Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第5章 シルヴァラース古代図書館
第43話 司書ナズナ
「う……うぅ……」
冷たい水がぽたりと頬に垂れてくる感触で、ティエルは閉じていた目をゆっくりと開いた。
一番初めに視界に入ったものは、どこか幻想的な霧深い白樺の森だ。すぐ側には朝露の溜まった大きな葉が見えた。
どうやら先程頬に垂れてきた水はこの朝露のようだ。
そこまで思考を巡らせたとき。彼女は自分が仰向けの状態で倒れていることに気付いたのだ。周囲は微かに肌寒い。
慌てて上半身を起こして周囲を見回してみると、どうやらここは美しい白い木が立ち並ぶ早朝の森のようだ。
肌寒いと感じたのは深い霧が立ち込めていたためである。空を見上げてみても、霧のために青空は見えなかったが。
それにしても、とても静かである。周囲に人の気配はない。時折微かに鳥の鳴き声が聞こえるだけであった。
全く見覚えのない景色だが、不思議なことに心細さは全く感じられなかった。霧に包まれてどこか穏やかな気分だ。
この白樺の森には凶悪な魔物はいないのだろう。そう思わせるような安心感があった。
「どこだろう、ここ……」
吐いた息の白さに思わず驚く。
メドフォードの地下にてワープゲートの紫色の光に包まれたことだけは覚えているのだが、その先が思い出せない。
周囲を見回すがジハード達の姿はない。もしかしたらどこかで同じように意識を失って倒れているのかもしれない。
出発前にヴィステージが言っていた。『旧式のワープゲートだから、座標に若干のずれが出るかもしれない』と。
若干という程度だから、酷い誤差ではないと思いたいが……ここはシルヴァラース古代図書館の近くなのだろうか。
それとも遠く離れた地に一人だけ飛ばされてしまったのか。考えるよりも、とにかく動き出さなければ始まらない。
弾みをつけて立ち上がったティエルは、ジハード達の姿を求めて森の中を歩き始めた。
立ち込める深い霧。延々と続く白樺の森。人の姿はおろか、鳥の鳴き声とティエルの足音以外に響く音はなかった。
先程までは感じていなかった心細さが急に襲い掛かってくる。人里離れた森に飛ばされてしまったのではないか。
恐ろしい想像が止まらない。ぶるっと身を震わせたティエルは、心細さを吹き飛ばすために大きく声を張り上げた。
「ジハード、サキョウ! ヴィステージー! わたしだよ、ティエルだよ。いるなら返事をして!」
返事はない。返ってくるのは静寂ばかり。ティエルの今にも泣きそうな声は白樺の森の奥深くへ吸い込まれていく。
とうとう本格的に心細くなってしまった彼女は歩みを止め、がっくりと肩を落としてしまった。完全に迷子である。
本当に自分一人だけ、この森の中に飛ばされてしまったのだ。他のみんなは果たして無事なのだろうか。
「……ねえ、あんた。こんなところで何やってんの?」
「えっ!?」
その時。唐突に背後から声が響いた。
恐る恐るティエルが後ろを振り返ると、驚いた表情を浮かべている一人の若い女が白樺の木の間に立っていたのだ。
見たところティエルよりも年上だ。成人を迎えているだろう。鼻の頭にそばかすを散らした気の強そうな女だった。
黄緑色の髪を左右の高い位置できちんと結っている特徴的な髪型だ。珍しい中東大陸の衣服を身に着けている。
若い女は怪訝な表情で暫くの間ティエルを眺めていたが、やがて思い出したように、ぽんと軽く手を打って見せた。
「人違いだったら申し訳ないんだけどさ、ちょっと間抜けで方向音痴のティエルってあんたのこと?」
「ティエルはわたしだけど……間抜けで方向音痴なんてひどいよ、誰が言ってたの!?」
「あはは、やっぱりそうだった! お友達が凄く心配していたわよ、ジハードくんだっけ。彼、結構イケメンねぇ」
先程までの警戒したような表情はすっかり消え去り、女はティエルに向かって親しげに歩み寄ってきた。
彼女は今『ジハード』と言った。……ということはサキョウやヴィステージも一緒なのか。無事でいるのだろうか。
急に不安に駆られたティエルは目の前の女に飛び付いた。
「ジハードは無事でいるの!? ねえ、それと熊みたいな大きな男の人と癖毛の女の子も一緒じゃなかった!?」
「ち、ちょっと……苦しいってば! そんな馬鹿力で飛び付かれたら、苦しい上に痛いじゃない!」
「あっ、ごめんなさい」
毎日大剣を振り回し、剣の修行に明け暮れていたティエルの腕力は……はっきり言えば並みの女性以上である。
ジハードやサキョウならば、それでも軽く受け止めてくれていたが、女性相手に同じように飛び付いてはいけない。
昔、同じようなことをリアンにも言われたような気がする。
「あんた見た目によらず凄い力ねぇ、一体何をしたらこんなに力が強く……まぁいいわ。
大きな男の人と癖毛の女の子ならジハードくんと一緒にいるわ。三人とも朝からずっとあんたを探していたのよ」
「よかったぁ。三人とも無事でいるんだね」
「ええ。もしかしたらあんたと行き違いになるかもしれないって、今は一旦戻っているわよ」
「一旦戻るって……どこに?」
女の言葉に目をぱちぱちと瞬かせるティエル。
三人の無事に心底ほっとしたが、そもそもここは一体どこなのだろうか。森の中であることは間違いないのだが。
「どこにって……勿論決まってるじゃない。図書館よ、シルヴァラース古代図書館。そのために来たんでしょう?」
「シルヴァラース古代図書館!?」
「そうよ。名乗るのが遅くなっちゃったけど、あたしはナズナ。こう見えても図書館で司書をやっているのよ」
自分一人だけが図書館から遠く離れた場所に飛ばされてしまったのではないかと心配していたティエルであったが、
司書であるナズナが軽装でこの森にいるのだ。それほどシルヴァラース古代図書館は遠い場所ではないのだろう。
それにしてもナズナが見つけてくれて良かった。
「この森は常に霧深いから、初めて訪れた人は迷うかもね。道案内の看板があった方がいいとは思うんだけど……」
「シルヴァラース古代図書館って大陸で一番大きな図書館なんでしょ? そんなに大きな建物なら目立つよね?」
「うーん、うちの図書館は地下に広がる建物だから。地上で見える部分は、そんなに大きくはないわ」
「そうなんだぁ。地下何階くらいまであるの?」
「百五十階まであるわ。それにワンフロアも広いからね。それぞれの階へはワープゲートを使用して移動するのよ」
ナズナと他愛のない会話を続けながら、彼女の道案内でティエルは図書館に向かって進んで行く。
霧は晴れるどころか更に濃くなっているようだ。周囲の白樺の木でさえも朧げに霞んでおり、勿論建物は見えない。
それほど有名な大図書館ならば、道案内の看板をでかでかと出してくれた方が親切だとティエルは思うのだが……。
「でも珍しいわよね」
「えっ、なにが?」
「あんたやジハードくんくらいの年齢の若い子が図書館に来るなんてさ。訪れるのはやっぱり年配の人が多いわよ」
「ふぅん。若いひとでも読書に興味のある人は多いと思うんだけどなー」
「流行の本なら町の本屋に殆ど並んでるし……この図書館にしかない本っていったら、かなり専門的な書物よね?」
前を歩いていたナズナが急に振り返る。
「流行りの演劇のパンフレット、ファッション雑誌にグルメ本。そんなものを探しにきたわけじゃないんでしょ?」
「うん。探しているのはもっと別のことかな」
「やっぱり! どんな本だとしても必ず一緒に探し出してあげるわよ、そのためにあたし達司書がいるんだもの」
「申し出はとてもありがたいんだけど、違うんだ。実はわたし達はひとを探してるんだよね」
「人探しの本ね……確かフロア七十五にそんな関係の本が密集していたわ。必ずそこに探している本があるわよ!」
ティエルの発言を少々勘違いしている様子のナズナであったが、まぁいいかと口を挟むことはやめた。
確かにわざわざ古代図書館で人探しをする者もいないだろう。
ナズナの表情は生き生きとしており、彼女は心からこの仕事に誇りを持っているのだ。もっと彼女の話が聞きたい。
「シルヴァラース古代図書館の司書は凄いのよ! みんな『生きる検索所』と呼ばれているの」
「生きる検索所?」
「利用客に何を聞かれても答えられるように、担当フロアの本の配置を完璧に記憶している者ばかりなんだから」
「凄いなー! わたしも大好きなアイスクリーム屋さんのメニューだったら全部言えるんだけどなぁ……」
ティエルがそんな台詞を呟いたとき、突如ナズナの歩みが止まる。
顔を上げてみると、いつの間にか目前にはどっしりとしたレンガ造りの門が立っていたのだ。全く気付かなかった。
門の向こうには霧に紛れてうっすらとした建物のシルエット。まるでどこかの城のような重厚な建物であった。
門を抜けて近付いていくに連れて、建物の至る所に細かなレリーフが刻まれているのが分かる。相当に古い建物だ。
濃い茶色のレンガに白のレリーフが大変映えていた。まさに大陸一の古代図書館という威厳が伝わってくるようだ。
これほど立派な建造物であるにも拘らず、地上に見えている部分は一見すると単なる一階建てのようにも思える。
やはりナズナが先程言っていたように、この地下には百五十階ものフロアが続いているのだろう。
門は多くの来訪者のために日中は大きく開放されており、美しく整備された中庭が正面入口まで続いているようだ。
「ようこそ、歓迎するわ。ここがシルヴァラース古代図書館よ。あんたの探している本が、見つかりますように」
くるりと振り返ったナズナが笑顔を浮かべながら言った。
呆然と図書館を眺めていたティエルは、彼女の声に漸く我に返ると、どこか緊張した面持ちで一歩足を踏み出した。
よく見ると正面入口前の階段には三つの人影が座り込んでいるようだ。その中の一人が、声を出して立ち上がる。
「ティエル! ……よかった、無事だったんだな」
ひらひらと額の呪符を揺らせながら、安堵の表情を浮かべて駆け寄ってきたのはジハードであった。
彼の後を追うように重い足音を立てて走ってくるのはサキョウ。巨体に見慣れぬナズナの表情が少々強張っている。
サキョウの身体に隠されてしまっていたが、ヴィステージも眉を八の字に下げながらティエルの無事を喜んでいた。
「ワシらは三人揃って図書館の正門前にワープゲートで移動できたのだが……お前は一体どこに飛ばされたのだ?」
「そうですよ、気が付いたらティエルちゃんの姿だけがなかったんですから!」
「ごめんね。三人とも心配かけちゃって。何故だか一人だけ離れたところに飛ばされちゃったみたい」
どうやらワープゲートの座標のずれの影響を受けたのは、ティエル一人だけであった。
森の中でナズナと出会わなければ、自他共に認める方向音痴のティエルは果たして図書館に辿り着けたのだろうか。
恐らく今も尚森の中を彷徨い続けていただろう。
「森の中でナズナと出会ってここまで案内してくれたんだよ。ナズナ、本当にありがとう」
「あたしは司書として当然のことをしただけよ。迷子を図書館まで案内するのも、あたし達の仕事のうちだからね」
「えっ、そんなことまでしなくちゃいけないの!?」
「まぁね。とりあえず立ち話もなんだから……図書館のロビーで話したら? ここは冷えるでしょ」
そう言いながら笑顔を浮かべたナズナは、ずっしりとした両開きの扉を開け放った。
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