Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第4章 ユークリンドの薬師
第39話 赤い薔薇の舞う庭園
まるでジハードから逃げ出すかのように駆け出したティエルは、知らず知らずのうちに中庭の庭園に向かっていた。
今夜は若干風が強いようだ。時折赤い薔薇の花びらを含んだ風が夜空へと舞い上がっている。幻想的な光景だった。
魔法灯がぼんやりと照らす中庭に人の姿はなく、一人になりたかったティエルにとってはむしろ好都合だと思った。
白いベンチ。よく晴れた昼下がり。美しい薔薇に囲まれて、ここでティータイムをしたらどんなに楽しいだろう。
色々な銘柄の紅茶も厨房には常備している。滅多に手に入らぬようなマニアックな銘柄の紅茶も勿論だ。
そしてお茶請けには甘さが控えめなクッキーだろう。ティエルの一番好きなチョコチップのクッキーも用意しよう。
昼下がりのティータイムに必要なものは全て揃っている。足りないのは……それを約束した相手だけであった。
そもそもあれは約束だったのだろうか。今から思えば、ただ一方的にティエルが言っていただけのような気もする。
一方的な約束だったとしても、果たされぬ約束だとは気付いていても、それでもティエルはずっと待ち続けていた。
彼が、いつか……帰ってきてくれる日を。
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「聞いたか? ジョン。ティエル姫様がゴールドマインの調査から戻ってきたんだってよ!」
「ああ、さっき先輩達が話しているのを聞いたしな。ジハードさんが帰ってきたーって侍女達も色めき立ってたし」
「……ジハードさんのことはどうでもいいんだっつの」
夜間の訓練を終えた万年兵士見習いのリックとジョンは、そんな会話を続けながら兵士の寄宿舎へと向かっていた。
訓練所はティエルが無事にゴールドマインから帰ってきたのだという話題で持ちきりであった。
勿論リックは彼女に一目会おうと訓練所を飛び出したのだが、そもそもティエルは簡単に会える人物ではないのだ。
結局会うことができずにとぼとぼと寄宿舎へ戻る途中で、同じく寄宿舎に向かう相棒のジョンと出会ったのだった。
「それにしても町一つが壊滅って本当に怖い話だよな。死んじまったら、美味しいもの食えなくなっちまうじゃん」
「お前は食い物のことしか頭にないのかよ。それにしても姫様が無事に帰ってきてくれて良かったぜ!」
「まぁジハードさんが一緒だったしな。あの人がいたら大丈夫だろー」
「だから、ジハードさんのことはどうでもいいんだよ。ジョン、お前もしかしてわざと言ってるだろ!?」
「オレは親友の無謀な恋を諦めさせようとしているだけだぞ」
「それほど無謀な恋じゃないぜ。ふっ……まだまだ色気よりも食い気のお子様のジョンには分からないだろうな」
黄色の髪をした青年リックは、きっちりと七三分けにした髪を撫で付ける。ほんのりと香る流行りのコロンの匂い。
相変わらず親友のジョンは食べ物のことしか頭にない子供なのだと深く溜息をつく。
流行の服装や流行のコロン。リックは様々な雑誌を購入し、女性受けのよい流行の最先端を常に追っているのだ。
いつでも女性からの告白を受け入れる準備は整っているのだ。お勧めのデートスポットやスイーツも網羅している。
しかし。残念ながら女性からの告白を受けたことは一度もない。
「食い物の話ばかりしているから、お前はいつまでも童貞なんだぞ。少しは女が好みそうな話題も勉強しろよ?」
「いや、そう言うリックも童貞だろ」
「も……もうすぐ姫様と結ばれて童貞は卒業するはずなんだよ!」
「そういう話題は健全な男っぽくていいんだけど、もう少し声のボリュームを落とした方がいいんじゃないかなー」
「!!」
突如のんびりとした落ち着いた声が周囲に響き渡った。リックにとって、できればあまり聞きたくはない声である。
恐る恐る顔を上げると、中二階の渡り廊下の手すりから身を乗り出してこちらを眺めるジハードの姿があった。
いつ見ても何を考えているのか分からない胡散臭い笑顔である。にっこりとした爽やかな笑顔の裏が恐ろしいのだ。
しかも聞かれたくない会話を聞かれてしまった。場合が場合なら、不敬罪だと投獄されても文句は言えない内容だ。
だがジハードは、声のボリュームこそ注意をしたが会話の内容を咎めようとする気はないように見える。
「おかえりなさい、ジハードさん。遠征お疲れさまでした!」
「おかえりなさい……ジハードさん……」
「うん。ただいま」
ひらひらと手を振りながら笑顔を向けるジハード。
確かに華やかなイケメンだとは思うが、男の魅力は断じて顔ではない。家柄と金と流行を追うセンスが全てなのだ。
「こんな夜遅くまでトレーニングかい? この調子なら、もうすぐ見習い兵士も卒業かもしれないな」
「実を言うと、さぼっている時間の方が長いんですけどね。動いていると腹が減って腹が減って仕方ありませんよ」
「あはは。ジョンらしいね」
「そ、そんなことよりジハードさん!」
「うん?」
「姫様はもうお休みですか? 一目だけでも元気な顔を見たかったんですけど、全然出会えなくて」
少々食い気味なリックの問い掛けに、驚いたようにジハードは青い瞳を瞬いてから思案するような表情を浮かべた。
「多分……中庭の薔薇の庭園にいるとは思うんだけど、今はティエルを一人にしてあげてほしいんだ。すまないね」
「分かりました。長旅で姫様もお疲れでしょうし、今夜はゆっくり休んでほしいですねぇ。なぁリック?」
「中庭の庭園かぁ……」
「リック?」
「ん? ああ、そうだな」
じゃあね、と言って軽く笑って歩き去っていくジハード。
遠ざかっていく彼の姿を暫く眺めていたリックは、よし、と膝を叩いて兵士寄宿舎とは反対の方向へと歩き始めた。
「どこに行くんだよ、リック。早く寄宿舎に戻ろうぜ」
「姫様は中庭の庭園だって言ってたな。今から走っていけば、まだ間に合うだろ」
「おいおい。一人にしてあげてくれって、さっきジハードさんが言っていただろ? 強引すぎる男はモテないぜー」
「モテないお前に言われても全然説得力がねぇっての!」
「もー、姫様に怒られても知らねぇぞ」
既に中庭の庭園に向かって駆け出しているリックを止めることも諦め、ジョンは一人大きく溜息をついたのだった。
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人通りのない廊下を走りながら、肌寒さにリックは上着を持ってくればよかったと後悔をした。夜は少々風が強い。
庭園から運ばれてきた赤い薔薇の花びらが舞い落ちる。それにしても何故、庭園の最奥は赤い薔薇だけなのだろう。
赤い薔薇だけではなく、白や桃色、黄色など様々な色の薔薇を植えれば賑やかなのに、とリックは常々思っていた。
今度姫様に提案してみよう。リックは世界で一番、黄色が好きだ。自分の髪色である黄色の薔薇を植えてほしいと。
中庭の庭園に辿り着くが、ティエルの姿は見えなかった。これでもかというほど見事な赤い薔薇が咲き誇っている。
もしかしたら庭園の更に奥にいるのだろうか。
アーチ状に並んだ薔薇の中を暫く早足で進んでいくと、漸くこちらに背を向けて佇むティエルの姿を見つけたのだ。
艶やかな茶色の長い髪。姫様、とリックが声を掛けようとした瞬間。一際強い風が赤い花びらを舞い上がらせる。
「……クウォーツ……?」
どこかで聞いたことのある名を口に出しながら静かに振り返ったティエルの瞳からは、大粒の涙が零れ落ちていた。
風に乗り遅れ、足元へ散っていく深紅の花びら。暫く足元に視線を落としてから、ティエルは再び顔を上げる。
背後に立っていたのがリックだと分かると、彼女は慌てて照れたように涙を擦って笑顔を浮かべようとしていた。
「そんなわけ、ないか……」
「姫様」
「変なところ見せちゃってごめんね、リック」
「いえ、オレは全然いいんですが……それよりも姫様、大丈夫ですか? オレでよければ悩みを話してくださいよ」
「ううん、いいんだ。わたしは大丈夫だから。悪いのは、勝手に勘違いして待ち続けているわたしなんだから」
「……」
「一方的に約束して、勝手に待ち続けて、勝手に思い出しちゃったわたしが悪いんだ。全部わたしが悪いんだ」
無理して笑顔を浮かべようとしているが、どうも上手くいかずに彼女は泣き笑いのような顔になってしまっている。
クウォーツ? ……ああそうだ。どこかで聞き覚えがあるような名前かと思えば。リックは思案する。
メドフォード城奪還の戦いの際、先陣を切って戦っていた悪夢のような強さを持つ、青い髪の悪魔族の名前だった。
人間の美しさを遥かに凌駕した恐ろしい魔物だと思った。多くの者が視線すら合わせることができなかった青年だ。
同性ですら脳裏に焼き付いて離れぬほど、一度目にしたら決して忘れることのできない凄艶な美貌の持ち主だった。
メドフォードの誰もが彼と距離を置く中で、サイヤーや騎士団の限られた面々は親しげに話しかけていた気がする。
「姫様……オレは、あなたが」
俯いてぼろぼろと涙を零すティエルに、リックはゆっくりと手を伸ばしていく。守らなければならない小さな肩だ。
何に代えても守らなればならない少女である。年齢以上に幼く見える彼女を、もう二度と危険に晒したくはない。
できることならば、一生この城で守られ続けている存在になってほしいと思う。外の世界はあまりにも危険すぎる。
「……でもね!」
リックの手がティエルの肩に触れようとした瞬間、突然彼女は勢いよく顔を上げたのだ。
あまりにも唐突だったため、リックは伸ばした手を引っ込めることもできずに、そのままの体勢で固まっていた。
「考えてみたら……ただ待っているだけなんて、わたしらしくないよね? 探しに行くのがわたしじゃない!?」
「え?」
「本当にヴィステージの言うとおりだ。待っているだけじゃ何も変わらない。変えたければ自分から動かなくちゃ」
「あ、あの姫様」
「クウォーツはね、一人になると好くない方向に進んでいきそうな男の子なんだ。手を引く誰かがまだ必要なの」
「一体何の話で……」
「そうと決まれば早速動き出さなくちゃ。よーし明日から忙しくなるぞう。それじゃあ、リック。また今度ね!」
先程までの涙は一体どこへやら。満面の笑顔を浮かべたティエルは、大きく手を振ると庭園を走り去って行く。
話の内容が全く呑み込めていないリックは、彼女に伸ばした手をゆっくり戻すと目を瞬いた。
暫く呆気に取られた表情のままその場に立ち尽くしていたが、漸くはっと我に返ると頭を抱えながらしゃがみ込む。
「……オレ、もしかして余計なこと言ったかな……? え? 悪魔族なんかを探しに行くって、マジで……?」
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