Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第4章 ユークリンドの薬師
第31話 森の亡霊 -1-
月明りすら見えない森の中というのは、こんなにも心細かったのだろうか。
日が暮れると真の闇に閉ざされる大森林を、青紫色の光を僅かに帯びた小さな花たちがぼんやりと照らしていた。
こんなか細い光ですら有難いとティエルは心から思う。闇に包まれた森の中では、松明にも勝る心強さであった。
現在ティエル達三人は、真っ直ぐに森の亡霊の住処へと向かっている。
サキョウの石化を戻すためには『ディスペル』の術者である、ヴィステージの祖母マシュリの協力が不可欠なのだ。
アゼカリナ病に罹った長老を救うためには、夜にのみ花を咲かせるという『月の雫』という薬草が必要だった。
しかし月の雫は……恐ろしい魔物である森の亡霊の住処にしか生えていないのだという。
アゼカリナ病は約三十日間眠り続けた後に死んでしまう。そして、彼女の祖母もまた眠り続けてもうすぐ三十日。
町へ薬草を買いに出ていては間に合わないだろう。そのためティエル達は魔物の巣窟へと向かっているのだった。
出発前にヴィステージから森の亡霊について詳しく話を聞いた。
身の丈は凡そ三メートルほどの透き通った身体。その名前に偽りなく、巨大な亡霊のような姿をした魔物らしい。
あらゆる武器も霧のように身体をすり抜けてしまい、物理攻撃が全く聞かないのだとヴィステージは言った。
そして最も恐ろしいのは森の亡霊から放たれる青白い霧。その霧に包まれると、たちまち生気を奪われてしまう。
幾人もの村人達がその霧によって命を落とし、死体はまるでミイラのように干乾びていたのだという。
昼近くになって漸くすっきりと目覚めたジハードと共に亡霊の住処を下見に行った。
村を出発してから約一時間。木々で隠されるように存在する小さな洞窟を抜けると、雑草の生い茂る広場に出た。
勿論日中は森の亡霊の姿もなく、月の雫も咲いていない。この洞窟は亡霊から身を隠すのに好都合かもしれない。
そして日が暮れ……いよいよ月の雫を求めて出発となった。
「向こうの大木を曲がるといよいよ洞窟です。ティエルちゃん、ジハードくん。準備はよろしいですか」
「わたしはいつでも大丈夫だよ、段々緊張してきちゃった。亡霊っていうからにはお化けなの? 少し怖いなー」
「ぼくも十分睡眠を取らせてもらったから調子がいいよ。お化けじゃなくて魔物と考えれば怖くないだろ?」
「そんなものかなぁ」
「同じようなものだと思いますけれど……それにしてもお二人とも、何でそんなに緊張感がないんですか……」
「ティエルはこういう楽観的な性格だし、ぼくの緊張感のない顔は元々だから今更どうすることもできないなぁ」
「えっ、それは失礼しました」
かたかたと小刻みに震えているヴィステージから緊張が伝わってくる。
全員無事に戻れるという保証はどこにもないのだ。祖母のためだと、ただその思いだけが彼女を支え続けていた。
勿論ティエルとジハードの二人は彼女の心を和ませるために、あえて楽観的な様子を装っているわけではない。
彼らは元々こんな調子である。緊張で震えているヴィステージとは対極だが、あまり思い詰めるのも良くない。
「なんだか……迷いもなく進む君達を眺めていると、いつまでも一人で悩んでいるあたしが馬鹿みたいですね」
「わたしだって悩むときは悩んでるよ。今だって、ちゃんと月の雫が手に入るかなって心配してるもん」
「一番の目的は月の雫を手に入れることだ。別に森の亡霊を倒すことじゃない、それだけは覚えておいてくれよ」
「分かってるよ! ……ねえ、ヴィステージ。もし森の亡霊に言葉が通じるならお願いしてみるとかどうかな?」
「お、お願い? ですか」
「うん。わたし達は何も危害を加えません、ただ月の雫を採りに来ただけですって」
「それで話が通じる相手なら、あたしもこんなに悩んでいませんよ……本当に恐ろしい魔物なんですってばぁ」
敵陣に向かっているとは思えぬ和やかな会話を続けながら歩いていると、やがて森の亡霊の住処へと辿り着く。
何重にも重ねられた分厚い葉っぱのヴェールに隠された向こうには、ぽっかりと黒い口を開いた洞穴が見えた。
この小さな洞穴を抜けた先が月の雫の生息地なのだ。
「住処に突入する前に、まずは作戦をおさらいしておこう。まずは囮役のティエルが森の亡霊を引き付ける」
「はーい! 月の雫からできるだけ引き離すように動いたらいいんだよね?」
「ああ。もしも魔物が一体だけなら、ぼくはティエルの援護に回ろう。けれど二体以上いたらぼくも囮役に回る」
「あたしは、ティエルちゃん達が森の亡霊を引き付けてくれている間に……月の雫を手に入れればいいんですね」
「手に入れた際にはヴィステージの爆発の魔法を合図にする。それを見て、ぼくらは全力で住処から撤退しよう」
「村まで辿り着くことができればもう安心です。村の周囲には強力な魔除けの結界が張り巡らされていますから」
「あとは森の亡霊が何体いるかだよね? できるだけ少ないといいなぁ……」
「日によって違いはあると思いますが……この森に生息している森の亡霊は多くて五体ほどだと言われています」
隠してはいるが、ヴィステージの声は若干震えている。
彼女がこれほどまで恐れる森の亡霊とは一体どのような魔物なのだろうか。特徴を聞いても想像がつかないのだ。
しかしゴールドマインで目にしたアスモデウスと比べたら、どんな魔物でも可愛げがあるようにも思えてしまう。
周囲を警戒しつつ洞穴内に足を踏み入れると、外とは違い随分とひんやりとした空気に包まれる。
その上纏わり付くような湿っぽさだ。時折微かに水滴の落ちる音が響いてくることから、水場が近いのだろうか。
身の丈三メートルほどの森の亡霊の住処に続いている洞穴のため、三人並んで歩いても余裕があるほどの広さだ。
岩壁には所々分厚い苔のようなものが付着しており、この場所が如何に湿っているのかを明確に物語っている。
「そろそろこの辺りで一体くらい森の亡霊と遭遇してもおかしくはないんですが……気配を全く感じませんね」
「もしかしてみんなお出掛けしてるのかな? だったら手っ取り早くていいんだけど」
「むしろその逆もあり得る。全ての森の亡霊がこの先の広場に集結していたら、ぼくらは手出しができないぜ」
森の亡霊の住処という割には、先程から気配を全く感じられないのだ。
ティエル達の目的は魔物討伐ではなく月の雫なのだ。むしろこのまま姿を見せずにいてくれた方が好都合だった。
「段々と明るくなってきたな。あの先が森の亡霊の住処かい? 昼にも行ったけど、夜は印象がだいぶ違うな」
「ええ、洞穴を抜けると崖に囲まれた外の広場に出ます。森の中で唯一月光が真っ直ぐに当たる場所なんです」
「じゃあ……森の亡霊もそこにいるのかなぁ」
「恐らく。お二人とも、気を引き締めて行きましょう」
ヴィステージが指さした先には洞穴の出口があった。外はまるで昼間のように明るく見える。
息を殺して用心深く進んでいくと、急に視界が開けた。……切り立った崖に囲まれた広場が飛び込んできたのだ。
空を見上げると木々の隙間から眩い月の光が幾筋も差し込んでいる。月光がこんなにも明るいとは知らなかった。
その月光を受けて、広場の中心には淡い黄色をした花がいくつも揺れていた。日中には見かけなかった花である。
あの花が月の雫なのだろうか。しかしここには森の亡霊らしき姿は見えなかった。
「見てください、あの花です! あれを持ち帰ればおばあちゃんも、あなた達の大切な人も助かるんですよ!」
「ちょ、ちょっと待ってヴィステージ!?」
「あの黄色の花さえ手に入れば……おばあちゃんが助かる。さあ、早く採りに行きましょう!」
月の雫を目前にして気が緩んでしまったのだろうか。
本来ならばヴィステージは気付かなくてはならなかった。森の亡霊がこの道中一体も姿を現さなかったことを。
しかしそんなことなど、切望していた目標を前にすればほんの些細な出来事であった。
普段は用心深い性格の彼女だったが、この瞬間だけは違った。ティエル達の止める声など全く耳に入らなかった。
ただ、目の前の黄色の花しか見えていなかったヴィステージは駆け出してしまったのだ。
ヴィステージの目には映っていなかった。花のすぐ側に位置する岩陰から、むくりと巨大な影が揺らめいたのを。
苦しみ嘆く亡者の顔を持った、身の丈三メートルほどの白い霧。森の亡霊と呼ばれて恐れられる魔物であった。
広場に一人ぽつんと立ち尽くすのはヴィステージのみ。格好の標的だ。
背後に気配を感じ、恐る恐る振り返ったヴィステージの瞳に映ったのは……何人もの村人の命を奪った恐怖の姿。
総毛立つような怨念の宿る叫び声を発した森の亡霊は、その口から青白い霧を彼女に向かって吐き出したのだ。
生気を根こそぎ奪ってしまうという死の霧である。
「危ない、避けろヴィステージ!」
ジハードの怒鳴り声と共に彼の防護の魔法陣が発動されたが、この距離では間に合わない。
咄嗟のことで唖然とした表情のまま立ち尽くしていた彼女を突き飛ばしたのは、駆け寄ってきたティエルだった。
勢い余って縺れ合うようにしてごろごろと転がっていく二人の頭上を、青白い霧が掠めていく。間一髪であった。
「いくらなんでも不注意だよ、森の亡霊がどんなに恐ろしいかを教えてくれたのはヴィステージなんだよ!?」
「ティエルちゃん……」
「たとえ月の雫を手に入れたとしてもヴィステージが死んでしまったら、あなたのおばあさんは決して喜ばない」
「ご、ごめんなさい……! 月の雫を目にしたら、居ても立っても居られなくなって……これでもう安心だって」
「まぁ駆け出したくなる気持ちは分からなくもないけどな、ぼくだってサキョウの顔が浮かんだからさ」
「でもあたしが先走ってしまった所為で、折角立てた作戦を台無しにしてしまいました」
完全に項垂れているヴィステージの隣にジハードが並ぶ。
そんなことを話していても状況が改善されるわけでもない。森の亡霊は確実に彼ら三人を標的とみなしたようだ。
ゆらゆらと頼りなげに揺らめく巨大な白い霧は、徐々にティエル達との距離を詰めている。
「さぁ、どうするティエル? 作戦も何も無くなってしまったけど」
「……どうするも何も決まってるよ。月の雫を手に入れて、この場から一刻も早く逃げ出すんだ!」
「そうだな」
「目的は月の雫だから、作戦はこのまま続行する。わたしとジハードが囮役で、ヴィステージは花をお願い!」
ジハードの言葉に剣を構えながら笑顔を浮かべたティエルは、ヴィステージに向かって親指を突き出して見せた。
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