Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第3章 戦慄のゴールドマイン
第20話 黒髪のロイア
こんな寂れた墓地の真ん中に、ぽつんと一人の女が立っていた。
風に靡いている艶やかで長い黒髪は、まるで意思を持ったかのように一本ずつ複雑に蠢いているようにも見える。
白磁の肌。いや……白磁を通り越して、死人と見紛うほどの土気色の肌だ。もしや彼女は生ける屍なのだろうか。
ひらひらとした白い布を重ね合わせたような体型の分かりにくい衣服だが、それでも彼女は随分と華奢であった。
その亡霊じみた黒髪の女は、真新しい簡素な墓の前で手を組みながら祈りを捧げるようにして目を閉じている。
何故こんな場所に女が一人でいるのだろうかと首を傾げるジハードを余所に、ティエルは彼女に歩み寄って行く。
大きな足音を立てていたティエルだが、それでも黒髪の女は気付く様子もなく目を閉じている。
「……ねえ、黒髪のおねえさん。ここは危険だよ。怖い人たちがいるんだって。だから早く逃げた方がいいよ」
女の前で立ち止まったティエルは、恐る恐る声を掛けた。
今は姿が見えなくとも、男の言っていた『あいつら』が現れるかもしれない。無防備な女が一人では危険すぎる。
暫くの間。ティエルの声にも全くの無反応であった女だが、やがてゆっくりと閉じていた目を開いて顔を上げた。
まるで童女のような女だった。濡れた黒目がちな瞳に幼い表情。年齢は恐らく三十代後半だろうか。
れっきとした大人の女であるはずだが……彼女が纏っているあどけなさが、まるで童女か小動物のようだった。
風で靡いている長い黒髪は魔女を連想させるが、その顔立ちは儚く。庇護しなければならない感情を抱かせる。
「まあ……」
「えっ?」
「嬉しいわ、やっと巡り合うことができた……わたくしの大切な人」
突如女から抱きしめられた。ふわりと髪が舞う。華奢な身体は待ち人に出会えた喜びで小さく震えているようだ。
だがティエルには全く身に覚えがない。どこかで彼女と出会ったことがあっただろうか。忘れているだけなのか。
いくら思い出そうとしても、やはりこの女の顔に見覚えはない。誰かと間違えているのだろうか。
「ちょ、ちょっと待って! 誰かとわたしを間違えてるんじゃ? だってわたし、おねえさんのこと知らないよ」
「知らない……?」
「うん。おねえさんとは今日初めて会ったと思う。だって、そんな長い黒髪をしたひとを忘れるはずがないもん」
「やだ……どうしましょう。わたくしったら大切なお客様に失礼なことをしてしまって……」
困ったようにおろおろとしている女に、ティエルとジハードは顔を見合わせる。お客様とは一体どういうことだ。
少なくとも彼女からは悪意が全く感じられない。敵ではないだろう。しかし、こんな場所にいるのは怪しすぎる。
中毒症状の紫色の斑点も、アンデッドから受けた傷もない。果たして彼女はゴールドマインの住人なのだろうか。
もしかしたら、恐怖のあまり狂ってしまった生き残りの住人なのかもしれない。
「お客様って言われても、別にわたし達は呼ばれてここに来たんじゃないんだけどなぁ。やっぱり人違いだよ」
「いいえ、あなた達はわたくしの大切なお客様。取り乱してしまってごめんなさいね」
「それはいいんだけど……」
「この町はもうお終いです。直に世界を蝕む恐ろしい存在が復活するでしょう。早くここからお逃げください」
柔らかな笑顔。こんな屈託のない笑顔を眺めていると、やはり彼女が悪い人間とは到底思えないのだ。
ただ純粋にティエル達の身を案じているようである。しかし逃げろと言われても、逃げるわけにもいかなかった。
なかなかこの場から立ち去ろうとしないティエル達の様子に気付いた女は、悲しげな表情を浮かべると俯いた。
「……この沢山のお墓、全て新しいものばかりなんです。最近ここで大勢の人が亡くなってしまったから……」
「あなたはゴールドマインの住人なのかい。それなら、何か知っていることがあったら話してくれないか」
「生きる者は常に死と隣り合わせ……それが運命ですわ。決して逃れることのできない生き物の宿命なのです」
「いや、あのな」
まるでジハードの声が耳に入っていないようだ。にっこりと彼女から微笑まれ、彼ですら言葉を失ってしまう。
「さあ、早く戻りましょう? ここはとても危険ですよ。わたくしは……あなた方を死なせたくないのです」
「おねえさん、話を聞いて。わたし達の心配をしてくれるのはとても嬉しいんだけど」
「え?」
「わたし達は前に進まなくちゃいけないの。ねえ、モンク僧のおじさんを見なかった? 大切なひとなんだ」
ティエルから両肩を掴まれ、女はきょとんとした表情を浮かべていた。
暫く何かを考えているように口を閉ざしていたが、笑みを浮かべるとティエルの手に己の手を重ね合わせる。
想像していたよりも温かな手だった。先程はアンデッドなのかと疑いかけたが、彼女は間違いなく生きている。
「モンク僧の方々ならお見かけしましたわ……今でも同じ場所におられるはずです」
「ほんと!?」
「ええ、わたくしはそこまでご案内することしかできませんが。きっとモンク僧の方々もお喜びになりますわ」
そう言った黒髪の女は白いローブと長い髪を翻し、ティエル達の返事も待たずに金鉱の方角へと歩き始めた。
彼女の雰囲気に完全に飲まれていたティエルだったが、はっと我に返ると慌てて彼女の後を追って行った。
すると女は立ち止まり、静かにティエル達を振り返る。とても純粋な笑顔。やはり悪意など全く感じられない。
「わたくしはロイアと申します。紅茶を美味しく淹れるのが得意なんですのよ。……お飲みになりますか?」
ロイアと名乗った黒髪の女に案内をされるような形で、ティエルとジハードは金鉱まで続く道のりを歩き始める。
舗装されていた道が段々と土や岩が剥き出しになった地面へと変化していく。
滑車やスコップ、使い古されたロープがあちこちに散乱している。まるで当時の混乱を物語っているようだった。
履き慣れたティエルのブーツですら歩きにくい道である。しかし、ロイアの歩みは止まることもなく進んで行く。
ひらひらとした服装にも拘らず真っ直ぐに進むロイアの後ろ姿を眺めながら、ティエルはジハードに顔を向ける。
「ゴールドマインの住人だから歩き慣れているのかなぁ」
「うん?」
「わたしなんて少し気を抜くとすぐに転びそうなんだけど。あのロイアっておねえさん、躓きもしないんだもん」
「……彼女がゴールドマインの住人だって? そんな馬鹿な話があるものか」
転がった滑車をひょいと身軽に飛び越えながらジハードが口を開いた。彼も随分と歩きにくそうな様子であった。
「ロイアの服を見ろよ。あんなに白くてずるずると引きずるような衣服なのに、裾すら土で汚れていないんだ」
「ほんとだ……」
「この町で少しでも過ごしていれば、少なくとも裾くらいは土で汚れるもんだぜ。……ぼくも既に汚れているし」
そう言いながらジハードは己の衣服の裾を摘まんで見せた。
ロイアよりも短い裾であるにも拘らず、既に彼の服は土で汚れている。それは勿論ティエルも同じことであった。
「それじゃあ彼女は一体何者なの? どう見ても悪い人には見えないし、優しそうなおねえさんだよ」
「ぼくが知るわけないだろ。一番手っ取り早いのは、本人に聞いてみることかな」
「それもそうか。ねえ、ロイア! あなたはここの住人じゃないのに、随分と歩き慣れた様子なのはどうして?」
「冗談のつもりだったのに、本当に聞いたよ……」
本人に聞けとジハードは半ば冗談で言ったつもりだったが、素直なティエルには冗談が通用しなかったようだ。
あっさりと聞きにくいことを本人に聞いてしまった。
振り返ったロイアの笑顔は極めて純粋で、穢れを知らぬ無垢な童女のようだ。彼女を疑う者などいないだろう。
「そんなに歩き慣れているように見えますか」
「うん、もしかしてゴールドマインには何回か遊びに来てたりするの?」
「心配は要りませんわ、もうすぐ到着いたしますから。早くお客様に紅茶の用意をしなければいけませんわね」
「紅茶は別にいいんだけど……それよりサキョウは、モンク僧のひと達は元気なの? 病気や怪我はしてない?」
「お茶請けは何にいたしましょう。紅茶にはやっぱり甘いクッキーがいいかしら。クッキーはお好きですか?」
「クッキーの話はいいから、サキョウ達のことを……」
「うふふ、ティータイムが楽しみですわ」
薄々気付いてはいたが、ロイアとは時折会話が噛み合わなくなる。
これ以上サキョウ達のことを聞き出すのは無理だろうと判断したティエルは、彼女の話に合わせることにした。
すたすたと早足で進んで先頭を歩くロイアの隣に並ぶ。やはり歩きにくい服装の割には随分と歩みが早かった。
「そうだね! ロイアの淹れてくれる紅茶、とっても楽しみだなー。紅茶にはクッキーやケーキが合うよね」
「ええ。初めてわたくしがあの方に紅茶を淹れた時、褒めて下さったのです」
「あの方って?」
「あなたに少しだけ似た……わたくしの大切な方ですわ。紅茶を淹れることだけがわたくしの唯一のとりえです」
「唯一なんか言っちゃ駄目だよ! ただ自分が気付いていないだけで、ロイアには沢山のとりえがあると思うな」
「え……」
「礼儀正しいし、死者を弔う心も持ってるし。何より……笑顔が可愛いんじゃないかなぁ」
ロイアの話に合わせるつもりだったが、いつの間にかティエルは彼女の両手を握りしめて力説してしまっている。
その様子を背後から眺めていたジハードは、話がずれているんじゃないかと溜息をつくが顔は笑っていた。
ティエルに両手を握られたロイアは暫く驚いたような表情を浮かべていたが、やがてどこか照れたように俯いた。
「……ありがとうございます。そんなことを言われたのは……初めてですわ」
そんな他愛のない会話を続けながら歩いていると、やがて前方に低い柵で囲まれた金鉱への入口が見えてきた。
柵の中には明らかに死体だと分かる人影が数体転がっている。病死か、それともアンデッドに食い殺されたのか。
ここから先は気を引き締めて進んで行かなければならないだろう。
「この柵を越えて進んで行くと、金鉱前の広場に辿り着きますわ。きっとモンク僧の方々もいらっしゃいます」
「ほんと? やっとサキョウ達に会えるんだ!」
「……残念ですが、わたくしがご案内できるのはここまでです。折角紅茶をご用意しようと思っていたのに……」
柵を飛び越えていくティエルとジハードを、その場に立ち止まったまま哀しげな瞳で見つめるロイア。
ゆっくりと背を向けると元来た道を振り返りもせずに戻っていく。
慌ててロイアを追おうとしたティエルだったが、まるで彼女の姿を隠してしまうかのように霧が立ち込めていく。
あんなにもゆっくり歩いていたはずのロイアの姿は、既に見えなくなってしまっていたのだ。
「……これ以上ロイアを追ってはいけないような気がする。彼女が気になるのは分かるけど、今は前に進もう」
「ジハード」
「この先にサキョウ達がいるんだ。もしも病に侵されているのなら、持ってきた万能薬をすぐに飲ませないと」
ティエルの肩にそっと手を置いてジハードが答えた。
空はどんよりと曇っており、周囲には深い霧が立ち込め始めている。やはり彼の言うとおり前に進むべきだろう。
もう一度だけロイアの去った方向へ顔を向けると、ティエルは覚悟を決めたように金鉱に向けて歩き始めた。
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