Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第5章 シルヴァラース古代図書館

第49話 Endless Nightmare -2-




「……そんなに急いで帰らなくても、一週間くらいゆっくりしていけばいいのに。焦るのもあまりよくないわよ」

ティエル達とは離れたエリアで、クウォーツの貸し出し履歴を調べ続けていたジハードとナズナ。
先程から床に座り込んで考え込んでいる表情のジハードに、ナズナは脚立に上がりながら次々と本を手渡していた。
今日何も手掛かりが見つからなければメドフォードに帰って一度仕切り直すと。そう彼が昨夜言っていたためだ。

ナズナから問い掛けられ、ジハードは静かに本から顔を上げる。


「焦っているわけじゃないんだ。ただ……あいつの貸し出し履歴を眺めていても、手掛かりなんて見つからないよ」
「えっ?」
「勿論最初からそんなことは分かってる。ティエルもサキョウも、そのことに気付いているけど何も言わないんだ」

朝からティエルの表情は暗かった。
恐らく何も見つからないまま今日が終わってしまうのだろうと、前向きな彼女ですら理解していたのかもしれない。
そんなティエルの気が少しでも紛れるならば、無駄だとは知りつつもジハードは今日一日付き合おうと思っている。


「ふーん、ティエルのためね。……でも、ジハードくんの気持ちはどこにあるのよ」
「どこにって?」
「厳しい言い方になっちゃうけど、そんな気休めにいつまで付き合うつもり? あたしは無駄な時間だと思うわ」

「あはは、なかなか厳しいね」
「あたしは無駄だってはっきりと言ってあげた方がティエルのためになると思う。優しさだけが愛情じゃないのよ」
「……無駄、かぁ」

力なく笑みを浮かべたジハードは、同じく弱々しい溜息をついた。


「無駄なんだろうね、きっと。ナズナから見ると今ぼくらがやっていることは」
「そうよ」
「たとえ無駄な行動だとしても……それでも、少しでもいいからあいつのことが知りたいと思うのは無駄なのかな」

「ジハードくん」
「……案外、付き合ってもらっているのはぼくの方なのかもしれない。こうしていると……気が紛れるんだ」


優しく穏やかな表情を決して崩すことのないジハードが、その時ほんの僅かに見せたどこか思い詰めたような表情。
それを目にしたナズナは、心をぎゅっと掴まれたような感覚に襲われる。
思わず手を伸ばして彼の白髪に触れて撫でてやりたいと。抱きしめて慰めてあげたいと、衝動的にそう思ったのだ。

ぐっと拳を握り締めたナズナは意を決したように、俯いているジハードに向かって静かに手を伸ばしていく。
その指先が彼の髪に触れそうになった瞬間。唐突に彼が顔を上げたのだ。


「!」
「そんな無駄な行動をしているぼくらを、ナズナは休日なのに手伝ってくれているじゃないか。あなたは優しいね」
「え、ええと……それは、司書。司書としてよ! 図書館で困っている人がいたら、助けてあげるのが役目でしょ」

「……休日なのに?」
「休日でも! だから別に、ジハードくんが好みのタイプだったからとか……そういうことじゃないんだからね!」
「好みのタイプって、なんだそりゃ」

静かなフロア内に場違いなほど大きなナズナの声が響き渡る。
顔を真っ赤にさせた彼女は聞かれてもいないことを一気にまくし立て、照れ隠しに脚立から勢いよく飛び降りる。


「あたしは司書だもの。そこに私情は挟まないし、助けるのは当然のことだわ」
「分かったよ、ありがとう。そういうことにしておこうかな」
「絶対に分かってないでしょ!?」

一連のナズナの仕草が面白かったのか、笑いを必死に堪えているジハード。だが堪えてはいたが隠せていなかった。
勿論彼女はそれに気付いており、頬を膨らませながらじろりと睨み付ける。


「ごめんごめん。あなたは立派な司書だよ。……けれど、仕事が嫌になったりはしないのかい?」
「嫌って?」
「好きな仕事だからといっても、いつも楽しいことばかりじゃないだろ。理不尽な利用客もいるんじゃないの?」

「そりゃあそうよ。でも、そんな人でもお客様はお客様。困っていたら声を掛けるのが、司書としての役目なのよ」
「……」
「どんなことがあっても、この仕事は決して苦にはならないわ。……だって、あたしは本が好きだもの」

己の仕事に誇りを持っている。胸を張ってにっこりと笑みを浮かべるナズナの姿は、生き生きと輝いて見えたのだ。
努力を重ね続けてきてもその全てを打ち砕かれてきたジハードにとっては、ほんの少しだけ羨ましくも思えた。


「ナズナが羨ましいな」
「なによ、突然……」
「ぼくは全てのことを中途半端のまま諦めてしまったからね。もう一度だけ、諦めずに何かを始めてみようかな」

「新しいことを始めてみようって思っているんなら、あたしと一緒にここで司書をするっていうのはどうかしら?」
「え?」
「ここは万年人手不足だし、あたしが推薦すればすぐに採用されるわ!」

「……いや……でも、どうだろうね。ぼくは割とサボり癖があるからなぁ。仕事にならないかもしれないよ?」
「大丈夫。あたしが隣でしっかりと見張ってるから。司書の毎日はきっと楽しいと思うわ」


想像もしていなかったナズナの言葉に、ジハードは思わず空色の瞳を瞬いた。
古代図書館の司書。きっと彼女の言うとおり、楽しい毎日だろう。そんな別の人生があってもいいのかもしれない。
その時はよろしくね、と軽い気持ちで答えようとしたジハードの脳裏に幼いカリュブディスの姿が過ぎっていった。

ジハードにとって軽い口約束のようなものが、相手にとっては何よりも大切な約束になる場合もある。
ナズナの表情は真剣そのものだ。軽々しく答えたら失礼になる。それを思い出したからこそ彼は返事に迷ったのだ。
黙ったままのジハードの態度をナズナは好意的に捉えたのか、一歩ずつ彼に歩み寄って行く。


「いつになってもいいわ。あたし、待ち続けるのには慣れているから。だから、待っててもいいかな……?」


顔を赤くさせたナズナがまた一歩歩み寄った時。突然周囲に気配を感じたジハードの空色の瞳が厳しく細められる。
見たこともないジハードの険しい表情にナズナが驚いて首を傾げると、彼は手にしていた虹の本を開いていた。
用心深く周囲の様子を探りつつ、状況を呑み込めていないナズナの腕を引いて守るように彼女の前に立ちはだかる。

「急にどうしたの? ジハードくん」
「……ナズナ、絶対にぼくから離れるな。周囲の様子がおかしい」
「え? おかしいって言われても、あたしは何も感じないけど……」


明らかに周囲の空気が突如変わった。背筋が薄ら寒くなるような感覚が纏わり付く。
それと同時に複数名の気配をジハードは感じたのだ。だが奇妙なことに、そのほぼ全てが生きた気配ではなかった。
元々このフロア六十六の空気はどんよりと澱んでいたが、先程までの空気とは比べ物にならないほど重いのだ。

何かが、いる。……確実に、何かがこちらに近付いてくる。
背後のナズナが不安そうな表情で見上げてきた。もしかしたら必要以上に怯えさせてしまっているのかもしれない。
彼女を安心させるために笑顔を浮かべようとしたが、偽りの笑顔ですら浮かべることのできない己に気付いたのだ。

緊迫した空気か、薄ら寒くなるような周囲の空気か。一体どちらの理由なのか。彼はらしくもなく緊張していた。


前方から聞き覚えのある涼やかな鈴の音が鳴り響く。思わず身体を硬直させたジハードの背にナズナが縋り付いた。
分かっている。ただ認めたくないだけだ。勿論こちらに向かってくる人物が誰なのか、彼は既に気が付いていた。
それでも否定したかった。肌に浸み込んでくる以前とは変わり果てた気配に、全神経が否定をしているようだった。

もう一度だけ鳴る鈴の音。まるで毒素のような気配を持った人物が、前方で立ち止まった。
覚悟を決めたジハードは手にしていたカンテラをゆっくりと掲げると、普段と変わらぬ穏やかな表情を浮かべる。


「やあ……リアン。久しぶりだね」


薄く透ける素材の赤いヴェールを身に纏い、魅惑的な身体のラインを曝け出した深いスリットの入ったスカート。
卵型の輪郭。ほんのりとピンクに染まった白い肌。蜂蜜を数滴垂らした、宝石のようなカーネリアンの大きな瞳。
ウェーブのかかった長いハニーシアンの髪は風もないのに揺れており、意思を持って動いているようにも見える。

図書館には場違いなほど魅惑的で美しい女が立っていた。彼女を忘れるはずがない。忘れることなどできはしない。
ゾルディス王国を陰で支配する宰相……人々は彼女を『焔の魔女』と呼んでいる。
ジハードに『リアン』と呼ばれた彼女は、以前と変わらぬ明るい微笑みを浮かべながら心底嬉しそうに口を開いた。


「本当に久しぶりねぇ、ジハード。会えて嬉しいわ。ゾルディスはいい男が全くいなくて張り合いがなかったのよ」

「……ははは、相変わらずの面食いだな。そういう所は全く変わってないね」
「あらぁ、折角の感動の再会だっていうのに。もっと嬉しそうにしなさいよぉ。私と会えて嬉しいはずでしょう?」
「勿論嬉しいよ。でも、ぼくは元々いつもこんな態度だっただろ?」
「そういえばそうね。あなたは自信家で、誰に対しても余裕の態度を崩すことはない男。すっかり忘れていたわぁ」


焔の王国ゾルディスを操る宰相、焔の魔女。謎に満ちたその正体は、苦楽を共にしたリアンと呼ばれる女であった。
約一年前。メドフォード城謁見の間での崩壊で発生した亀裂に姿を消した。普通ならば、助かるはずのない高さだ。
それでも今日までジハードは彼女の無事を願い続けていた。生きているだけでもいいと、ただそう願い続けてきた。

……たとえそれが、皆をずっと欺き続けてきた『リアン』という、今ではもう存在しない女だとしても。


「でもね、ジハード。残念だけど今回はあなたに用はないの。あなたの背後で震えている司書さんに用があるのよ」
「司書?」

リアンの言葉に眉を顰めたジハードだったが、はっと息を呑むと背後のナズナを振り返った。
周囲の重苦しい空気のためか。それとも恐怖のためか。彼女は歯を鳴らしながらジハードの腕にしがみ付いていた。
意外なことにリアンの目的は司書であるナズナだというのだ。


「一体ナズナに何の用がある? リアン、あなたがぼくに用がなくとも……ぼくはあなたに用があるんだ」
「うふふ。あなたみたいないい男に真剣な顔で強く求められたら、女としてなかなか悪い気はしないですわねぇ」
「シルヴァラース古代図書館に来た目的は何だ? ナズナをどうするつもりだ」

「別にどうだっていいじゃない。あなたに話すつもりはないわ。もしかしてジハード……私の邪魔をする気なの?」
「あなたの目的によっては全力で阻止するつもりだよ」
「無理よ。確かにあなたは私よりも強いのかもしれないけれど、決して私を傷付けることはできない」

完璧な微笑を浮かべたまま、リアンが一歩前に歩み出る。
以前の彼女と何一つ変わらないと信じたい半面、心のどこかではあの頃の彼女はもういないのだと理解していた。
それゆえにジハードは反射的にナズナの腕を取ってリアンとの距離を取ったのだ。


「いやねぇ、そんなに警戒しないで下さいな。その司書さんには一つだけ、訊ねたいことがあるだけなんですのよ」
「……訊ねたいことだって?」
「ええ。禁じられた儀式、ラストジャッジメントの正式な文献の場所。検索では禁書扱いになっているみたいねぇ」
「ラストジャッジメント?」

聞き覚えのある単語にジハードは思わず眉を顰める。クウォーツが閲覧した文献で、何度も目にした単語であった。
どうやら儀式の正式な文献は禁書扱いになっているようだ。リアンの言葉に反応したナズナの顔色が途端に変わる。
痛いほどジハードの腕を掴みながら彼女はふるふると力強く首を振った。

「駄目よ……絶対に駄目。禁書については何も言えないわ。司書の誇りにかけて、絶対に教えることはできない!」





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