っていた。

年齢は四十代後半くらいだろうか。長い黒髪を丁寧に結った温和そうな表情で、きちんとした身なりの女である。
恐らくこの家の家主が戻ってきたのだろうとジハードは推測した。傍から見れば自分達の方が怪しい存在だ。
まずはこちらが怪しい者ではないことを理解してもらわなければならない。


「勝手に入ってごめんなさい! 町の人から廃屋だって聞いていたから、雨宿りさせてもらっていただけなの!」
「本当に申し訳ない。ぼくらは決して怪しい者じゃないんだ、なーんて言っても信用されないかもしれないけど」

「……うふふ、気にすることはないのよ。このお屋敷って外から見るとまるで廃屋のように見えるでしょう?」
「まるで廃屋っていうか、十年くらい誰も住んでないって町の人から聞いたけど」
「確かに住んでいないけれど、時々様子を見に来ているのよ。定期的にお掃除しないと家はすぐに駄目になるの」
「まぁ確かにそうだね」

勝手に入ってしまった手前、素直に非礼を詫びるしかない。
何度も頭を下げるティエル達だが、女は怪しむ素振りもなく、むしろ彼女らを歓迎しているようにも見えたのだ。
荒れ放題の庭にひび割れた窓。外観だけならば、お化け屋敷のようなこの館を無人だと思わない方が無理がある。


「外は雨で大変でしたでしょう? もうすぐ主人も戻ってきますし……応接間の暖炉で温まってくださいな」
「すまない、暖炉は勝手に使わせてもらっていたんだ」
「あら、そうなのね。もしかして薪、だいぶ湿気っていたんじゃないかしら? 新しい薪も沢山持ってきたのよ」

どうやら追い出されずに済みそうだ。それどころか屋敷に勝手に入ったティエル達に対して随分と好意的である。
にっこりと笑みを浮かべた女は、燭台を手にしながらゆっくりと廊下を進んでいく。

「……ねぇ、ジハード」
「うん?」
「お化け屋敷みたいに怖がって失礼だったよね。お化け屋敷どころか、こんなにいい人が住んでいたのに」
「怖がっていたのはあなた一人だけだと思うけど。あの荒れ放題の庭を見たら、誰だって廃屋だと勘違いするぜ」


こそこそと耳打ちするティエルとジハードを、前方を歩く女が唐突に振り返った。

「そうだわ! 折角の珍しいお客様なのだから、娘にも挨拶をさせなくちゃ。本当に天使のように可愛い子なの」
「娘さん?」
「ええ。お嬢さんと年齢も同じくらいで、身体が弱い子なんだけど……きっと新しいお友達ができたら喜ぶわ!」

しかし身体の弱い娘を、廃屋同然の屋敷に連れてくるものなのだろうか。埃っぽい上に窓もあちこち割れている。
療養の環境を考えると最悪だ。天使のように可愛いと溺愛する娘を愛していないはずがない。なのに何故だろう。
どうやら先程半開きになっていた扉が娘が使用している部屋らしく、女は溜息と共に肩を落とした。

「まぁ、あの子ったら。扉を開けっぱなしにしてお行儀が悪いわ。普段はとてもいい子で、お行儀のよい子なの」





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