Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第1章 光ゴケの夜

第3話 天使の笑顔をした青年




いつの間に背後に立っていたのだろうか。
一見すると完璧な好青年であるジハードは背後に音もなく立つことを得意としており、これも困った癖の一つだ。
勿論当の本人には全く悪気はない。いつものように、天使も斯くやと思われる微笑みをにこにこと浮かべている。

この笑顔に騙された者がなんと多いことだろう。まさに天然タラシである。ジハードの内面は知らぬ方が幸せだ。
笑顔は円滑な人間関係を送るために、いつの間にか身に付いていた生きる術のようなものだと以前言っていた。
彼はこの笑顔一つで世の中を渡ってきたようなものだ。確かに笑顔を向けられて悪い気になる者は少ないだろう。

しかしジハードの本来の笑顔はこんな微笑みではない。少しだけ困ったように笑うことをティエルは知っている。


「ちょっとぉ。ジハード、背後にいるんならいるって言ってよ! 絶対にいつも楽しんでやってるでしょー」
「ああ、ごめんごめん。いやなんか? ぼくの噂話、ってか悪口? が聞こえてきたような気がするからさぁ」
「悪口なんかじゃありませーん。わたしはただ真実を述べているだけだもん」

「真実って?」
「寝起きがすごく悪くて、説教は長いし、爽やかな顔で下ネタ言ってくるのは本当だもんね。嘘じゃないもん」
「……相変わらずティエルは正直でよろしい。少し正直すぎるけど」


そう言いながらよしよしとティエルの頭を撫で付けていたジハードは、そこで漸くジョンとリックに顔を向ける。
勿論満面の笑顔だが目は笑っていない。リックにはその笑顔が、凍り付いた悪魔の微笑みに見えてならなかった。
だがリックの気も知らずに残念ながら相方のジョンはジハードを慕っており、嬉しそうに彼へと駆け寄っていく。

「ジハードさん、こんにちは!」
「やあ、ジョン。いつも元気がいいね」

「この間作ってくれた胡麻団子すっげぇ美味かったです。故郷の料理って言ってましたよね。また食べたいなー」
「そう言ってもらえると嬉しいな。……でも最近は小籠包作りにハマっててさ、よかったら今度持っていくよ」
「マジですか!? あまり聞いたことのない料理だけど、ジハードさんが作るなら絶対に美味いんだろうなぁ!」


ジハードを慕っている理由の大半が、美味しい料理を作ってくれる人、ということは誰の目から見ても明らかだ。
筋金入りの食いしん坊のジョンらしいと言える。『美味い料理を作る人に悪人はいない』というのが彼の矜持だ。
確かにジハードの料理は美味いとリックすら思う。先日の胡麻団子も、その前の麻婆豆腐も、更に前の回鍋肉も。

正直言ってめちゃくちゃ美味かったのは認めよう。店が持てるレベルである。何度もおかわりまでしてしまった。
だがティエルに密かな想いを寄せるリックにとってジハードは、彼女に『最も近しい若い男』という存在なのだ。
百歩譲ってガリオンとサイヤーはまだ許せた。彼ら二人はリックが知り合う前からティエルと親しかったためだ。

そしてティエルとガリオン達の間には、決して越えることのできない姫君と家臣の線引きがあった。
だが……ジハードはメドフォードの家臣ではない。いわばティエルとは上下関係のない対等の立場の仲間である。
ガリオン達が越えることのできなかった壁をいとも簡単に飛び越え、彼女の心の拠り所となってしまっている。

しかもその人物が料理上手の美青年とくれば非常にまずい事態だ。リックにとっては国家転覆並の一大事だった。
そんなことをリックが考えているとは露知らず、ティエルは思い出したようにぽんと手を打つ。


「そうだ、ジハード。わたしを探していたんじゃなかったの? ……なんかまたわたしやらかしちゃった?」
「あっ、忘れてた。さっき騎士団詰所でサイヤーと試合をしたんだろ。トーマ大臣がお冠で食堂で待ってるよ」
「うわぁ……もう大臣の耳に入っちゃったんだ」
「うわぁじゃないよ、何故かぼくまで怒られたんだから。とばっちりだよ。まぁ、大臣の気持ちも分かるけど」

「昼食の前にお小言かー。トーマ大臣の説教も長いから早く終わるといいなぁ。じゃあ、早速行こっかジハード」
「え! なんでぼくも行くのさ!? この件については完全にぼくは関係ないんだけど」
「まあまあ、どうせ一緒に食堂で昼食取るんだしいいじゃない。今日のメニューは何かなぁ。お腹すいたねー」

得意の笑みを思わず崩してしまったジハードの背を両手で押しながら、ティエルはジョン達に向けて手を振った。
納得が行っていないのか暫く文句を口にしていたジハードだが、やがて観念したのか彼女の隣を歩き始めた。
まるで嵐が去ったかのようだ。先程まであれほど賑やかだった兵士休憩所は、水を打ったように静寂に包まれる。


「……ジョン、お前食い物で釣られやがって。何がまた食べたいなー、だよ。親友であるオレの恋敵だってのに」
「いやぁ、やっぱりジハードさんってオレ達とは違うな。なんと言うか、生まれ持った華やかな雰囲気っての?」
「お前はオレを応援する気があるのかよ!」
「そりゃあよぉ、お前の恋ならオレはいくらでも応援してやりたいけど……姫様は絶対に無理だと思うぞ」

「まだ分からないだろ。姫様は身分や男の容姿を気にする性格じゃないし。オレにだってチャンスはあるはずだ」
「チャンスなぁ……」
「なんだよジョン。何か言いたそうじゃないか!?」

鼻息荒く掴みかかってくるリック。普段は落ち着いている性格だが、興奮すると周りが見えなくなる傾向がある。
しかし痩せ型のリックが掴み掛ってこようが、ぽっちゃりを通り越してどっしりとしたジョンは全く動じない。
親友の恋を応援してやりたい反面、無謀な恋は諦めさせた方がいいのではないかとジョンも葛藤しているのだ。

「愛とか恋とか、そんなんじゃなくてさ。姫様はずっと誰かの帰りを待っているような気がするんだよ、オレは」







天使の微笑みが特徴的なジハードとは、ティエルが国を取り戻すために旅を続けていた頃に出会った青年である。
海王カリュブディスによってパンドラの箱と契約をさせられていた彼は、ティエル達に海王の討伐を依頼した。
見た目によらず誰よりも博識で、攻防共に長け誰よりも高い魔力を持ったジハードは旅の最中大変頼りになった。
友人のようであり世話焼きの兄のようでもあり。今ではティエルの大切な家族の一人である。

「……もう、あれから一年近く経ったんだな」
「え?」
「ぼくがメドフォードに来てから、本当にあっという間に過ぎてしまったと思う。この国もだいぶ平和になった」

大臣トーマの待つ食堂までの廊下を並んで歩きながら、ふとジハードが口を開いた。


「前にも言ったけど、ぼくはティエルが一人でもやっていけるようになったら……また旅を続けようと思ってる」
「それなら、残念だけどジハードが旅に出れるのはまだまだ先になっちゃうかな。数十年後くらいになるかも?」
「……数十年後って、その時ティエルは何歳だよ。さすがにいい歳をした人妻のおもりまではできないからな」

「人妻? えっ、数十年後にはわたし結婚してるの?」
「そりゃあそうでしょうよ。数年後くらいには縁談の話も出てくるだろうし」
「ジハードと別れるなんて嫌だよ。ジハードがいなくなっちゃうんなら、わたしは一生結婚なんてしないもん!」
「あはは。そんなことを言って、周りを困らせちゃ駄目だよ」

拗ねたように両頬を膨らませているティエルの様子は、やはりまだまだ幼く到底一人ではやっていけそうもない。
そんな彼女もいつかは大人になり、素敵な伴侶を見つけて幸せになるだろう。
ティエルは大切な仲間であり、可愛い妹のようにも思っている。彼女を幸せにできない男など、絶対に認めない。


「いいこと考えた! ずーっとジハードと一緒にいられる方法を思い付いちゃった」
「うん?」
「ジハードと結婚すればいいんだ。……そうしたら、わたしがおばあさんになっても死ぬまで一緒にいられるし」

「無垢とは怖いねぇ。大きくなったらお父さんのお嫁さんになる的なやつね。お兄さん通り越してお父さんかよ」
「あっ、本気にしてないな!」
「はいはい。そうだねぇ、すごい方法を考えたなぁ」
「もう!」

「……遅いですぞ、一体どこで寄り道をしていたのですか。姫様、ジハード殿!」

二人が漸く食堂に到着すると、痺れを切らしたように待ち構えていた恰幅の良い体格をした中年の男が迎え出た。
大臣トーマである。ティエルや国のことを大切に思うあまり、いつも説教が長くなってしまうのが玉に瑕だった。
そして説教も段々と話が逸れていき、最終的には全く関係のない雑談になっていることが多いのだ。


「先程聞きましたぞ、サイヤー相手に本気の試合をしたとか……曲がりなりにもあの者は我が国でも屈指の腕前!
 そんな者と試合などをすれば、危険だというのがお分かりにならぬのですか! お怪我はないでしょうな!?」

「怪我なんて全然してないよ。トーマ大臣も大げさだなぁ。旅の最中は怪我ばかりだし慣れてるから大丈夫だよ」
「な、なんと……!」
「やっぱり緊迫した試合っていいね。いい刺激になった気がする! 明日からも頑張ろうって活力貰っちゃった」
「姫君に必要なものは刺激などではなく、淑女の教養と礼儀作法ですぞ。それを分かっておられるのですか!?」

やっぱり怒られてやんの、とティエルの隣に立っていたジハードはにやにやとした下品な笑みを浮かべていたが、
そんな彼にもトーマ大臣の怒りの矛先が向けられる。まぁ、はっきり言えばとばっちりである。


「ジハード殿! おぬしも緊張感がなくていかん。姫様の友人としてお手本となる行動を心掛けてもらいたい!」
「そうは言われても、緊張感のない顔は元からなんだけど」
「男子たるもの常に硬派でなくてはなりませぬぞ。その派手な衣装にピアス……女子のようで、ああ嘆かわしい」
「これでも自分では結構男らしい方だと思ってるんだけどなー。……って、なんでぼくまで怒られてんのさ」

トーマ大臣に延々と説教を食らっている二人の背後では、侍女達によって着々と昼食の準備が進められている。
彼の長い説教は最早周知の事実であり、侍女達は実に気の毒そうな眼差しをティエルとジハードに送っていた。
昼食の準備が完全に整う頃には、漸くトーマ大臣の長い説教は終わりを迎えつつあった。


「……それで、わたくしは触り心地のいい革製品が好きでしてな。時計は全て革のベルトで揃えているのですよ」

いつの間にかお説教から話が逸れており、トーマ大臣の腕時計コレクションの話になっていた。
ちなみについ先日のお説教は、トーマ大臣の一度は行ってみたい旅行先ランキングへと話が逸れてしまっていた。
どうやら大臣はエルキドに行きたいらしい。のんびり露天風呂に浸かってみたいと熱弁していたことを思い出す。

「もー。トーマ大臣の時計の話はいいから、早くご飯食べさせてよ!」

それにしても長い話だった。隣のジハードなど器用にも立ったまま眠りかけていた。
テーブルに次々並べられていく卵料理に目移りしていたティエルは、痺れを切らしたように口を開いたのだった。





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