Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第5章 シルヴァラース古代図書館
第50話 Endless Nightmare -3-
「司書の誇りにかけても、ね……」
恐怖で震えながらも気丈な眼差しを向けてくるナズナに、リアンはどこか楽しんでいるかのような笑みを浮かべた。
声だけ聞いていれば以前のリアンと全く変わらないはずなのに。このじわじわと浸食する悪寒は一体何なのだろう。
ハニーシアンの長い髪。美しくカールされた毛先は彼女の自慢の髪であった。
多くの男達を虜にしてきたであろう魅力的な肢体。張りのある豊満な胸を揺らせながら、リアンはまた歩み寄った。
だがこの女は本当にリアンなのだろうかと。よく似た別の人物ではないのかとジハードは思い込みたかったのだ。
「それならば仕方がないですわねぇ。誇り高い司書さんが、口を割らなければならない状況を作るしかないですわ」
「く……口を割らなければならない状況ってなによ!」
「かつての仲間を手に掛けるのは本当に心が痛むけれど……まずはこの男を殺す。一人ずつ利用客を殺していくわ」
リアンから放たれる明らかな殺気。それは間違いなく、ナズナの前に立ちはだかるジハードへと向けられていた。
単なる脅しなどではなく本気で殺すつもりである。生半可な覚悟で戦えば、ただではすまないであろう相手だ。
悪魔族と契約を交わして膨大な力を手に入れたとはいえ、ジハードが本気を出せばリアンは勝てない相手ではない。
果たして本気を出せるのだろうか。大切な仲間であった彼女を、本気で殺すつもりで立ち向かわなければならない。
先程リアンは言った。『あなたは私よりも強いのかもしれないけれど、私を傷付けることはできない』のだと。
確かにそのとおりであった。……何があったとしても、今のジハードはリアンを傷付けることはできないだろう。
「うーん、まいったな……ぼくは戦う気なんて全くないんだけどなぁ」
「甘いことを言っていられるのも今のうちでしてよ。あなたの欠点は、敵には容赦がないのに身内には甘いことよ」
「心外だな。それはぼくの長所だろう?」
「あなたに決して私は殺せない。傷付けることすらできないわ。……けれど残念ですわね、私はあなたを殺せるの」
その言葉と同時にリアンが手にしたロッドの先から、魔力で生み出された超高熱の炎の塊が次々と飛び出してくる。
まずい。ここは図書館だ。燃え広がる材料は豊富にあった。本棚に燃え移ってしまったら大惨事に繋がってしまう。
リアンもそれを狙っているのだろう。勿論彼女の得意魔法が炎の魔法だということも関係しているだろうが。
「ジハードくん!」
「ナズナ、しっかりぼくに掴まってろ!」
瞬時に広がる虹の光。
ジハードが発動させた巨大な魔法陣は彼を中心として、半径五メートルほどの円となって三人をぐるりと取り囲む。
向かってきた炎をナズナを抱きかかえながら地面を蹴って次々とかわしていくが、全てを避けきれるわけではない。
避けきれなかった炎は中途半端に完成させた障壁陣で跳ね返すが、ナズナを抱えつつ極陣を描くのは至難の業だ。
先程ジハードが放った巨大な魔法陣は、その範囲内に魔法の影響を留めておくという高等魔法である。
勿論魔力消費量も相当だったが、これならば本棚に燃え移っていく炎を魔法陣の中で食い止めることができるのだ。
ただし、魔法陣に対して常に魔力の供給を続けなければならないが。膨大な魔力を持つ彼だからこそ可能な魔法だ。
正直ナズナを守りながらの戦闘はかなり厳しい。ましてやジハードはリアンを傷付ける気は全くなく、防戦一方だ。
できるだけ早くナズナをこの場から遠ざけなければならない。リアンの目的は司書である彼女なのだから。
「あらぁ、包囲魔法陣とは考えたわねぇ。これでこのフロアが火の海になることだけは避けることができますわ」
「図書館が消失するのは、あなたにとっても不利益になるんじゃないかな。禁書の在処を探しているんだろう?」
「……まぁ確かにそうですわね。恐らくラストジャッジメントの文献は、このフロアにあると私は考えていますわ」
「だったら少しでも炎を鎮火してもらいたいものだね。この魔法陣のエリア内に禁書があるかもしれないぜ」
「うふふ、鎮火ですって? よくってよ!」
茶目っ気のある笑顔を浮かべながら、絶対零度の魔力の纏ったロッドをリアンが振り下ろす。
猛吹雪を発生させる魔術ホワイトフリージングだ。燃え盛る炎ですらも瞬時に凍結させる恐ろしい魔法であった。
吹き荒ぶ風のあまりの冷たさに指先の感覚を失ってしまいそうだ。それでもナズナの命は守らなければならない。
凍死を避けるためにジハードが周囲に業火の陣を描くと、二人の周囲だけ猛吹雪を和らげることができたようだ。
凍り付いた床に座り込んだナズナは寒さによって小刻みに震えているが、見たところ火傷や凍傷は負っていない。
その時。思わずほっと肩を撫で下ろしたジハードの脇腹と右肩に激痛が走った。
痛みによって手放してしまったリグ・ヴェーダが、重い音を立てて落ちた。表紙には赤黒い液体が付着している。
ぽたり、ぽたり、と次々にリグ・ヴェーダの表紙に落ちてくる赤い液体を眺め、ジハードの思考は一瞬停止した。
赤い液体。血のようにも見える。……血? ならば一体これは誰の血なのだろう、と。
「ジハードくん、しっかりして!!」
張り裂けそうなほど悲痛なナズナの声が辺りに響き渡る。
そこで初めて彼は、飛び散った赤い液体が己の血だと気付いたのだ。身体から力が抜け、思わず片膝を地に突いた。
氷の刃だ。リアンによって生み出された魔力の刃が、背後から脇腹と右肩に深々と突き刺さっている。
敵に対して背を向けるなど、隙のない普段のジハードならば考えられぬほどの失態だ。
それほど彼はリアンに対して油断をしていた。まさか背後から魔法を打ち込んでくるはずがないと思っていたのだ。
……思い込みたかった、という表現の方が正しいのかもしれない。そうであってくれと願っていたのかもしれない。
悴んだ手で突き刺さっていた氷の刃を抜き捨てる。幸いにも急所は外れているが、決して軽傷とは言えない状態だ。
じんじんと熱を持った重い痛みが脇腹と肩に残り続けている。
「おかしいわねぇ、全部急所を狙ったんですのよ? 無意識に避けたのかしら。相変わらずあなたは運が良いのね」
リアンの声で、鈴を転がすような声で笑い声を上げる。
これ以上彼女の声を耳にしたくなかった。痛い。刺された腹や肩よりも、もっと違う場所が酷く痛みを発していた。
世話焼きで少し我が侭で。自分は彼女の愚痴を聞かされてばかりだったけれど、誰よりも仲間思いだと思っていた。
力を求め過ぎたあまり禁忌に触れたリアンとは、どこか似た者同士であった。その所為か、とても気が合ったのだ。
心惹かれた相手すらも同じだった。彼女ならばきっとクウォーツの境遇を救えるのかもしれないと思っていたのに。
初めから『リアン』という娘は存在しなかった。では、今目の前に立っている彼女は一体誰なのだろうか?
膝を突いているジハードの横をゆっくりと通り過ぎたリアンは、顔色を蒼白にさせているナズナの前で立ち止まる。
「でも次は外しませんわよ。心臓と頭を確実に狙ってあげますわ。……司書さん、それでも何も言わないつもり?」
「あ……あんた、おかしいわ。ジハードくんにこんな酷いことがどうしてできるのよ……!」
「あなたが答えなくても、あなたの死体を他の司書に見せて同じことを聞くだけですけれどね。賢く生きなさいな」
「言えるわけがないじゃない! 誰があんたなんかに言うもんですか、この人殺し!!」
「そう、残念ねぇ。じゃあ死になさいな」
「やめろ、リアン!!」
魔法を放つためにナズナに向けて振り下ろされたリアンの手首を、彼女の前に飛び出したジハードが掴んで止める。
普段は柔らかな笑顔を浮かべている彼にしては珍しく、表情にはありありと険しさが浮かんでいた。
「……リアン。ナズナには絶対に手を出すな。彼女を傷付けるというのなら、たとえ……あなただとしても」
「あら怖い、どうするのかしら。本気の顔をしたあなたはなかなか素敵ですわね。思わずときめいてしまいますわ」
「ははは。そんなこと心にも思っていないくせに。……ナズナ、今のうちにティエル達の元へ走れ!」
逃げることもできずに腰を抜かした状態で本棚に寄り掛かっているナズナに顔を向け、ジハードは力の限りに叫ぶ。
彼女は酷く怯えていた。それも当然のことだろう。
血生臭い世界とは縁遠く生きてきたナズナの目の前で強力な魔法が飛び交い、正に人が殺されようとしているのだ。
まずはナズナの安全を最優先にしなければならない。一刻も早く彼女をティエル達と合流させなければ。
「でっ……でも、ジハードくんはどうするのよ!? このままだと絶対にその女に殺されるわ……!」
「ぼくは大丈夫だ。いいから早く行け!」
「ジハードくんを置いて行けないわ! だって、あたしはジハードくんのことが……」
「あなたがここに残っている方がやりにくいんだ。正直言って守ってやれる自信がない、だから早く逃げてくれ!」
リアンを止めているジハードの姿を暫く見つめていたナズナだが、やがて唇を噛みしめると背を向けて駆け出した。
ナズナを守りつつリアンの攻撃を避け続けるのも限界であった。一人だけならばリアンを止められるかもしれない。
「……それであの女を逃がしたつもりなの、ジハード? 死にたくなければこれ以上邪魔をしないで下さるかしら」
「あなたはアスモデウスのためにラストジャッジメントの文献を探しているんだろう」
「それが何?」
「ラストジャッジメントは悪魔族が完全に光に抗体が持てる儀式だ。リアン、もうあの男に関わるのはやめてくれ」
「あなたにそんなことを指図される筋合いはないわ。私はアスモデウス様に身も心も全て捧げるつもりなのだから」
「リアンのために言っているんだよ! 絶対に後悔する。知っているのか、アスモデウスは恐らくあいつの父……」
「相変わらずごちゃごちゃとよく喋る男ねぇ、私が後悔するわけがないじゃない!」
規模こそは小さなものだったが、超至近距離にも拘わらずリアンは躊躇いもなく彼に爆破の魔法を発動させたのだ。
ジハードは既にこの反撃を予想していたのか、その瞬間彼は防護の魔法陣を発動させる。
しかし防護の魔法陣も完璧ではなく、爆風に飛ばされたジハードは背を本棚に強打してしまう。周囲に散乱する本。
嫌な痛みだった。背骨にひびが入ったのだろう。感覚が残っていることから、脊髄までは損傷していないはずだ。
途端に忘れかけていた腹部と右肩の痛みが襲ってくるが、治癒魔法を掛けながら痛みに耐える。
この間にも彼は周囲に仕掛けた巨大魔法陣に魔力を消費し続けており、凄まじい勢いで体力を削り取られていた。
「ぐぅっ……!」
「珍しいわね、あなたが痛みで苦しむ顔って。美形が苦しんでいる顔はそそりますわぁ。偽りの笑顔よりも素敵よ」
「……」
「被害が広がらぬように仕掛けた魔法陣を維持するために、治癒魔法の効果が半減以下になっているみたいですし」
「……リアン」
「なぁに? ジハード」
蜂蜜色を帯びたカーネリアンの瞳。
笑顔を浮かべた彼女の姿は、この上ない優しさと愛情に満ち溢れていた。まるで、何事もなかったかのように。
震えながら血濡れた右手を彼女に向かって伸ばしたジハードに応えるために、リアンは優しく彼の手を握りしめる。
「すまない」
「え?」
「あなたが昔言っていたように……ぼくとあなたはよく似ている。力を求めた理由も、その考え方もよく似ていた」
「……そうね」
「だからこそあなたが抱えていた苦しみに誰よりも気付かなくてはならなかったのに。気付くことができなかった」
「……」
「リアン、もう一度ぼくらはやり直せないか。あなたが抱える苦しみも……丸ごとぼくが受け止めてあげるから」
敵にはあれほど非情になれるのに、一度心を許した相手には惜しみない愛情を注いで最後まで寄り添おうとする。
それはジハードの最大の長所でもあり、リアンが先程述べたように彼にとって致命的な最大の欠点でもあった。
あの頃と全く変わらぬ笑みを湛えたままリアンは彼の手を取りながら抱きしめる。……抱きしめたように、見えた。
やっと、声が届いたんだな。と。
同じくジハードも笑顔を浮かべようと口を開きかけるが。声の代わりに溢れ出てきたものは、どす黒い血であった。
自身に何が起きたのか理解できぬまま、ジハードは青い瞳を見開いたままリアンに向かって倒れ込んだ。
腹が熱い。痛みを通り越して灼熱のように熱かった。言葉を発そうとしても、込み上げるものは生温かい血ばかり。
どこか寂しげな笑みを浮かべているリアンの手に握られていたのは、血に塗れた短剣であった。
刃先は深々とジハードの腹に埋め込まれており、溢れ出た血がリアンの白いスカートに赤い染みを作り上げている。
「さよなら、ジハード。……もしもクウォーツと出会っていなければ、私はあなたを……愛していたでしょうね」
己が吐き出した血で汚れたジハードの口元を壊れ物を扱うように優しく拭ってやると、彼の頬にそっと口付ける。
それから急に声のトーンを落としたリアンは、くるりと背後を振り返った。
「馬鹿ねぇ、彼が時間を稼いでいる間に逃げればよかったものを。まぁいいわ。これでゆっくりお話ができるわね」
……ナズナが立っていた。
途中で引き返してしまったのだろうか。蒼白ながらも気丈に立ち、目の前の光景を信じられぬように見つめている。
リアンは静かに歩み寄って行くと、先程までジハードに向けていた笑顔からは信じられぬほど冷たい微笑を向けた。
ジハードの血で濡れた両手でナズナの頬を包み込む。ぬるりとした生温かい血の感触に、ナズナの肩が跳ね上がる。
「やだ……嘘でしょ……ジハードくんは生きているのよね……? ねぇ!?」
「さぁ、どうかしらね。それじゃあ司書さん、これで最後の質問にしましょうか」
「えっ?」
「ラストジャッジメントの文献の在処を言いなさい。ジハードを助けたいんでしょう?」
「あ……在処を言ったら」
「なんですの?」
「ラストジャッジメントの文献の場所を言ったら、もうこれ以上ジハードくんを傷付けないって約束してくれる?」
「……勿論よ。そもそも彼は私の大切な仲間だったんですもの。傷付けるのは本意ではないわ」
うつ伏せに倒れたまま全く動かないジハードに恐る恐る顔を向けたナズナは、震える手でカードキーを差し出した。
金色に輝くそれは、図書館の薄暗い照明に反射して鈍く輝いていた。
「このカードキーを挿しながら検索すれば、禁書のロックが解除されるわ」
「へぇ、便利ですわね」
「図書館内の鍵が掛かっている場所も、このカードキーなら殆ど開けることができる。……あたしの、司書の証よ」
「うふふ。最初から素直に渡していれば、誰も傷付かずに済んだのに。そう……最初から渡していれば、ね」
カードキーをナズナから受け取ったリアンは、唇の端を歪めると満足そうに笑みを浮かべる。
明らかな殺気を含んだ強力な魔力が彼女の手に集っていくのが、朦朧とした意識の中ジハードにも感じられたのだ。
声を出そうとしても身体が全く動かない。血を流しすぎたのだ。治癒魔法を使用する体力すら残ってはいなかった。
普段ならばすぐに止血していた脇腹と右肩の傷を、長く放置していた。リアンだけに意識を向けすぎていたのだ。
駄目だリアン、と何度も口に出したくても、声ではない掠れた呼吸が漏れるだけであった。駄目だ、それだけは。
ぼんやりとしたジハードの視界に、救いを求めるようなナズナの姿が映った。
「残念だけど司書さん、あなたは色々と知ってしまった。私の素顔も、目的も。だから、生かしてはおけないわ」
「あ……あたし、死にたくないよ……助けて、ジハードくん……!!」
……ぱしゃん。
頭上から生温かい液体が注がれてくる。噎せ返るような臭いと共に、柔らかな形あるものがジハードに降り注ぐ。
手のような形のもの、足のような形のもの。臭気を放つ、べちゃべちゃとした赤黒い塊。まるで赤い雨のようだ。
最後に一つ、大きな塊がごろんと目の前に転がってきた。
震える両手でナズナの首だったものを引き寄せる。恐怖に引き攣り、彼女は涙を溢れさせた表情のまま死んでいた。
彼女の頭を抱きしめたまま、ジハードは声にならない声で叫び続けた。
何が起こったのかは理解していたが、状況に心が追いつかない。叫んでいなければ正気を保てなくなりそうだった。
そんな彼の姿を、立ち去ることもなくリアンはいつまでも見つめていたのだった。
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