Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第6章 Melodies of Heart

第54話 出会いは淡い満月の夜に




「スミスさん。今日の配達は全て終わりました」

野太く潰れたような男の声と共に扉が開き、見上げるような大男がスミスと呼ばれた中年の男に軽く会釈をした。
丸太で組み立てられた、大きいが質素な家であった。先代から細々と野菜農家を営んでいるスミスという男の家だ。
玄関前には野菜の入った籠が所狭しと並んでおり、その中には配達先の札が括り付けられている籠も見受けられる。

暖炉の前で腰掛けながら野菜の仕分けを行っていたスミスは、野太い声に不快感を隠そうともせずに顔を上げた。
戸口に立っていたのは猫背の目立つ大男。短く切り揃えられているぼさぼさの黒髪。歪んで潰れたような大きな鼻。
どこか草食動物を連想させる、黒目がちで小さな瞳。片目は不自然に肉に埋もれているが、とても怯えた瞳である。

眉はなく、顔中に刻まれた深い皴。歪んだ口から覗く歯は異常な生え方をしており、捲れた唇に胼胝を作っていた。
一言で形容するならば奇形だ。彼は誰もが顔を背ける非常に醜い男であった。まだ若く、恐らく二十代後半だろう。


「ああ……ヘイムダルか。遅かったな、相変わらず要領が悪いやつだ、数件の配達でこんなに時間をかけるなよ」

大男の姿を見るなり不快な表情を浮かべながら口を開くスミス。
ヘイムダルと呼ばれた大男は、向けられた悪意にびくりと震え、巨体に似合わず背中を丸めて小さくなっていく。
彼はとても気が弱く、人の悪意にとても敏感だった。歪んだ猫背は、長年続けてきたその動作が大きな原因なのだ。


「お前、また酒場のポルタさんから苦情が来ていたぞ。飯が不味くなるから、店の中にまで入ってくるなってよ」
「で、でも」
「先日も言われたばかりだったじゃないか。そのでかい頭は単なる飾りなのか? 本当に役立たずの木偶の坊だな」
「ポルタさん、忙しそうでしたし……店内まで野菜を持っていった方がいいと思って、悪気はなかったんです……」

巨大な体躯に似合わず、消え入りそうな小さな声であった。ヘイムダルは瞳に涙を浮かべながら俯いてしまった。
彼は他人の目を見て話すのがとても怖かった。明らかな悪意と不快感を己に向けられるのが心底恐ろしかったのだ。
そんないじけた態度が余計にスミスの神経を逆撫でさせてしまうことに、勿論ヘイムダルは気付いていなかった。


「馬鹿野郎! 悪気はなかったとか、そういう話じゃないんだ。どうしてお前は言ったことを守れないんだよ!?」
「ひっ!」
「ポルタさんはお前がいると飯が不味くなると言っているんだ! お前の行動は嫌がらせ以外の何物でもない!!」
「すみません……本当に、すみませ……」

「……ったく。親友の遺言じゃなければ、誰がお前みたいな泣き虫で役立たずの木偶の坊を雇うっていうんだよ」

ぼろぼろと涙を零し、ヘイムダルは唇を噛みしめたままこの時間が過ぎ去ってくれるように祈り続けるだけだった。
声が上手く出せない。言いたいことは沢山あるのに、胸に抱えている思いは沢山あるのに。言葉に出せなかった。
ヘイムダルの亡き父親は、生前スミスと親友だったそうだ。母はずっと昔に父子を置いて出て行ってしまっている。

奇形を持って生まれてきた己の息子が周囲にどう思われているか父親ならば一番理解していただろう。
この先息子が一人でも生きていけるように、ヘイムダルの父はスミスに息子を雇ってもらえるように懇願したのだ。


「もういいよ、お前のいじけた態度を見ているだけでも気分が悪くなる。早く帰れ」
「はい……本当にすみませんでした。もう二度と言い付けを破りませんから、どうか明日も働かせてください……」
「分かってるよ! オレだって親友の最期の頼みくらいは守ってやるから。だから今日はさっさと帰ってくれよ!」

それだけ吐き捨てるように言うと、スミスはくるりと背を向けてしまう。
漸く顔を上げて涙を拭ったヘイムダルは静かに頭を下げ、背中を丸めながらとぼとぼと町外れの家まで歩き始める。


夜空には大きな満月が浮かんでおり、人通りのない夜道を静かに照らしている。娯楽といえば町唯一の酒場のみ。
こんな夜遅くに通りを出歩く者はおらず、それが人目を避けているヘイムダルにとっては都合がよかった。
彼の家は町外れの林の中にある。鬱蒼とした木々が茂る中に、まるで隠れ住むかのように建てられた家であった。

父と二人で暮らしていた頃は丁度よい広さの家だったが、十年前に父が死んでからはヘイムダル一人だけになった。

一人ではあの家は広すぎる。しかし、彼は決して家を手放そうとは思わなかったのだ。
町の人々がどれほどヘイムダルを虐げても、たった一人父親だけは温かい心で泣いて帰ってくる彼を包んでくれた。
優しい父親と暮らした思い出が溢れる家を手放すことなんてできない。あの家は、彼の幸せの象徴なのだから。


『お前の顔を見ると酒が不味くなるんだよ。スミスさんも物好きだよ、こんないじけた不細工を雇ってるなんてな』


酒場のマスター、ポルタに浴びせられた言葉がヘイムダルの中で何度も反響する。
幾度も己の容姿を呪ってきた。彼も自ら望んで醜い顔に生まれたわけじゃない。自分ではどうすることもできない。
もしも醜い容姿をしていなかったら。人並みの顔で生まれていたならば、もっと幸せな人生を送れたのではないか。

父親は決して語らなかったが、ヘイムダルの母親は醜い赤子に嫌気が差して家族を捨てたのだと人々が言っていた。
化け物と呼ばれることに耐えられなかった。人間なのに、同じ人間なのに。
皆もそれを知っているはずなのに、何故化け物と呼ぶのだろう。醜いというだけでこれほどの罪になるのだろうか。

道の先に見えてきた小さな林が涙のために段々と滲んでくる。
あの林の中にはヘイムダルの愛する家と庭がある。今よりもまだ幸せだった頃の、父親との思い出に浸れるのだ。
いつまでも泣いていては駄目だ。もうすぐ家に着く。大丈夫、そうすれば辛い記憶なんて全て忘れることができる。

袖で涙を拭うと、ヘイムダルは無理矢理笑顔を作って見せた。……まだ頑張れる。ちゃんと笑うことができるから。


暗くじめじめと生い茂った林の中に足を踏み入れると、僅かに心が安らいだ。
彼が大切に育てている可憐な花々が、彼の帰りを待ち侘びていたかのように揺れている。植物は決して裏切らない。
こんな小さな花でも、毎日を一生懸命に生きているのだ。身体の大きな自分が悩んでいることが滑稽に思えてくる。


「……みんな、ただいま」

自然に言葉が紡がれ、今度こそ本当に心の底からヘイムダルは笑顔を浮かべた。
朝方に小雨が降っていた所為だろう。水気を帯びた柔らかい土の道には、くっきりと彼の大きな足跡が残っている。
しかしヘイムダルの足跡とは別に、もう一つ別の足跡が残っていたのだ。彼の足跡よりも一回り以上も小さな足跡。

町の人々がこの林に近付くことはありえない。彼の家は化け物屋敷と呼ばれ、やんちゃな子供達ですら近付かない。
人々がヘイムダルに用事を押し付ける時は、必ずスミスに言伝を頼むのだ。彼と顔を合わせるのが嫌なのだろう。

ならばこの足跡は一体誰のものなのだろうか。首を傾げたヘイムダルは、林の奥に向かって続く足跡を辿っていく。
足跡は茂みに向かって途切れていた。何気なく顔をそちらに向けてみると、……茂みの中で人が倒れていたのだ。
長い剣を握り締め、人が倒れている。背格好から察すると男のようだ。ここで力尽き、死んでしまったのだろうか。


「あの……大丈夫ですか」

手遅れだろうとは思いつつも、ヘイムダルは俯せになって倒れている男の肩を揺り動かした。……反応はなかった。
思い切って身体を仰向けにさせると彼の頬に手を触れてみる。熱い。それに、じっとりとした汗の感触。

もしかしたら、彼を助けることができるのかもしれない。
まだ息がある様子にヘイムダルは思わずほっと胸を撫で下ろし、男を両手で抱き上げると家に向かって走り出した。
彼を抱き上げながら、その軽さに随分と華奢な身体だと思った。大切に扱わねば腕の中で壊れてしまいそうだった。


「もう大丈夫だよ。必ずオレが助けるから、それまで頑張って」

どんなに辛い目に遭おうとも、他人に対する思い遣りだけは日々忘れてはならないと父親から教えられ続けてきた。
相手に決して優しさの見返りを求めてはならない。いつも笑顔でいれば、必ず幸せが訪れるのだと。
鬱蒼とした林の中は薄暗く、倒れていた男の容貌は分からなかったが、恐らくヘイムダルよりも年若い青年だろう。

何故ここで倒れていたのか。どうやら町の住人ではないこの青年は一体誰なのか。町の外から何の目的で来たのか。
何もかもが分からないままであったが、ヘイムダルにとってはそれは些細なことであった。


木々に覆い隠されるようにして建っている我が家に辿り着くと、自室のベッドにゆっくりと青年を寝かせてやった。
短くなった蝋燭に火を点け、棚から薬草の詰まった薬箱を取り出した。
手当てといってもヘイムダルに医療の知識はない。止血や、薬草を使って包帯を巻いてやることしかできなかった。

そもそも怪我ではなく病気かもしれない。部屋の中が蝋燭の光で明るくなると、ヘイムダルはベッドを振り返った。
青年の容姿を初めて目にしたヘイムダルは、驚愕のあまり言葉を失ったままその場に硬直したように立ち尽くす。
世に存在するはずがない青い髪。長く尖った耳。それよりもヘイムダルの言葉を失わせたのは、その美しさだった。

夢でも見ているのではないかと思わずにはいられない、まるで神話から抜け出てきたような絶世の美青年であった。
この青年は間違いなく人間ではない。もしも青い髪でなければ、神の使いなのではないかと錯覚してしまうほどだ。


だが。最近恐ろしい噂話を耳にした。……青い髪をした凶悪な悪魔族が、町外れの古城を根城にしているのだと。
この青年を教会に突き出せば、町の人々は自分を認めてくれるだろうか。受け入れてくれるようになるのだろうか。
よくやったヘイムダル、と。雇い主のスミスも、酒場のマスターであるポルタも喜んでくれるのだろうか……?


「……うぅ……」

苦しげな声と共に、青年の眉が顰められた。その声に漸く我に返ったヘイムダルは顔を上げる。
先程までは気付かなかったが、彼を抱き上げた時に触れた手が赤く染まっていたのだ。出血部位は左足であった。
血と泥で汚れた裾を捲り上げると、足首に何かが刺さったような痕があった。周囲が青紫色に変色しているようだ。

こんな酷い傷で彼は歩き続けてきたのだろうか。何度かバランスを崩して転倒したのか、あちこちに擦り傷もある。
何のために、誰のために。血も涙もない凶悪な悪魔族も、人間と同じように死にたくないという感情があるのか。
青年を教会に突き出したとしても、ヘイムダルが町の人々から認められるという確証はない。

……それならば、悪魔族だとしても一つの命を救った方がずっといいのではないか。
先程までの暗い考えを振り払うように、意を決したヘイムダルはぐっと唇を噛みしめると立ち上がったのだった。





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