Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第6章 Melodies of Heart
第55話 若き伯爵の抒情詩 -3-
痛い……。
身体の痛みだったのか、それとも心の痛みだったのか。どこが痛いのかなんて、そんなこと分かるはずもなかった。
心の痛みなど、疾うの昔に失ってしまったはずの感情だった。
気付いた時には何も感じなくなっていた。日々少しずつ、ほんの少しずつ失くしてきて、気付けば殆ど失っていた。
自ら進んで意思のない人形に成り果てたのだ。けれど、そうしなければ心ごと全てが崩れ去ってしまいそうだった。
痛い……?
痛いと泣き叫べば、父はこれが愛情なのだと言った。誰よりも愛しているからこそ、このような行為をするのだと。
こんなものが愛だというのか。こんな、ただ痛みだけしか感じない行為が愛情の証だというのか。
愛しているなんて上辺だけ。囁かれても心が痛いだけ。飾られた甘い言葉なんて、全てが嘘に彩られているだけだ。
これを愛だというのなら、そんなもの……いらない……!!
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ぼんやりとするクウォーツの視界に入ったのは、見慣れぬ板張りの天井であった。
身体を動かそうとすると、まるで暫くの間動かしていなかったように重い。しかし全く動かないわけではなかった。
民家のようだが一体ここはどこなのだろう。廃墟となった城で悪魔ハンターを相手にしたところまでは覚えている。
悪魔族に絶大な効果を発揮する白銀の矢で、左足を射られたのだ。
神に祝福された金属といわれている白銀は悪魔族の皮膚を焼き、治癒力を大幅に下げてしまう厄介なものであった。
傷の手当てをするために、身を隠す場所を求めて城を離れたはずだ。気休めでも治療をしないよりはずっとましだ。
左足、という単語を漸く思い出したクウォーツは、己に掛けられている古びて色褪せた毛布を勢いよく捲り上げた。
バランスを崩して何度か転倒した時に負った擦り傷は、全てガーゼで手当てがされているようだ。
白銀の矢が刺さった左足は、薬草を染み込ませた包帯が手厚く巻かれている。どうやら出血は止まっているようだ。
「……?」
誰がこんなことを。一体何の目的で。そもそも悪魔族である自分を助けてくれるような物好きがいるとは思えない。
注意深く周囲を見回してから、そこで初めてクウォーツは己が何も衣服を身に着けていないことに気が付いたのだ。
ほんの一瞬だけあの悪魔ハンターの下卑た欲望の眼差しが過ぎったが、身体に犯されたような痕跡は見当たらない。
ならば手当ての邪魔になるために脱がせたのだろう。それは分かるが、せめて何か着せてくれてもいいじゃないか。
外はまだ寒さが残っており、傷を治す前に風邪で寝込むかもしれないだろうと、彼は場違いなことを考えていた。
悪魔族も病気に罹る。恐ろしく異質な魔物なのだと人々に思われているらしいが、基本は人間の身体と変わらない。
ただ人と比べて……日光に弱く、魔力が高く、血や精気を糧としているだけである。……やはり異質かもしれない。
改めて周囲を観察してみる。簡素な民家の一室のようだ。小さな暖炉では炎がゆらゆらと揺れていた。
ベッド脇のテーブルにはガラスで作られた写真立て。見知らぬ親子が写っている。どちらかが部屋の持ち主なのか。
素朴で華やかな印象はない。しかし、温かさを感じる部屋であった。勿論クウォーツには何も感じられなかったが。
ここがどこであれ即刻立ち去るのが賢明だろう。妖刀幻夢はベッドから少し離れた戸棚の横に立て掛けられていた。
重い身体をゆっくりと起こし、衣服の代わりに白いシーツを身体に巻き付ける。これで寒さは若干凌げるだろう。
まずは右足で床に触れてみるが、痛みは感じない。続いて左足を床に触れさせた瞬間。
射抜かれた時の激痛が全身を走り、大きくバランスを崩して転倒してしまった。歩くのを諦め、這って進んでいく。
なかなか惨めな姿だと、クウォーツは這い蹲りながらそんなことを考えていた。白銀の矢一本で歩けなくなるとは。
それでも、どんな姿でも生きなければならない。生を諦めてしまった時点で、意思のない人形に逆戻りなのだから。
妖刀幻夢まであと少し。あと少し進めば、手を伸ばせば届くはず。
その時。
前触れもなく突然部屋の扉が開き、恐ろしく醜い顔立ちの大男が姿を現したのだ。手には包帯や薬瓶を抱えている。
勿論その醜い大男はヘイムダルであり、這い蹲りながら剣に手を伸ばすクウォーツを目にすると慌てて駆け寄った。
「ち、ちょっとあんた! そんな身体で何をやっているんですか!?」
「……動くな」
だがクウォーツはそれよりも早く妖刀幻夢を掴むと、目にも留まらぬ速さで切っ先をヘイムダルに突きつけたのだ。
剣を向けられたヘイムダルは目を白黒とさせながら驚きの表情を浮かべているだけである。状況が分かっていない。
当然のことだろう。ヘイムダルは悪意を向けられることは多かったが、剣を向けられることは初めてだった。
「貴様は誰だ。私を助けた理由を言え。貴様も悪魔ハンターの仲間か」
「えっ? あ、あの……」
「正直に言え。言わねばその首を落とす」
「正直に言えって……怪我をして倒れている人がいたら、手当てをするのは当然のことじゃないですか……?」
その図体には似つかわしくはない気弱な声。決してクウォーツと目を合わせることはせず、下を向いたままだった。
おどおどとした態度。どうやら悪い人間ではなさそうだが、飛び掛かられては圧倒的にクウォーツが不利である。
善良そうな人間に見えても悪意の形は様々だ。正義感が強ければ、悪魔族は全て悪だと考えている可能性もあった。
「私には高額な賞金が掛かっていると聞いた。悪魔ハンターに売りつける気か。だが、まだ捕まるわけには……」
「違う!!」
「!」
妖刀幻夢を支えにして立ち上がろうとしていたクウォーツの両肩を、ヘイムダルは涙を浮かべたまま乱暴に掴んだ。
彼にとっては恐らく些細な力で掴んだつもりなのだろうが、力の加減が全くできていない。みしみしと軋む関節。
そのお陰で再び体勢が保てなくなったクウォーツは床に倒れてしまった。咄嗟に受け身を取ったが痛いものは痛い。
「確かにそう考えたこともあった……けれど、そんなことをしたってオレの立場が変わるわけじゃないんだよ!!」
「……」
「どうせあんたもオレの顔が醜いからって軽蔑しているんだろ!? オレだって、オレだって……本当はみんなと」
クウォーツの両肩を掴んだまま、顔を伏せて小刻みに震えているヘイムダル。小さな目から涙が溢れ続けていた。
やはりこの美しい悪魔族も町の人々と同じように醜い存在を軽蔑しているのだと、彼は絶望に打ちひしがれていた。
そんな様子を興味がまるでない顔付きで眺めていたクウォーツだったが、やがて淡々とした低い声を発した。
「手を放せ。私に気安く触れるな」
「す……すみません……」
「そもそも、醜いから軽蔑するという言葉の意味が分からない」
「……え?」
「他人の容姿が美しかろうが醜かろうが、全くどうでもいい。そんな下らない理由で私が態度を変えることはない」
クウォーツの声に感情は一切込められていなかったが、それは嘘偽りのない真実の言葉であった。
彼は他人の容姿に頓着をしない。相手がどんな美女や醜女だとしても、容姿で態度を変えたことは一度もなかった。
今も昔も変わらず大切に思っているのは醜女のギョロイアであり、美女であるリアンの愛情に今も気付いていない。
「下らない……? あんたが言うそんな下らない理由で、オレが今までどれほど苦しんできたと思っているんだ!」
「それが下らないと言っている」
「そりゃあ、そんなに綺麗な顔で生まれてきたあんたには下らない理由だろうよ! でも、オレにとっては……!」
「とっては?」
「オレにとっては……大きな理由なんです。あんたに分かりますか? 自分に向けられる差別や嫌悪の眼差しを」
「やはり下らない理由だ。差別や嫌悪の眼差しだと? それを青い髪である私に言うのか」
「あ……」
「誰に何を言われても、堂々としていればいい。他のやつらなど関係がない。私はそう生きている」
ヘイムダルは完全に失念していたのだ。青い髪は、本来この世に存在してはいけない髪の色だと聞いたことがある。
人として認めてはいけない。存在そのものが大変罪深く、災いを運び来る忌み子であるのだと。
美しければ誰もが幸せになれるとは限らない。美貌で不幸を呼び込む者もいる。そしてクウォーツはそんな人物だ。
だからこそクウォーツは、己の醜さを呪い続けているヘイムダルに『下らない理由』だと言ったのだ。
ぐすぐすと鼻を鳴らしながら顔を伏せて泣き続けるヘイムダル。大男が背中を丸めて泣き続ける姿は異様であった。
泣き虫で役立たずの木偶の坊。おぞましく醜い奇形の化け物。いじけた態度の大男。顔を見ると飯が不味くなる。
今まで人々から言われ続けてきた悪意ある言葉が、ヘイムダルの中でいつまでも渦巻いていて涙が止まらなかった。
恥も外聞もなく泣き続ける彼に向き合う形で床に座り込んでいたクウォーツは、硝子の瞳で感慨もなく眺めていた。
どうやら悪魔族のクウォーツに対して敵意は抱いてはいないようだ。少なくとも悪魔ハンターとは無関係だろう。
僅かに安堵した所為なのか、その時クウォーツはいつものようにほんの気まぐれを起こしたのだ。
気分屋な悪魔族らしい行動だった。それが一人の男の人生を大きく変えてしまう結果に繋がるとは夢にも思わずに。
「……会話をする時は、相手の目を見て話せ」
そう言ったクウォーツは、両手を伸ばしてヘイムダルの頭を掴む。俯いていた顔を無理矢理己へと向けさせたのだ。
薄青の瞳と黒い瞳が初めて見つめ合う。尚も顔を背けようとするヘイムダルだが、クウォーツはそれを許さない。
まるで睨み合うように至近距離で顔を合わせる二人。それでもヘイムダルは、耐えきれずに目を逸らし続けていた。
「も……もう許して下さい……」
「何故私を見ようとしない。悪魔族の存在は目を逸らしたいほど不快なのか」
「そういうわけじゃないですよ。でも……」
「でも?」
「オレが目を合わせた瞬間、相手は顔を歪めながら背けるんです」
「それで?」
「そ、それなら……オレが目を合わせなければいいんですよ。相手もオレの顔を見ないで済むじゃないですか……」
「私は貴様から顔を背けているか」
「……」
その言葉に、ヘイムダルはぎこちなく視線を向ける。
クウォーツは相変わらず無表情であったが、顔を逸らすようなことはせずに真っ直ぐに彼の瞳を見つめていたのだ。
まるで硝子のように薄い色の瞳。それでも相手の心を少しでも読み取ろうと、ヘイムダルの黒い瞳を見つめていた。
「……あんたは」
「?」
「本当に真っ直ぐオレの目を見てくれるんですね」
「今頃気付いたのか」
「気付くわけないでしょう。だって父親以外でオレのことを真っ直ぐに見てくれたのは……あんたが初めてだった」
初めて笑顔を浮かべたヘイムダル。
その厳つい体躯からは想像もつかないような、優しい彼の心をそのまま表したような。とても純粋な笑顔であった。
嬉しそうに笑っていたヘイムダルだが、改めてクウォーツの姿を目にすると顔を赤くして突然目を逸らしてしまう。
「あ、あの」
「?」
「その格好は……いくらなんでも目のやり場に困るんで……」
「は?」
床に座り込んでいたクウォーツは己の格好を眺めると、衣服を身に着けていなかったことを思い出したのだ。
そういえば身体に巻いていたシーツも落ちてしまっていた。辛うじて太腿に絡まっているが随分と扇情的な格好だ。
先程から肌寒さを感じていたのはこのためだったのか。しかし勝手に脱がせておいてそれはないだろうと言いたい。
「……手当ては感謝するが、素裸で放置はどうかと」
「あんたの服は血と泥だらけだったんで洗ったんですよ! オレの服じゃサイズが全然合わなかったので……」
「そもそも脱がせた時に全部見ているだろ。今更何を言っている」
「それは……あんたがあまりにも綺麗だから……。とにかくベッドに戻って下さい。怪我人なんですからね!?」
顔を真っ赤にさせたヘイムダルは、冷たい床に座り込んでいたクウォーツをシーツごと抱き上げてベッドに向かう。
今度は力の加減をよく考えたのだろう。まるで壊れものを扱うように、彼をゆっくりとベッドの上に下ろした。
一刻も早くこの家から立ち去らなくてはならないというのに。残念ながら、再びベッドに逆戻りとなってしまった。
「あんたは悪魔ハンターに追われている身なんですよね?」
「……」
「大丈夫。この家には絶対に誰も訪ねてきませんから。だから悪魔ハンターなんかには絶対に見つかりませんよ」
少々ぎこちなかったが、ヘイムダルはしっかりとクウォーツを見つめて笑顔を浮かべて見せる。
「あっ、そうだ。自己紹介がまだでした。オレの名前はヘイムダルっていうんです。よろしくお願いしますね!」
「長い付き合いにする気はない」
「そういう台詞は歩けるようになってから言って下さいよ。あんた、五日も熱が下がらなかったんですからね?」
……ということは、悪魔ハンターを相手にしてから五日も経ってしまったのだ。
あの執念深そうな男がこのまま諦めたとは考えにくい。恐らく今回の件でクウォーツを相当恨んでいることだろう。
だがこの足では、遠くまで逃げ切れる自信がない。ましてや相手は悪魔族との戦いに長けた熟練のハンターである。
まずは安静にして少しでも回復しなければ。クウォーツは口を閉ざしたまま、ふいとヘイムダルから視線を外した。
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