Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第4章 ユークリンドの薬師
第35話 ある日、穏やかな昼下り
道を行き交う人々の声で賑わう大通り。
空は雲一つない晴天で、吟遊詩人が喩えるならば『哀しみを知らない無邪気な子供の笑顔のような天気』だろう。
珍しい露店がずらりと並ぶ道から少し離れた街路樹の下で、一人の若い男が退屈そうにあくびを噛み殺していた。
「約束の時間からもう三十分経つぜー? 久々に伯父さんとのデートだってのに珍しく遅刻かね、リナちゃんは。
いつも待ち合わせに遅刻するオレが言うのもなんだけど、こんな年寄りを待たせるなんて酷いじゃないのよ」
ぼやくように呟いているのは特徴的な大きな帽子と、同じく緑色をしたぶかぶかのローブを身に着けた青年だ。
整った容姿でもなければ醜くもない。はっきり言えばどこにでも歩いているような、地味な容姿をした男だった。
ただ一つ、大きな帽子を除いては。この帽子だけが地味な青年を奇抜な存在へと作り上げていた。
先程この青年は己のことを『年寄り』だと称したが、それは強ち間違った表現ではない。
外見は完全に二十代前半だろう。むしろぐりぐりとした瞳と幼い顔立ちも相俟って少年のようにも見えてしまう。
だが実際は軽く七十の齢を超える、まさに老人の域に片足を突っ込んでいる男であった。勿論正真正銘の人間だ。
「それにしても待つってのは退屈だぜ。まぁ、最近忙しかったし……こんなのんびりとした休日もいいかもな」
もしかしたら可愛い我が姪っ子は、そんな仕事漬けの彼を気遣って外へと連れ出してくれたのかもしれない。
涼しげな目元をした姪っ子の顔を思い出した彼の表情が段々と緩んでいく。実に間の抜けた表情である。
彼が久々に休日が取れたと知った途端、姪は予定も聞かずに一方的に待ち合わせ場所と時間を言い渡してきた。
確かにあんな陰気な空気が漂う城に毎日閉じこもっていれば、さすがの彼も気がおかしくなってしまいそうだ。
前を通り過ぎていく人々の姿を眺めながら低い柵に腰掛けていると、段々と眠気が襲ってくる。
心地の良い陽気に、遠くから聞こえる楽しげな人々の声。少々賑やかかもしれないが、特に気になるほどでもない。
そんな彼がうとうとと眠りの世界の扉を軽やかに叩こうとした瞬間。
「すまぬ、待たせたなアリエスおじうえ!」
低いが凛としてよく通る声。聞き慣れた女の声が、アリエスと呼ばれた青年の眠気を根こそぎ奪い去っていった。
顔を上げると一人の娘がこちらに向かってくる。涼しげな印象を受ける青い瞳。癖の強い髪を丁寧に編んでいる。
すらりとした長身を包んでいるのは普段の戦闘服ではなく、丈の短い黒のワンピースであった。
急いで走ってきたのか肩が大きく上下している。彼女の名はリーナロッテ。アリエスが何よりも大切な姪っ子だ。
「リナちゃん……遅刻常習犯のオレが言う台詞じゃないけどさ、もうすぐ待ち合わせから一時間は経つぜー?」
「だからすまぬと言っておるじゃろう。一応言い訳をさせてもらうと、出掛ける直前にダフネがうるさくてのう」
「あの色ボケおばさまが? オレの可愛いリナに何かと突っかかってくるよなー」
「ダフネとは昔から気が合わぬ。しかしガリオンがさりげなく仲裁してくれてな、こうして出てこれたのじゃよ」
「ふーん、ガリオンか。あの真面目が服を着ているような、筋金入りのお坊ちゃまがね。オレあいつも嫌いだな」
「ガリオンはいいやつであるぞ、おじうえ。何が気に入らんのじゃ」
「そーゆーとこよ。オレの可愛いリナに恩売って、何を企んでいるんだか。あまりあいつを信用するなよ?」
目の中に入れても痛くないほど可愛い姪っ子の口から、気に食わない男の名前が出てきたことが不満なアリエス。
突如不機嫌になってしまったアリエスの様子に首を傾げるリーナロッテに、彼はつまらなそうに口を尖らせる。
「あの爽やかイケメンくんめ、まさかリナを狙っているんじゃないだろうな……」
「おじうえ、考えすぎのような気がするぞ。わらわに限らず、ガリオンは誰にでも優しく誠実な男なのじゃ」
「誰にでも優しくってのが何だか気に入らねーな。リナ、あいつだけはやめとけよ。伯父さんは許しませんよ!」
「……いつもおじうえがそんな調子だから、誰もわらわに近付かなくなってしまったではないか」
「この程度の障害で諦める男は止めておいた方がいいぜ。オレを倒してまでリナを奪おうとする気概が欲しいな」
「たとえおじうえを倒したとしても、わらわよりも強い男でなければ願い下げじゃ」
涼しげな色をした瞳を細めてリーナロッテは軽く笑って見せる。
その細身の身体からは想像もつかないが、彼女は強い。力勝負では並の男など軽く負かしてしまうほどの怪力だ。
リーナロッテが扱う武器は『モルゲンシュテルン』といい、重量のある厳つい鉄球を振り回して戦うスタイルだ。
口は達者なアリエスであったが、もしも彼女と取っ組み合いの喧嘩になれば確実に負けてしまうだろう。
「ほんでリナちゃんよ、今日は一体何を買うつもりなんだ? 給料日前だから、あまり高価なものは買えないぜ」
「……仮にも一国の大臣と同等の地位を持つ男が、そんな悲しい台詞を言うでない」
「港町アモールの近くに置いてるテントの維持費が案外馬鹿にできねーのよ。殆ど毎月すっからかんだっつの」
「ふふふ、おじうえらしいのう」
ずんずんと歩き始めたリーナロッテの背を負うように、慌てて大通りへと足を向けるアリエス。
先程までは遠くに聞こえていた喧騒が段々と近付いてくる。それに連れて道行く人々の数も増えていった。
リーナロッテは振り返ることもなく騒がしい大通りを進んでいく。気を付けていなければ見失ってしまいそうだ。
「おーい、リナってばよ」
「……別に用事なんてないのじゃ」
「え?」
「実を言うと……別に買い物の用事なんてないのじゃよ」
くるりと振り返って身体をこちらに向けて優しく微笑んだリーナロッテは、器用にも背を向けたまま歩き続ける。
その涼しげな瞳に僅かな影を落とし、彼女はアリエスの腕を掴んだ。
「おじうえは最近辛そうじゃ。このリナの目まで誤魔化せると思うな。おじうえのことなどお見通しなのじゃよ」
「リナ」
「久々の休みも、どうせ陰気なゾルディス城で過ごすつもりだったのじゃろ? それではいかんと思ったのでな」
「他に行くところも思い付かねーしなぁ」
「わらわとは違い、おじうえの立場はとても重く責任があるものじゃ。己の手を汚すことも多くあるじゃろう。
ゴールドマインでの仕事内容など今更聞かぬよ。そこでおじうえが、どれほど非道な行いをしていたとしても」
「!!」
……ゴールドマイン。できれば、あまり思い出したくはなかった小さな都市の名前だ。
アリエスは町に強力な病原菌をばら撒いて住民達を死に追いやり、逃れた者には容赦なくアンデッドを嗾けた。
リーナロッテに掴まれたアリエスの腕が、ほんの一瞬だけぴくりと強張った。しかし彼女は構わず先を続ける。
「それでも、おじうえはおじうえじゃ。わらわの、世界でたった一人だけのおじうえじゃよ」
そう言って優しく微笑んだ彼女の姿がほんの一瞬だけ、今は亡きアリエスの妹……リーナロッテの母親と重なった。
どうして今まで気付かなかったのだろう。リーナロッテは、アリエスの妹であるベルにこんなにも似ていたことを。
ベルの記憶があまりにも昔のことで、色褪せていて、そして幸せだったために、すぐには思い出せなかったのだ。
「どうした、おじうえ」
「えっ?」
「そんなに呆けた顔をするでない。……おっ、見よ! あれはアイスクリームの露店ではないか!?」
「ほほー、珍しいな。アイスクリームの露店じゃん。でも食べ歩きをするほど、まだ暑くはないんじゃねーの?」
「確かおじうえはミントチョコが好みであったな。やはりわらわはオレンジシャーベットかストロベリーじゃな」
色とりどりのアイスクリームやシャーベットを売る露店の前で立ち止まり、真剣な顔で悩んでいるリーナロッテ。
オレンジシャーベットかストロベリーか。究極の選択であった。どちらも捨てがたい。
これがあの周辺諸国を恐怖に陥れた、悪名高いゾルディス八将軍の一人なのだろうかと思わず吹き出してしまう。
「おいおい……まだオレンジとストロベリーとで迷ってんのかぁ? 仕方ねぇなー」
「むむっ」
「店員のおばちゃーん。オレンジとストロベリー、それとチョコミントのアイスちょうだい」
苦笑を浮かべながらアリエスは店員にリン銀貨を渡す。悩むくらいならば全て買ってしまおうという考えである。
その行動に驚いて目を丸くするリーナロッテ。
「二つは食べられぬぞ!?」
「大丈夫だって。なんだかんだ言いながら、リナはいつも完食するじゃんさ。特にデザートや肉料理はぺろりと」
「身体を動かすと甘いものや肉が食べたくなるのじゃ……って、ぺろりとは平らげておらぬわ!」
「まいどあり! アイス落とさないようにね。はは、あまり彼女をからかっちゃ駄目だよ、緑の帽子の彼氏くん」
三つのアイスクリームを手渡しながら、店員の女が笑みを浮かべながらアリエス達のやり取りを眺めていた。
思わずぽかんと口を開けたまま顔を見合わせていた二人だが、やがて我に返ると揃って笑いを噴き出したのだ。
まさか恋人同士に思われてしまうとは夢にも思わなかった。まぁ、見た目的には十分釣り合っているのだが……。
「なぁ、オレ達って恋人同士に見える? わははは、いやー照れちゃうねぇ。そうそうオレ達は恋人同士なのよ」
「……図々しいことを言うな、おじうえよ。さすがに七十歳を超えた彼氏は許容範囲外じゃ」
「そうだっけかな。見た目はピチピチヤングの二十代なのになー」
「ピチピチヤングという表現自体が古いわ! いくら見た目が若くとも、おっさんを隠しきれていないぞ」
あははは、と笑いながら走り始めたアリエスを、誤解を解けとばかりに眉を顰めたリーナロッテが追っていく。
残された店員は事情が呑み込めずに首を傾げるばかりであったが。
「リナちゃんほらほら、ここまでおいでー」
「馬鹿かおじうえ、子供のような恥ずかしい真似をするでない! ……まったく、どちらが年上か分からんのう」
「男っていう生き物は、いつまでも心は少年のままなんだぜ?」
人の多い大通りを走り抜け、小さな噴水広場に出る。ここは道行く人々の数も疎らであった。
軽やかな足取りで白いベンチに腰を下ろしたアリエスは、三つのアイスを掲げながらリーナロッテを手招きする。
隣に彼女が腰を下ろすと、オレンジとストロベリーのアイスクリームを差し出した。少々溶けてしまったようだ。
あの大通りの喧騒が嘘のようであった。
静かで、穏やかな昼下がり。どこかで戦争をしていても、この町は平和なのだと実感する。
「……昔さ、小さかったモーリンにもアイス買ってやってさ。こうしてベンチに並んで食べたことがあったんだ」
「うむ。モーリンは変わったアイスが好きであったな。セロリアイスとか」
「そうそう。その時もオレはチョコミントのアイス食ったっけな。何十年経っても好みは変わんねーなぁ」
「恐らくモーリンは今でもセロリアイスが好きだと思うぞ」
「そうかもな。……あんな幸せが、ずっと続くと思ってた。誰かに約束されたわけじゃないのに、そう思ってた」
「おじうえ……」
彼の目尻には、よく見てみると青年らしからぬ微かな皴があった。帽子を外した茶の髪には白髪が混じっていた。
年若い青年の姿をしていても、アリエスの表情はどこか老人と重なる時がある。それはほんの、ふとした瞬間で。
リーナロッテはそんな彼の老いた横顔を黙ったまま見つめていたが。
「大丈夫じゃよ。幸せを取り戻すために今おじうえは戦っているではないか。手を汚し続けているではないか」
「リナ」
「モーリンはわらわにとって兄のような大切な存在じゃ。家族三人で暮らせる日のために、わらわも共に戦うぞ」
「……ごめんな、リナ。お前を巻き込むはずじゃなかったのに」
リーナロッテから視線を逸らし、アリエスは帽子を深く被り直しながら小さな声で呟いた。
しかしその声が聞こえなかった振りをした彼女は、どちらのアイスから食べようかのう、と。そう言って笑った。
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