Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第6章 Melodies of Heart

第52話 若き伯爵の抒情詩 -1-




時刻は夕暮れ時が終わりを告げ、街灯にぽつりぽつりと明かりが灯される頃。
町の中央大通りは商店の窓から洩れる橙色で美しいコントラストを作り上げ、道行く人々は急ぎ足で家路を目指す。
古めかしい木々で建てられた家が並び、町の中心には同じく古びた教会があり。どこにでもあるような町だった。

それほど開放的で大きな町とは言えず、どちらかといえば古くからのしがらみに囚われた閉鎖的な雰囲気である。
勿論大通りにはブランド店もお洒落なカフェもない。賭博場や色町という存在もなく娯楽といえば大きな酒場のみ。
しかしこの町で暮らす人々は、素朴な日々の暮らしに十分満足していた。皆娯楽らしい娯楽を知らなかったためだ。


「ちっ、何だよここは……歓楽街すらねぇのかよ。あーあ、つまらねぇ町に辿り着いちまったなぁ」


営業しているのかも分からぬような寂れた宿屋がたった一つだけ。もしや旅人が訪れることすら珍しいのだろうか。
そんな町の入口に、大きな荷物を背負った男が立っていた。年齢は四十代後半か。
身なりを全く気にすることがないのか伸ばし放題の長い茶色の髪を背後で纏めており、口元には無精ヒゲが目立つ。

眼光は常に獲物を狙っているかのようにぎらぎらと光っており、捲り上げた袖から覗く腕は相当に鍛えられている。
この男はただの旅人などではないと、誰もが一目で理解するだろう。


「だっせぇ町でも酒場くらいはあるみてーだな。……ったくよぉ、これでメシまで不味かったら承知しねぇからな」

前方でビールジョッキを模した木の看板を目にした男は、数日洗髪していない脂ぎった頭を掻きながら歩き始める。
鍛え抜かれた両腕に反して若干腹の脂肪が目立つ。鍛錬は日々怠ってはいないが、腹の贅肉はなかなか強敵だった。
昔から気を抜くとすぐに太ってしまう体質がゆえ、この筋肉を維持しているだけでも褒めてもらいたいくらいだ。

「こんなクソ田舎の町だからこそ、いい話が転がっているかもしれねぇ。腹も減ったし、今日はこの町に泊まるか」


年季の入った鉄製のノブを掴み、一気に扉を開いた。
耳に飛び込んでくる喧噪。唯一の娯楽である酒場は、寂れた町の雰囲気からは想像もつかないほど賑わっている。
所狭しとテーブルが並んでおり、椅子の足りない席では木箱に腰を下ろしている男達もちらほらと見受けられた。

最奥のカウンターにはマスターと思わしき肥えた中年の男が、馴染みの客と世間話に花を咲かせているようだ。
注文が飛び交う賑やかなホールでは、派手な化粧をした薄着の女達がトレイを手にしながら忙しそうに駆け回る。
……だが。酒場はこんなにも明るい笑い声に包まれているというのに、男にはどこかそれが不自然に思えたのだ。

まるで押し寄せる不安を隠しているような。無理矢理に笑って振舞っているような。客達の様子はそう見えた。


「あら珍しい。お客さん、この町では見かけない顔ね」
「あぁん?」
「ごめんね、ちょっと混んでてさ。……こんな不安な状況じゃ、酒でも飲んでないとやってられないんだろうねぇ」

トレイを持った女の一人が戸口に立つ男に気付き、真っ赤なルージュに愛想笑いを浮かべながら歩み寄ってくる。
彼女が一歩足を踏み出すごとに、豊満な乳房が自己主張をするかのように揺れていた。
壁際の席に案内をされた男は、怪訝な顔付きで給仕の女を睨み付ける。やはりこの女も不自然な笑い方をしていた。


「おい、なんでぇ。何かあったのか? 儲け話なら聞かせてくれよ」
「何でもないよ、折角来てくれた旅人さんを怖がらすわけにもいかないし。話すと後でマスターに叱られちゃうわ」
「怖がるぅ?」

あっさりとはぐらかされてしまった。
話の内容が少々気になった男だが、こんな田舎町に長居する気は更々ない。特に追及せずに注文だけを女に伝える。
町もつまらなければ、住んでいる奴らも皆つまらないと思った。辛気臭い町に儲け話など転がっているはずがない。

ぎしぎしと軋んだ音を立てる椅子に身体を預け、男は目を細めながら周囲を見回した。
無理矢理に笑うことで不安を吹き飛ばそうとしている町人達は、ただの馬鹿にしか見えないと若干苛つきを覚える。


「お待たせ。ご注文のビールとステーキセットよ」

暫くの後。先程の給仕の女が、並々と注がれたビールジョッキと湯気の立った分厚い肉が乗る大皿を運んできた。
ステーキといっても勿論一流のレストランでお目にかかれるような味付けではない。塩と胡椒のみの素朴な調理だ。
味は二の次。とりあえず腹さえ膨れればそれでいい、という男はそれほど気にすることもなかったが。

「それじゃ、ごゆっくりね」
「おーい、ちょっと待てよ姉ちゃん。つれねぇなぁ」

テーブルに大皿を置くと会釈をしながらすぐに立ち去ろうとする女の手を掴むと、男は懐からリン金貨を覗かせる。


「へへへ。一晩リン金貨二枚でどうだ? オレのデカチンに病みつきになるぜぇ」
「……折角のお誘いだけど、今はそれどころじゃないの。お客さんも早いうちにこの町から出て行った方がいいわ」
「はぁ? どういうことだよ」
「今にきっと、この町は化け物に皆殺しにされるわ。いくら高額な賞金だとしても、誰が仕留めになんか行くのよ」

「化け物? 高額な賞金?」
「やだ。話しすぎたわ。……これ以上はアタシからは話せない。どうしても聞きたければ、マスターに聞いてね!」


慌てた女はカウンターで馴染み客と話し込んでいる肥えた男を指し、そそくさと他のテーブルの注文を取りに行く。

……確かに今、化け物に高額な賞金が掛かっていると女は言っていた。
やはり意外な場所に儲け話は転がっているものなのだ。己の勘に狂いはなかったと、男はにやりと笑みを浮かべる。
こんな小さな町では、化け物を相手にできるような強者は存在しないだろう。となると、賞金はかなり高額になる。

残りが半分ほどになったビールジョッキとステーキの皿を持ち、男は早速マスターの立つカウンターへ進んでいく。
どうやら馴染みの客との世間話は終わったようで、野菜の搬入に来た大男に対応しているようだ。
大量の野菜が入った籠を抱えているのは見上げるような大男。顔がまるで潰れた蝋のようにひしゃげている醜男だ。


「それじゃあマスター、明日の分の野菜を置いておきますね」
「……わざわざ店の中まで入ってくるなって言っただろ、ヘイムダル。お前の顔を見ると酒が不味くなるんだよ」
「す、すみません」
「もういいから、さっさと出て行ってくれ。スミスさんも物好きだよ、こんないじけた不細工を雇ってるなんてな」

マスターに睨まれ、醜い大男は野菜の籠をカウンターに置くと巨体を丸めるように項垂れながら去っていく。
醜男が去ったタイミングを見計らい、ビールジョッキを手にした男は音を立てながら乱暴にカウンター席に着いた。


「おい、マスター」
「なんだいあんたは……見ない顔だな、余所者か。それを食い終わったら早々にこの町を出ることをお勧めするぜ」
「隠すなよ。もう知っているんだぜ? ……出るんだろ? 化け物がよ。お前ら全員、それに怯えているんだろ?」

口元に下卑た笑みを浮かべ、男はステーキにフォークを突き刺した。その声に客達は口を閉ざし、一斉に振り返る。
先程までの喧騒が嘘のように静まり返った酒場。
にやにやと軽い口調で話す男を、皆が値踏みするように眺めている。だが男は気にする素振りを見せずに続けた。


「詳しく話を聞かせてもらおうじゃねぇか。場合によっちゃあ、その化け物。オレが始末してきてやってもいいぜ」

「い、いくらあんたが腕に自信があったとしても……無理だよ。逆に殺される。相手は単なる魔物じゃないんだ!」
「オレが殺されるって? へぇ、単なる魔物じゃねぇんなら、相手は一体何なんだよ」

「……ヴァンパイアだ」


マスターの言葉と共に、周囲の客達から悲鳴が上がる。
青ざめた顔をしながら震える者。絶望のあまり座り込む者。十字架を手にしてぶつぶつと救いを求める声を呟く者。
ヴァンパイアといえば、恐ろしい悪魔族の中でも最上級種と言われている。人の生き血と精気を奪う夜の住人だ。

「これで分かっただろう? あんたには無理なんだよ」

先程まで自信満々の態度であった男は、てっきり青い顔をしながら震え上がっているものだと誰もが思っていた。
だが振り返ったマスターが目にした男の顔は、変わらぬ薄ら笑いを浮かべており、まるで驚く様子がなかったのだ。
むしろどこか楽しそうな表情ですらあった。己の腕に余程自信があるのだろう。


「で、その恐ろしいヴァンパイア様の特徴は? おっと大事なことを忘れちゃいけねぇな、賞金額を教えてくれよ」
「あんた死ぬ気か!? 悪いことは言わない、絶対にやめておくんだ!」

「……名乗るのが遅れちまったな。オレの名はガッシュ。ちょっとは名の知れた悪魔族専門のハンターなんだぜ?」
「悪魔ハンター!?」
「ああ、今まで仕留めた悪魔族は二十体以上。へへへ……小便漏らして泣き叫ぶのは、そのヴァンパイアの方だな」

ガッシュと名乗った男は口元に歪んだ笑みを浮かべたまま、その鋭い瞳で周囲を見回した。
幾度の死線を経験した鋭い瞳。様々な武器の詰まった大荷物。鍛え抜かれた肉体。確かに実力は相当なものだろう。


「ギルドが提示している賞金額は……七百万リンだ。生死は問わず」
「へぇ、七百万リンか。相場の三倍だな、悪魔ハンターにとっちゃ悪い話じゃねぇ。そいつの特徴と出没場所は?」
「オ……オレが話すよ!」

渋々賞金額を口に出したマスターを遮り、ガッシュに駆け寄ってきたのは客の一人である中年の男であった。


「町はずれの荒野に朽ちかけた小さな城があるんだ。一族は皆死に絶えて、今はもう誰も住んでいないはずだった」
「断絶した貴族の城ってか? なかなか雰囲気がある場所じゃねぇか」
「茶化さないでくれよ、ハンターさん。……事の始まりは二週間ほど前。オレが仕事で隣町に行った帰りだった」

誰も住んでいないはずの朽ちた城の窓枠に、頭から黒いフードを被った人影が見えたのだ。
最初は盗賊の類と思っていた。町はずれの空き家を根城にする盗賊がいると、どこかで聞いたことがあったためだ。
相手は一人。男は酒が入って気が大きくなっていたこともあり、道端に落ちていた石を人影に向かって投げ付けた。

背を向けていたはずの相手は、まるで最初から気付いていたかのように石を避けてしまった。なんて反射神経だ。
その瞬間。フードが僅かに捲れ、月明かりの下でもはっきりと見えたのだ。長く尖った耳と、闇の中で光る双瞳を。


「最初はエルフ族かと思ったんだよ! でもあの人影の纏っていた妖気は、絶対にエルフなんかじゃねぇ!」
「長く尖った耳だけならエルフ族かもしれねぇが……闇の中でも爛々と光る眼は、紛れもなく悪魔族の証だなぁ」

「しかも悪魔族の中で尖った耳をしたやつらは、ヴァンパイアしかいないだろ!?」
「それから何人ものやつらが城の周辺で黒いフードの人影を目撃しているんだ! ああぁ、なんて穢らわしい!」
「今はもう誰も町はずれなんかに近付かねぇよ。早く化け物を殺してきてくれ、頼むよ悪魔ハンターさん……!」


次々とガッシュに集い、客達は捲し立てるようにして言った。
その中でも、最初にカウンター席でマスターと会話を続けていた馴染みの客が、全てを諦めた口調で振り返った。

「化け物は様子を窺っているのさ。オレ達が絶望し、憔悴する時を待っている。その時こそ、この町の終わりだ。
 たった一人のヴァンパイアに町の住人が皆殺しにされた話も聞いたことがある。やつらは血に飢えた魔獣だよ」

「……まぁ、あり得る話だな。でもよ、そんなに絶望してんならさっさと町から逃げ出せばいいんじゃねぇか?」
「で、できるわけがないだろう!」
「はぁ?」
「言っただろ、化け物は様子を窺っているって。少しでもおかしな動きをすれば、やつは必ず襲ってくる!」

「てことは、誰もその化け物のフードを取った姿を見たことがねぇってか。おいおい、他に何か情報はねぇのか」


無力な町人達は、ひたすら恐怖と戦いながら逃げ出すこともできずに日々を過ごしている。
悪魔族と戦い慣れたガッシュだからこそ平然としていられるのだ。……無力な人間ならば、恐怖で何もできない。
しかし黒いフードや長く尖った耳しか情報が入ってこないのも困りものだ。性別や相手の武器で戦い方が変わる。

その時。少し離れたテーブル席に座っていた若い男が、遠慮がちに進み出てきた。茶の髪に純朴そうな顔付きだ。


「あ、あの……実はオレ、化け物の素顔を見たことがあるんだ。今まで誰にも言えなかったけど……」
「ちっ。勿体ぶりやがって、ちゃんといい情報持ってるんじゃねぇか。それで、どんなやつだ。やっぱり男か?」

「この目でしっかり見たよ。青い髪で、夢でも見てるんじゃないかってくらい……綺麗な顔をした若い男だった」
「青い髪だって? そんなやつ本当にいるのかよ。寝惚けてたんじゃねぇだろうな?」
「本当だよ! そうやって疑われるから誰にも言いたくなかったんだ」

「分かった分かった、信じてやるよ。相手は青い髪をした、尖った耳の若い男か。残念だな、女じゃねぇのかよ」


ステーキの最後の一切れを口に詰め込んだガッシュは、口の脇を袖口で軽く拭う。
凄腕の悪魔ハンターの登場で、周囲の客達の表情も若干明るい。ほっとしたような本心からの笑顔を浮かべていた。





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