Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第6章 Melodies of Heart
第53話 若き伯爵の抒情詩 -2-
町はずれの荒野。月の光を受けて、ひっそりと佇む古城。所々朽ちかけており、人の気配はまるで感じられない。
かつては荘厳美麗だったであろう装飾や塗装は長年の雨風に曝され続け、今では見る影もなかった。
この周辺一帯を治めていた孤独な男爵の住まう城だったが、彼は打ち首となり住んでいた者達も離散してしまった。
男爵は幾人もの召使いをこの手で殺め、その生き血を啜っていたそうだ。
奉公に出たまま戻ってこない家族を心配し、城に詰めかけた町人達が目にした光景は……正にこの世の地獄だった。
城中に転がっている数々の死体は、まだ温かな新しいものから異臭を放ち腐り落ちた古いものまで様々であった。
夥しい数の死体の中心で、生温かい血の風呂に満面の笑みで浸かっていた男爵は既に正気を失っていたのだという。
一体何が彼を狂気に走らせてしまったのか。男爵亡き今は理由を知る由もなく、そして誰も知ろうとはしなかった。
今では数少ない老人達だけが心に秘めている悍ましい昔話だ。
……いつかは、この悍ましい昔話を記憶している者達もいなくなり、朽ちていく城と共に風化していくのだろう。
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古城の崩れかけた大きな窓。青白い月の光が一杯に差し込むその窓枠には、一人の若い男が凭れ掛かっていた。
瞬きすら忘れたその様子は、生という活動を完全に放棄してしまったようであり。精巧な人形のような青年だった。
月の光を受けて煌く艶のある青い髪に、滑らかな白皙の肌。透き通った硝子を連想させる、薄いアイスブルーの瞳。
彼は美しかった。この世の何者も敵わぬほど美しかった。しかし、言い換えれば……ただ美しいだけの存在だった。
冷たい石の床には楽譜と古いピアノの残骸が散らばっている。この広い部屋は恐らくダンスホールだったのだろう。
楽譜は所々インクが滲んでおり、一目で相当の年月を重ねている楽譜なのだと分かる。
まるでそこに鍵盤が存在しているかのように、青い髪の青年は何かを口遊みながら軽く片手で地面を弾いていた。
……だが、その指がぴたりと止まる。男にしては細い指に、少々厳つい装飾の銀の指輪がいくつも嵌められている。
明らかな敵意が近付いてくる。どうやら歓迎できない客が訪ねてきたようだ。長いまつげを瞬き、彼は目を細めた。
静寂に包まれていた城内に乱暴な足音が響き渡る。人数は一人。体格のいい男の足音だ。粗暴な男だと察せられる。
足音は真っ直ぐにこちらへ向かっており、やがてそれは靴の裏に付着した砂利を踏む音と共にぴたりと止まった。
月明かりに照らされた来訪者は、長い茶の髪を背後で無造作に結わえた中年の男であった。
無精ヒゲの目立つ顎に鍛え抜かれた体躯。その割には腹の贅肉が目立つ。不自然なほど大きな荷物を背負っていた。
にやにやとした笑みを口元に浮かべながら、来訪者の男は全く恐れもせずに青年へと無遠慮に歩み寄って行く。
「よぉ、ヴァンパイア様。噂どおりマジでいやがったな。皆が恐れ慄いてこの城には近付かないとでも思ったか?」
「……」
「オレの名はガッシュだ。悪魔族の天敵、悪魔ハンターだよ。お前だろぉ? ここ最近町を騒がせている悪魔族は」
「ご丁寧に自己紹介をどうも、悪魔ハンター殿」
背筋が凍るような無感情な声。それなのにどこか甘さを帯びており、理性をぐらぐらと揺さぶられるような錯覚。
青年クウォルツェルト……クウォーツは静かに顔を上げると、招かれざる来訪者に向かって口を開いた。
ガッシュと名乗った男は、月明かりに照らされたクウォーツの姿を目にすると下卑た笑みを浮かべて口笛を鳴らす。
「……こいつはすげぇな。美しいとは聞いていたが、お前ほど綺麗なやつは女でも見たことがねぇ。正直驚いたぜ」
「私を捕らえに来たのか」
「そのつもりだったが、殺しちまうのは勿体ねぇな。へへへ、一回抱かせろよ。減るもんじゃねぇし。いいだろ?」
「生憎、品性の欠片もないような者に抱かれる趣味は持っていない」
下卑た視線を投げかけられても、相変わらずクウォーツは無表情のままだ。
そもそも彼は欲望を向けられることに慣れ過ぎていた。今更何を思うわけでもない。そして元々何も思わなかった。
感情の大部分が欠如しているのだ。笑いもせず怒りもせず。それが、彼が『生ける人形』と呼ばれる所以であった。
「死にたくなければ今のうちに去れ」
「おいおい、冷たいねぇ……オレはお前に会いたくて仕方がなかったのによぉ。知ってるか? お前の賞金額を」
「……」
「七百万リン、生死は問わずだ。お前なら死体でも悪魔族コレクターに高く売れるだろうよ。数千万リンはいくな」
羽織っていた外套を脱ぎ捨てるガッシュ。
垢で黒ずんだ太い腕を背後に回し、背負っていた荷物から銀色に輝くクロスボウを取り出した。対悪魔用の武器だ。
「知ってるかぁ? 金持ちはすっげぇ変態が多いんだ。やつらに売られたら最後、死んだ方がマシかもしれねぇぞ」
「去る気はないか」
「当然だろ? こんな極上の獲物を前にして去るわけねぇだろ。まぁ、大人しくしてりゃあ優しくしてやるからよ」
「……ならば死ね」
静かに立ち上がったクウォーツは虚空に向かって左手を伸ばした。一見緩やかに見える動作だが、全く隙がない。
彼が伸ばした指先に濃い深紅の霧が出現し、生き物のように複雑に絡み合いながら徐々に剣の形を作り上げていく。
毒々しい薔薇の装飾が特徴の長剣。まるでクウォーツのためだけに作られた、彼に似た美しくも妖しい剣であった。
「どこからでも」
抑揚のない声色。妖刀幻夢を構えるクウォーツだったが、やはり先程から彼の表情は何一つ変わることはない。
長年多くの悪魔族と戦ってきたガッシュでさえ、一瞬だけ躊躇してしまうほど彼には感情の動きが存在しないのだ。
それでも口元には余裕の笑みを浮かべたままのガッシュ。負ける気は毛頭もないのだろう。
「さすがに少し気味が悪ぃな……本当に人形みたいなやつだぜ。確かに悪魔族ってのは喜怒哀楽が薄いけどよぉ」
「……」
「それでも今までぶち殺してきた悪魔族どもは、お前に比べたら全然人間らしかったぜ!」
台詞を言い終わらぬうちにクロスボウの引き金を引く。
窓から差し込む月の光を受けて煌く矢が、寸分の狂いもなく真っ直ぐにクウォーツの急所を目掛けて発射された。
しかし素早さを誇る悪魔族の中でも抜きん出た身体能力を持つ彼にとって、それは取るに足らないことであった。
あっさりと矢を避けると、しなやかに伸びた足の筋肉をばねにして地面を蹴った。
目にも留まらぬ速さは青き突風のようである。そのままガッシュの構えるクロスボウの先端へふわりと着地する。
「これで終わりか。それならば首を刎ねるだけだが」
「舐めるなよ、この化け物が!」
プライドを傷付けられ、ガッシュは怒りを帯びた口調でクロスボウを振り払うが。
クウォーツは彼の手からクロスボウを蹴り落として反動をつけると、天井の朽ちたシャンデリアへ飛び移ったのだ。
古いシャンデリアは彼が飛び乗った衝撃でぐらぐらと激しく揺れていたが、意外にも頑丈で落ちてくる気配はない。
「ちょこまかと逃げ回りやがって、人間様を馬鹿にするんじゃねぇぞ淫売が。くらえ!」
蹴り落とされたクロスボウをすぐさま構え、シャンデリアに向かって乱射するガッシュ。白銀の雨宛らであった。
どこか美しいとすら思えるような光景。だが一本でも矢を受ければクウォーツにとっては厄介なことになる。
神から洗礼を受けた聖なる金属として、呪われた存在を打ち砕くという白銀は悪魔に対して絶大な威力を誇るのだ。
どうやら早めに終わらせる方が良さそうだ。
そう判断したクウォーツは乱射された矢を剣で弾き返し、ドレスコートの裾をはためかせながら床へと飛び降りる。
慌てて矢を装着するガッシュの隙を見逃すわけもなく、一瞬で間合いに入ると肩から腹にかけて深く斬り付けた。
「ぐあっ!?」
厚い胸板に深紅の傷がくっきりと刻み込まれ、血飛沫が舞う。
鋭い痛みに思わずガッシュは膝を突くが、クウォーツは躊躇いもなく彼の首を目掛けて妖刀幻夢を振り下ろした。
……だが。先程の衝撃で背後で結わえていたガッシュの髪紐が解け、長い茶色の髪がクウォーツの視界に広がった。
長い茶色の髪。
髪の毛質は全く違う。彼女はこんな薄汚れた髪ではなく、もっと艶やかで滑らかな長い茶色の髪をしていたはずだ。
それなのに一体何故見間違えてしまったのだろう。
今まで何一つ動くことのなかったクウォーツの表情が、……ほんの一瞬だけ緩んだ。
「この化け物、どこを見てやがる!」
その隙を見逃さず、顔を上げたガッシュがクロスボウの引き金を引く。
クウォーツにあるまじき失態である。勢いよく発射されたクロスボウの矢は彼の軸足となる左足に深く突き刺さり、
肉を焦がす痛みに体勢を崩した彼に二本目の矢が向かっていくが、それを紙一重で避けたのはさすがと言うべきか。
だが生命線である左足を射られたのは痛恨のミスだった。彼の強さは、その驚異的な瞬発力に依るところが大きい。
これはチャンスだとばかりにガッシュは勢いよくクウォーツに飛び掛かり、二人は縺れ合いながら転がっていった。
負けじとクウォーツも抵抗をするが、両者の体格の違いは顕著であり、馬乗りになったのはガッシュの方であった。
「……オレを前にしながら隙を見せるなんて、随分と余裕じゃねぇかヴァンパイア様よ。それが命取りになったな」
勝ち誇ったようにガッシュは口元を歪めるが、床に押さえ付けているクウォーツの表情を目にすると舌打ちをする。
相変わらずの無表情だった。悔しさに眉を顰める様子もない。言ってみれば、美しい人の形をした抜け殻であった。
しかし少しでも気を抜けば、クウォーツが纏う危うい深淵に飲み込まれてしまいそうだ。非常に危険な存在である。
「どうだ? 呪われた存在を打ち砕くと言われている白銀の威力は。オレの武器は全て白銀で作られているんだ」
「……」
「いくらすげぇ回復力の悪魔族でも、白銀で受けた傷は治りが遅い。お前の左足は暫くの間使い物にならねぇよ」
矢が刺さった左足の感覚は既になかった。痛いのか熱いのか、それすらも分からない。
そんな状態でもクウォーツは手足を投げ出したまま、硝子のような薄い色の瞳でガッシュを見つめているだけだ。
彼が口を開く相手は至極限られている。警戒する相手に対しては徹底して意思のない人形として接しているのだ。
「なんだよ、ピンチだってのに惨めに泣き叫んでくれないと張り合いがねぇな。本当に綺麗なだけのお人形かよ」
あまりにも無防備すぎるクウォーツの様子だったが、僅かな疑いも持たずにガッシュは加虐の表情を浮かべる。
身体を押さえ付けていた手を放し、完全にクウォーツの美貌に目が眩んでいたガッシュは彼の顔に手を伸ばした。
その瞬間。突如クウォーツの双瞳が見開かれ、勢いよくガッシュの腹を蹴り上げたのだ。
完全に意表を突かれたガッシュは、何が起こったのか理解できぬまま目を白黒とさせながら大きく仰け反った。
白銀の矢が刺さったクウォーツの左足は、ガッシュの言ったとおり使い物にはならないだろう。
そんな状況で勝つために可能な反撃方法は何かと模索する間もなく、意思とは裏腹に彼の身体は勝手に動いていた。
クウォーツは身体を捻って素早くガッシュの下から這い出し、その勢いのまま彼を渾身の力で突き飛ばす。
……ごん、という鈍い音が鳴り響いた。
石の地面に強く後頭部を打ち付けたガッシュは暫くの間身体を痙攣させると、やがてぐったりと動かなくなった。
ガッシュからふいと視線を外したクウォーツの瞳には、既にこの男に対する関心は完全に消え去っていた。
足に突き刺さっていた白銀の矢を乱暴に抜くと、床に放り投げる。どこか安全な場所で左足の手当てをしなければ。
転がっていた妖刀幻夢を手繰り寄せ、剣を支えにしながら立ち上がる。ここにいるのは危険だと判断したためだ。
辺りに散らばる白銀の矢に、ぴくりとも動かないガッシュの身体。クウォーツが進むたびに点々と残していく血痕。
そんな光景を、青白い月の光だけがただ静かに照らし続けていた。
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